ツーリング日和7(第7話)遠野物語

 翌朝は眠ったと思ったらコウに起こされた。一緒にシャワーを浴びて着替えと荷造りだ。つうのも秋田到着が五時五分なんだ。秋田ではフェリー到着と共に下船が始まるから、それまでにスタンバイしておかないとならないんだよね。

 ボーディング・ブリッジから下りたんだけど、ありゃ、これは殺風景だ。秋田っぽいとこなんか、なんにもないじゃない。

「フェリーターミナルなんて、どこもこんなものだよ。それにいきなりなまはげが出てきて歓迎されたらビックリするだろう」

 たしかに朝っぱらからなまはげに歓迎されたら腰抜かす。フェリーから下りたら東北ツーリングの始まりだけど、まずは朝食よね。

「そうなんだけど・・・」

 コウに言わせると、とにかく早すぎるそう。たとえばフェリーターミナルにも食堂はあるそうだけど七時からでまだ開いていないんだって。これは秋田市内も似たり寄ったり状態つうか、日本中どこでもそうだろう。あるとしたら二十四時間オープンのところぐらい。

「だから盛岡に行く」

 秋田市内でストリート・ピアノを弾くにも早すぎるものね。早朝の秋田市内を抜けて秋田北ICから秋田自動車道に。協和ICで下りて、国道三四一号からさらに国道四十六号を走り、道の駅協和に。

「ちょっと休憩」

 道の駅は開いていない。そりゃそうだ。まだ六時過ぎだもの。ジュースとトイレ休憩を済ませて出発。角館も通ったけどまだ早すぎるから通過、田沢湖もパスして一時間ほどで道の駅雫石あねっこ。ここもトイレ休憩程度、だってまだ七時過ぎぐらいだから開いていないんだよ。

「あれが駒ケ岳で、あっちが岩手山だよ」

 そうなんだ、でもさすがに腹が減った。でも開いていないものはどうしようもない。朝食は盛岡で良さそう。やがて盛岡市内近づいたところで、えっ、市内じゃなく盛岡ICから東北道なの。北に走って滝沢中央ICで下りて、しばらく走ると開いてる店があるじゃない。

「ここで朝食にしよう」

 へぇ、月が丘食堂って言うのか。中に入るとここはセルフなのか。思いの外にメニューは充実してるじゃない。コウはこの店を知ってて秋田から走って来たで良さそう。ユリは朝定食にしたけど、

「ここのカレーも美味しいよ」

 コウは朝カレーだ。一口食べさせてもらったけど美味しいよ。コウは食事をしながら、

「こういう朝はしっかり食べたいだろ」

 まだ八時過ぎだけど、起きてからなら四時間ぐらいだものね。コウによると、今度のツーリングで秋田にフェリーで行けるのはメリットとだけど、とにかく到着時刻が早いのはネックだって。ツーリングでも早朝出発は良くあるけど、さすがに五時出発はないものね。

「今日は盛岡で弾くの」
「いや遠野だ」

 遠野って民話の故郷。

「ボクも初めてだから楽しみだ」

 盛岡でストリート・ピアノを弾こうにも十時ぐらいまで待たないと無理だって。まあそうだろうな。でもって遠野では依頼演奏みたい。九時には月が丘食堂を出発して再び東北道に。花巻JCTで釜石自動車道に乗り換えて遠野ICに。

「東北も自動車道が整備されてて助かるよ」

 盛岡から一時間程だものね。でも遠野は楽しみだ。ユリも遠野物語は好きなんだよ。その舞台の地に行けるなんて夢みたい。コウの演奏まで時間があるから遠野巡りだ。

「ユリが遠野物語に詳しいとは意外だね」

 まあね。遠野物語は柳田国男の代表作の一つだし、柳田国男は日本の民俗学を確立させたとまで言われてる。遠野物語自体は遠野の民間伝承を集めた本だけど、

「当時は西洋流の合理主義が強かったそうだね」

 今でも強いんだけど、当時は民俗学なんか無用の長物とか、日本の発展に不要なんて風潮があったのが時代背景なのよね。だから当時も民俗学として見る人は少なくて、奇譚集みたいな見方をされて、評価もされたけど島村藤村や田山花袋からは、

『粗野を気取った贅沢』
『道楽に過ぎない作品』

 こんな酷評も受けてるぐらい。だけど柳田国男が目指したのは、こういう民俗に基づいた伝承の収集が目的であり、たまたま文才があったから文学作品としても受け入れられたぐらいと見た方が良いと思う。序文でも、

『・・・鏡石君は話し上手に非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり』

 余計な虚飾をなるべく排したとしてる。さらに、

『国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陣勝呉広のみ』

 秦末の陳勝呉広を例えに出してる辺りに柳田国男の心意気が示されてると思うんだよね。遠野物語の成立には佐々木善喜の功績が大きいのだけど、この人も数奇な運命の人になる。最初は岩手医学校に進み医師を目指すも中退し、次に哲学を学ぶために東洋大学に、さらに文学を志して早稲田の文学科に進んでる。

「作家としては芽が出なかったんだよね」

 それは結果論だけど佐々木が東京で活動中に知り合ったのが柳田で、柳田は佐々木の知っている遠野の伝承に興味を持つことになるんだよね。ここも偶然があって、佐々木の祖父が語り部として良いほどの知識があり、これを柳田に伝えることが出来たぐらいかな。

 佐々木は結局のところ作家としてはヒットに恵まれなかったから、民話や民間伝承の蒐集に力を入れて、日本のグリムと呼ぶ人もいるぐらい。

「金田一京助の評価だよね。でも多額の負債で家財を整理して仙台に移ってるよ」

 佐々木みたいな人生を送る人は数えきれないぐらいいるけど、それでも佐々木は幸せかもしれない。遠野物語がこの世に残る限り、佐々木のペンネームである佐々木鏡石も残るものね。それだけの名を遺せる人も殆どいないもの。

 遠野も広いと言うか観光名所が散在してるみたい。全部回ってたら一泊二日となってるぐらいだって。そりゃ、見れるものなら全部見たいけど、どこかに絞るのなら、

「遠野の物語を訪ねる 伝承の小道 散策コースにしよう」

 これでもチャリで約二十七キロ、四時間とは結構なもの。バイクだから早くなると思うけど、まずは遠野郷八幡宮。ここは頼朝の奥州征伐ぐらいが起源になってるけど、それより遠野物語の、

『ゴンゲサマというは、神楽舞の組ごとに一つずつ備われる木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。甚だ御利生のあるものなり』

 ゴンゲサマは火伏の神様で今でも正月十五日に拝殿で見ることが出来るそう。次はキツネの関所だ。

「これは日本中にある話だね」

 旅人が美女に誘われるままに風呂と酒を御馳走になると翌朝には肥溜めで寝ていた類のお話。そういう意味では次の常堅寺の裏のカッパ淵もそうかもしれない。遠野物語の五十五話から五十九話がカッパの話だけど、

『この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか』

 こうしているぐらいだもの。ただカッパの顔は青いというか緑が多いと思うのだけど、

『外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赭きなり』

 遠野のカッパは赤いとしてるのよね。このカッパだけど滅多に見れないというか、稀に現れるものじゃなく遠野物語には、

『川の岸の砂の上には川童の足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという』

 それぐらいいたとしてる。それと、さっきのカッパの顔が赤いと言う話も伝承は伝承なんだけど、佐々木喜善の祖母の目撃談にもなっているのよね。

「ここがカッパ淵なの?」

 橋がかかってるけど五メートルぐらいかな。カッパ伝説の地だから観光整備されてるのはわかるけど、ここまで整備されるとタダの小川だね。往時は鬱蒼としてたんだろうけど贅沢言っても仕方ないか。カッパ淵から移動して、

「ここがデンデラ野だよな」

 これも有名なところだけど、実は遠野物語には出て来ない。どうなってるかだけど、

『山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ありき』

 これからわかることは、ダンノハナは複数ヵ所あって、そのダンノハナにセットのように蓮台野があったことになる。この蓮台野がいわゆる姥捨て山になる。ここも遠野物語では姥だけやなく爺も六十を越えたら捨てられたとなってるのよね。

「良く言えばケアハウス」

 良く言い過ぎだよ。たぶん掘っ建て小屋ぐらいは建てていたと思うけど、

『老人はいたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり』

 六十歳は当時では高齢やけど、元気な人もいたはず。お腹が減るから蓮台野から里へ下りて農作業の手伝いをして、いくばくかの食べ物を与えられてたんだろうな。でも決して家には上げず、

「冬が来たら死ぬしかないな」

 このデンデラ野は遠野駅から十キロぐらいのところだけど、

「川向いに見えるあたりがダンノハナになるよね」

 ダンノハナは、

『ダンノハナは昔館のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり』

 これに対して蓮台野は、

『山口のダンノハナは大洞へ越ゆる丘の上にて館址よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す』

 見えてるのが山口川だからまさにここになる。民居が当時どれぐらいあったかはわからないけど、佐々木喜善の生家はすぐ近くのなのよ。こういう場所に住むのは被差別民のパターンもよくあるけど、佐々木の家は富農なんだよね。富農だから東京に遊学してるし、後年は村議会議員から村長までなってるもの。

 つまり普通の民家を挟んで目に見える距離でダンノハナとデンデラ野があることになる。姥捨て山がこんなに近いのに驚かされる。

「楢山節考の世界とはイメージが違うよね」

 ユリも姥捨て山とは、自力では戻って来れないような山奥にあるイメージだったもの。それなのに遠野のは民家のすぐそばなのよ。これは捨てると言うより、追放宣言みたいなものになるのかな。

 姥捨て、爺捨て宣言されてしまえばデンデラ野に行かされちゃうんだけど、一度宣言されてしまえば、自分の家も、他の家も決して受け入れてくれず、一緒に野良仕事をして食べ物は恵んでも、戻るべきところはデンデラ野しかないって掟だったんだろうな。

「これって七人の侍の世界に近いかもな」

 あの映画でも村と姥捨て山が近い場所の描写があった。えっと、えっと久右衛門の婆さんだったっけ。そりゃ志乃とか勝四郎が握り飯を届けたりするぐらいだからな。黒澤明は遠野物語の描写から、あの映画の村の姥捨て山の設定を考えた気がする。楢山節考だったら遠すぎるものね。

「生の世界と死への世界が隣り合わせだったってことになるね」

 今とは死生観が違う世界と言えばそれまでだけど、

「宗教観の根っ子が違う気がする」