ツーリング日和6(第17話)華茶一如

 香凛はバトルロイヤルの活躍前から常に天才少女と呼ばれ続けてるし、それに加えてあの美貌やんか。ずっと華道界のアイドル扱いにされてるわ。あのままやったら、息子の講平やのうて、孫娘の香凛が華仙流の二代目になるやろな。

「大拙、元気だものね」

 あの勢いやったら百まで生きてそうや。そうそう華仙流の特徴の一つとして華道の他に茶道もやってるねん。

「アイデアよね。二つ一緒にしてるとこないもの」

 花嫁修業で華道と茶道はセットみたいなもんや。もちろん華道の師匠になるような連中は茶道の心得があるし、華道もそうや。日本文化の美意識のルーツみたいなもんやからや。そやけど二つは別の習い事が常識や。それを大拙が、

『華茶一如』

 こう唱えて両方教えることにしとるんよ。一か所で華道も茶道も覚えられたらたしかに便利やと思う。月謝かって割安になるやろし。

「でも世の中、そうは上手くは行かないのよね」

 華仙流茶道の人気はイマイチやねん。茶道と言えばやはり三千家が圧倒的にメジャーなんがまずある。

「茶道と言えば千利休が有名人過ぎるものね」

 つまりは華仙流茶道はブランド・イメージが低すぎるぐらいや。茶道をどこで習ったと聞かれた時に、メジャーブランドの三千家にしたいのは人情やからな。

「茶道なんて華道に較べると差が少ないし、派手な技が使えるものじゃないのにね」

 コトリに言わせれば今の茶道に茶の湯の精神なんか残ってへんでエエと思うてる。あくまでもコトリの意見やし、今の茶道をバカにしたり、見下してる訳やあらへんから、そこは誤解せんといてや。

「あの頃に茶道に誰もが飛びついた感覚はわかんないよ」

 今と昔の最大の違いは身分制や。この感覚は今の人間には頭でわかっても実感は絶対無理や。身分が違うと言うのは人種が違う・・・

「それも問題発言になるから、人種じゃなくて種が違うにした方が良いよ」

 ユッキーも上手い事いうな。身分が違うとホモ・サピエンスとチンパンジーぐらいの差があったとした方が実感により近いもんな。ここもキモだけ言うと身分が違うと会話も出来へんかった。

 身分言うたら江戸時代の士農工商を学校で覚えるけど、たとえばトップの士でさえ大相撲の番付みたいに身分は細分化されとってん。少しでも身分差があれば直接会話は出来へんぐらいやねん。

 どうやって会話するか言うたら、通訳使うイメージでエエと思う。外国人相手で言葉が通じんかったら、通訳を介しての会話にせんとしゃ~ないやろ。自分がしゃべって、通訳が訳して相手に伝えるや。逆もそうや。

 それをやな言葉通じるもん同士でやっとってん。相手の言葉がわかるし、聞こえてるけど、あえて通訳入れとるみたいなもんや。具体的にはお付きの人がおって、話をする時はお付きの人にまず話すねん。

「あれって建前として、お付きの人が話し直すまで聞こえてないことになってるのよね」

 そういうこっちゃ。例えばやで格上の人間が、

『大儀であった』

 こう言うても、聞こえてないことになっとって、お付きの人が言い直してから、

『へへぇ』

 こうなる寸法や。コント見たいやけど、それが当時の社会で身分制や。そりゃ面倒やし時間がかかるし、腹を割った話し合いなんか無理や。上の連中も面倒な時には時代劇で見たことあるやろ、

『直答を許す』

 特別の許可を与えなあかんねん。どれぐらい不便やったかやけど、将軍が風呂に入っとって熱いと思うやん。そやけど茶坊主とは身分差がありすぎるから直接言われへんねん。そやから、

『なんか熱い、熱い気がするな・・・』

 こうやって独り言で呟くしかあらへん・

「それもうっかり口にしたら、担当者の失態になるからひたすら我慢したそうだものね」

 身分差を裏打ちしてるのが礼法で、武家やったら室町礼法や。これがもう煩雑なんてもんやない。身分差で近付ける距離も決まっとった。たとえば座敷の床の間の前に主が座ってるとするやん。それに対して身分差で、

 ・同じ座敷に座れる
 ・次の間に座れる
 ・縁側に座れる
 ・庭先に座る
 ・そもそも無理

 これぐらいはあるし、実際はもっと細かくなっとる。言うまでも無いけど距離に応じての振る舞いも細かく規定されてガチガチに縛り上げてるねん。そやけど人って話をしたい生き物やんか、身分差をある程度越えてもっと自由に話をしたいと思たんよ。

「連歌があれだけ持て囃されたのも、今じゃ理解できないものね」

 連歌も身分差を越えて自由に会話が出来る遊びの形式や。そやけど連歌が出来るだけの教養がいるし、もっとお手軽な遊びを編み出したぐらいや。

「その一つが闘茶ね」

 お茶の産地を当て合う遊びや。これが茶道のルーツの一つやとされとる。

「でもやっぱり義政だと思う」

 足利義政は政治には不熱心やったけど、極度の趣味人でエエと思う。今やったらオタクや。オタクやからオタクとフランクにオタクの話をしたいんやが、義政は将軍やから身分の壁が立ち塞がるんよ。

「村田珠光の登場ね」

 村田珠光も茶道の祖の一人にされとるけど、奈良で流行っていたお茶会遊びを義政に教えたぐらいで良いと思う。これも身分差を越えて自由な会話を楽しめる遊びの一つぐらいと思たらエエ。

「義政が飛びついたのよね」

 義政の功績が大きいのは日本最高クラスの貴人が茶の湯に熱中したのを示した点や。もっと言えば、茶の湯遊びであれば将軍とさえ身分を飛び越えて会話できることを知らしめたと思っとる。

「ある種のお墨付ね」

 将軍の趣味は臣下がすぐに真似をするし、さらにその下にも広がっていくもんやからな。ここら辺から今の茶道の原型が出来上がって行ったんよ。茶室は単にお茶を飲むところやあらへんねん。あそこは世間と別世界と定義したんや。当時としては驚愕の世界で、茶室に入れば身分は主人と客の二つしかないとしたからな。

「これがどれだけ驚異の世界かを今の人が理解するのは無理でしょうね」

 さらに茶室の中の独自の礼法を作り上げて行ったんよな。今はそっちの礼儀作法の方が重くなってもてるぐらいやが、当時としては略礼というか別世界の礼法ぐらいと受け取られたんや。茶室の中の価値観も世間とは別にするのも遊びとして確立させてる。たとえば茶道具や。なんの変哲もない茶碗を、これこそ名器としたあれや。

「そういう茶の湯遊びが大流行になったのよね」

 茶の湯遊びに参加したければ、そのルールを覚えなあかん。そやから猫も杓子も茶道に熱中したぐらいや。そこでの自由な精神とは、茶室に入れば世間のルールから離れられる心意気でエエかもしれん。どうしたって世間のルールを引っ張るのが人間やからな。

「その精神を反映できた人を茶人として称賛されたぐらいだよ」

 そやけどそんなガチガチの身分差は綺麗サッパリなくなってもた。考えようによっては、かつての茶室の世界が普通の世界になってもたと言えるかもな。