八甲田山死の彷徨

 新田次郎氏の名作ノンフィクションで映画にもなっています。私も読んでいますが、土地勘のないところで地名が出て来ても、どこに迷い、どれだけ進んでいたのかサッパリわからないのが残念なところでした。当時の道路地図でそこまで細かい地名など期待しようもなかったからです。

 新田氏も詳細な資料を基に悲劇を描いていますが、そんな新田氏が持った謎があったはずです。手元に原作が無いので記憶違いかもしれませんが、あの状況で目的地の田代に到着したとしても、果たして助かっただろうかです。

 少しだけ補足しておきますが、青森連隊の初日の予定は、

    駐屯地(現青森高校)→ 田茂木野 → 小峠 → 大峠 → 馬立場 → 田代
 現在の県道40号で当時の田代街道です。全行程が20kmで、田茂木野までが約3km、昼の大休止を取り天候が急変したのが小峠でここがおおよそ10km地点です。

 新田氏の作品でも、田代には温泉はあっても青森連隊の雪中行軍隊を収容できたかどうかの疑問が出ていたはずです。温泉があったのは間違いありませんが、冬季は閉鎖される小さな湯治場程度のものを想定されていたはずです。

 田代平は不毛の地で田代神社にある田代平開拓三十周年記念碑にも、

この開拓は昭和22年青森県開拓少年隊(隊長鎌田猛隊員50名)の入植に始まるそれは我が国高冷地農業開発の先端を行く壮挙として注目を集めたが・・・1ヶ年にして隊員は殆んど離散隊長又病魔に冒され不帰の人となり残留せる者わずかに5名・・・北海道勇拂郡安平村の酪農地帯より指導農家20戸の先遣隊を導入明けて24年にはその家族の一部をも移住せしめて開墾営農に努めたがこれ又4戸を残して全て離脱・・・希望入植者を併せて40余戸を入植せしめ次いで28年には遠く岐阜県の分村入植者3戸をも受け入れて鋭意開拓事業に専念した結果離農者相次ぐ・・・今日漸く肉牛生産地として将来を期待されるに至った

 少々長いので省略部分を入れていますが、昭和22年から開拓団が入植したものの悪戦苦闘であったと記録されています。そんな田代に明治期に集落があったとは考えにくいのです。にも関わらず青森連隊(弘前連隊も)は田代を目指し宿営を予定しています。

 もう少し言えば青森連隊が天候の悪化にも関わらず、行軍の続行を決行したのは田代の宿営施設があったからではないかと考えられます。つまりたどり着きさえすればなんとかなるです。

 青森・弘前の両連隊が目指したのは田代でも田代新湯とされています。この田代新湯ですが、今でも温泉は湧き、浴槽を清掃すれば入浴は可能ぐらいの状態に保たれているようです。ですがググっても、宿泊施設が存在した記述が見つかりません。

 田代新湯の以外にも田代元湯もありますが、ここには20世紀の終わりぐらいまで旅館があり、遭難事件の時にも青森連隊の兵士二人がたどり着いています。しかし当時の田代元湯は冬季閉鎖の湯治場程度のものでした。

 おそらく新田氏もあれこれと資料を集められたはずですが、新田氏の結論として田代の温泉に青森連隊規模(210名)を受け入れる施設はなかったと見たのではないかと考えています。

 ところが、ところが、どうもあったようなのです。遭難事件後に救助隊が次々に派遣されていますが、160名の部隊が田代で天候悪化のために長内文治郎氏の宿舎に宿営したとの新聞記事が残されています。

 160名が宿泊であれば、青森連隊210名に津軽連隊38名を合わせても宿泊可能と言うより、宿泊可能であったから雪中行軍計画が立てられたと見るのが妥当です。残念ながら青森隊だけでなく津軽隊も見つけられていません。

 ただですよ、248名が鮨詰めでも宿泊可能な施設となるとかなり大きなものになるはずです。イメージとしては長者屋敷ぐらいで、そうですね江戸時代の本陣ぐらいの規模でしょうか。

 そんな大規模なものが本当に田代平にあったのだろうかの素直な疑問です。さらにこの長内家は東奥日報の記事に存在するだけで、今はどこにあったのか、長内氏の子孫がどこにおられるかも不明だそうです。

 明治とは言え忘れ去られることはあり得るとは言え、その真実はどこにあるのかは確認しようもありませんでした。