ツーリング日和5(第14話)天逆鉾

「コトリ、明日の準備は」
「バッチリや」
「カケルの分は?」
「用意してくれたんはミサキちゃんやで。抜かりあるかいな」

 カケルの靴が心配だったけど、ミサキちゃんに任せておけばバッチリのはず。明日は今回のツーリングの最大の歩きである高千穂登山。ツーリングだから、本格的な山登りは避けてるんだけど、高千穂峰だけは登っておきたいのはコトリも同じだったのよ。見方によっては今回のツーリングの目玉かな。

 高千穂峰は天孫降臨神話の地。あの山に神々は降り立った事になっている。コトリにやらせれば古事記の原文地獄になるから簡単にするけど、豊葦原の中つ国の平定が終わったから、地上に神々を下して治めさせようってお話。

 その命が下ったのが邇邇藝命。少しでもわかりやすく言えば神武天皇のひい爺さんになる。邇邇藝命は地上支配の使命を果たし、その象徴みたいに天逆鉾を高千穂峰の山頂に突き立てたって話になっている。

「イザナギとイザナミが使った天沼矛つう説もあるけど、天逆鉾について直接書いてある神話があらへんのよ」

 天沼矛とはドロドロだった大地を天浮橋からかき混ぜた矛のこと。ああ、矛と鉾は同じと見て良いよ。そこからの国生み神話はパスにするけど、もし邇邇藝命が高天原から持参していたら神話に残されていそうなものだけど、これが無いのよね。

 これも不思議と言えば不思議で、天逆鉾とはそもそもなんであるかの神話がないから、天逆鉾とは何かの諸説が入り乱れてるのよ。

「そもそもやけど邇邇藝命が突き刺した根拠さえあらへん」

そうなのよね。邇邇藝命と天逆鉾の関連性は、

 ・天逆鉾は高千穂峰にある
 ・高千穂峰は天孫降臨の地である

 だから突き立てるとしたら消去法で邇邇藝命だろうぐらいの話なのよね。そうそう天沼矛が天逆鉾であるとの根拠は、

「天沼矛が逆鉾やったとされてるからや」

 逆鉾ってなんだになるのだけど、柄の長い武器の場合、構える時の基本は刃を上にするんだって。槍は諸刃が多いから関係ないだろうけど、薙刀ならそうらしい、

「長い武器やから、下から撥ね上げるなり、切り上げる戦術が重視されたんやろ」

 ところが天沼矛は刃を下に構えるのが基本だったから逆鉾になるそう。

「逆鉾として使われたんは天沼矛だけかもしれんぐらいやねん。そやから天逆鉾は天沼矛やって説になっとるけど、天逆鉾が逆鉾として使われた根拠の神話があらへん」

 そうなのよ天逆鉾がどういう由来で、どういう活躍をした神話がそもそも無いのよね。無いのに厳然と存在するし、霧島神宮の御神体でもある。この霧島神宮も不思議なところがあるのよね。

 霧島神宮は社伝に天照大神の神勅を受けて創建されたとなってるけど、最初の社殿が建てられたのは欽明天皇の御代となっている。欽明天皇じゃわかりくい人が多いと思うけど、聖徳太子のお父さんだよ。

 そして最初の社殿は御鉢と高千穂峰山頂の間にある背戸丘に建てられてる。今も霧島元宮になってるけど、どうしてそんなところに社殿を作ったかなんだよね。そりゃ、天孫降臨の地に作るぐらいの理由はあるけど、

「高千穂峰は大王家にとって最高の神聖地帯やもんな」

 さらにがあって、高千穂峰は活火山。数えきれないぐらいの噴火を繰り返してるから木も生えない荒涼とした山なんだよ。霧島神宮だって何回も噴火の被害に遭って、元宮から高千穂河原、さらに仮宮を経由して現在の麓のところに移転を余儀なくされている。

「御鉢は噴火口やけど、火常峰と記されてるぐらいや」

 大王家の神聖地帯であり、活発な活火山なら、

「麓に神社作って拝むわな」

 あんな荒涼とした山の山頂付近にわざわざ神社作るのは不思議と言えば不思議。不思議と言えば天逆鉾には神話もないけど、設置記録もないのよ。設置記録というのもおかしいけど、御鉢の噴火は霧島神宮を焼失させてるのよね。でもあれは単なる焼失じゃなく噴火の深刻な被害でもある。だって再建じゃなく移転してるんだから。

 御鉢と天逆鉾のある高千穂峰山頂は近いのよ。天逆鉾が無事で済むわけがないじゃない。それでも今もあるから、壊れたり失われたりするたびに作り直して再設置した以外に考えられないことになる。

「それが定説や」

 だけど再建の記録がこれまた一切ない。記録とは誰が作ったかとか、いつ失われ、いつ再設置したか。あれだけの大きさのものだから、ぶっちゃけカネが必要。それも半端な額じゃないはずなのよ。

 そういう時には朝廷なり有力豪族がカネを出すけど、朝廷の記録にはまったく残っていない。近隣の豪族なら島津家が思い浮かぶけどこれまた無し。

「今の刃の部分の復元記録さえないもんな」

 明治期の天逆鉾の写真が残ってるの。その写真には刃がなく柄しかない。でも今はある。誰かが作り直したのは間違いないけど、その記録が何故か無い。

「まあそうやけど記録って失われやすいんや。たとえば法隆寺」

 ああそうだった。法隆寺で長年あった論争が再建か非再建だった。山背大兄皇子が立て籠もって焼失したの記録こそあったけど、その時は一部焼失で大部分は創建時の時の物か、それとも完全に再建された物かってね。

 この論争の決着が着いたのが若草伽藍の発見だった。現在の法隆寺の下に大規模な伽藍の遺構が発見され、これが創建時の法隆寺で焼失して失われたものと結論されたからだものね。

「大坂城ですらそうや」

 秀吉の作った大坂城は夏の陣で焼失したのは誰でも知ってたし、その後に徳川氏が再建したのも知っていた。にも関わらず、大坂城の石垣は秀吉時代のものだと長い間信じられていたんだよ。

「あれは徳川家のアピールの失敗やろ」

 夏の陣の後に徳川氏は秀吉の権威の象徴であった大坂城を埋め立てた上で、その上に徳川氏の大坂城を秀吉時代を上回るスケールで作り上げている。徳川氏の時代のアピールのためだよ。

 なのにそれを見ていたはずの大坂の人間でさえ石垣は秀吉のものだと信じ込んでいたんだよね。人の思い込みって怖いと思う。

「それを言いだしたら出雲神社もや」

 ああ、あそこもそうだった。出雲神社は平安時代でも数え歌にされるぐらいの規模で、

『雲太、和二、京三』

 これは当時の巨大建築部と並べたもので、京三は大極殿、和二は奈良の大仏殿、雲太は出雲大社のこと。つまり奈良の大仏殿より出雲大社の方が大きかったとなってるの。今でも出雲大社は大きいけど、大仏殿に較べるのは無理があるのよ。

「今の出雲大社は高さが八丈やけど、中古は十六丈、上古は三十二丈の伝承だけはあったんよな」

 十六丈といえば五十メートル近くになり、古代にそんな高い建築物は出来るはずがないとされてたんだけど、残されていた十六丈時代の設計図に合致する巨大な柱の根元が発見されたんだ。つまり十六丈の出雲大社は存在していたことになる。

「さすがに三十二丈はなかった気がするけどな」

 高千穂峰は天孫降臨神話の地といえ、九州の南端。京都から見れば隼人の住む僻地も良いところで、こんなところの天逆鉾の記録が失われてもしょうがないかもしれない。

「廃墟マニアっておるやんか。あの連中は近世以降、下手すりゃ十年ぐらい前に使われなくなり、廃墟と化しているところを探検しよるやん。その時に欲しいのは在りし日の姿やとか、営業していた時の記録になるけど、それさえ見つからんことがあるからな」

 廃村なんてとくにそうかも。まだ生活臭さえ残っていそうなのに、ここに誰が住んでいたか既にわからくなってるのが殆どだもの。そりゃ、戸籍を調べれば理屈の上では可能だけど、そんなもの興味本位で調べられるものじゃないものね。