運命の恋(第2話):家族

 ボクは一人っ子。一人っ子は寂しくないかとよく聞かれたが、兄弟とか姉妹がいる生活自体を知らないから、その辺は良くわからない。ただ転校を繰り返す中で兄弟姉妹がいれば少しは違ったかと思わないでもない。

 両親も一人しか作らなかった理由はわからない。転勤族だから二人目を育てるのが大変と思ったのか、作ろうとしても作れなかったのかも不明だ。とにかく一人っ子だけど、家族仲は悪くはなかったと思う。

 父親はとにかく忙しかったようだが、小学生の時には家族旅行に行ったこともあるし、休日のお買い物とか、お出かけもあった。母親は教育ママまでは行ってないと思うけど、専業主婦で勉強も良く見てくれた。

 そんな家族の空気が変わり始めたのが中学に入ったころ。いや今から思えば小学校の高学年ぐらいから家の中の空気が変わって来ていた。目に見えて家族の会話が減り、お出かけもなくなった。

 さらに夫婦喧嘩が起こるようになった。夫婦喧嘩と言っても罵声と物が飛び交うような陽性な物でなく、嫌味の応酬から始まる延々とした口喧嘩。

 これがやがて両親が顔を合わせるたびに勃発するようになっていった。父親の帰りは遅いことが多かったから、毎晩ではなかったが、早く帰って来ると必発みたいな状況に段々となって行った。

 夫婦仲が冷え切った一人っ子はたまったもんじゃなかった。ボクの苗字は氷室だけど、家の中がアイス・ルームになってしまったぐらいだ。もちろん学校ではイジメに怯えるボッチだから、どこにも居場所がないとしか思えなかった。

 こんな状況になればグレて不良になってもおかしくないようなものだけど、とにかくボッチで不良に誘い込んでくれるような友だちさえいなかった。というか、その前に友だち自体が一人もいなかったものな。

 中三だから高校受験が最大のテーマになるが、勉強はそれなりに出来ていた。勉強好きとは言えないけど、成績は悪くなかった。学校に居場所がなく、家でも自分の部屋しか逃げ場がなく、ゲームはあんまり好きではなかったので勉強だけはしていた。


 夫婦喧嘩が一番激しかったのは中二の夏休み頃だったが、三学期になると減って行った。家が平穏なのは歓迎したが、これは破滅へのステップが進んだだけだとわかる事になる。もうないか、あるとしても先の事だと思っていた父親の転勤がなんと中三で起こった。

 さすがに単身赴任となったが、実態はそんな甘いものではなかった。それは夫婦仲が限界に達し、最終ステージに突入したサインだった。父親がいなくなると母親は出歩くようになった。帰ってくるのは遅いし、化粧や服装も派手になっていた。それだけでなく、何日も家を空ける事も多くなっていった。長い時には一週間以上も家を空けた。

 後から知ったようなものだが、父親の転勤は夫婦の別居の為であり、この別居も夫婦が頭を冷やすためのものでなく、転勤先で愛の巣を営むためだった。母親も母親で、父親がいなくなったのを契機に愛人の下に入り浸り状態だったようだ。

 結果から見るとわかりやすいけど、両親は離婚するや否やすぐにそれぞれの愛人と再婚している。W不倫の末の離婚になるけど、両方ともすぐに再婚してるのが子どもとしてやり切れないぐらいだ。

 そんな状況の離婚協議が父親の別居後に始まっていた。双方とも自らの再婚を視野に入れての離婚協議で、ヨリを戻す余地なんてゼロだったってこと。一番揉めたのはボクの親権。

 これも両親が親権を争ったものじゃなく、互いに押し付け合ったという代物。不倫相手との再婚に高校生になるボクは邪魔だったぐらいだ。そりゃ不要だろうな。思春期のややこしい息子なんて新生活には無用の長物も良いところだ。

 お陰でボクの高校受験の時は散々な目に遭った。普通なら三者面談とかで進路にあれこれ頭を悩ます時期だろうけど、ボクへの関心は無に等しかった。三者面談も親抜きで担任教師とやったし、志望校もボクだけで決めた。

 志望校は県立高校だったけど、成績的に滑り止めの私立受験が望ましいぐらいだった。とはいえこんな家庭状況で言い出せるはずもなく、ランクを下げるからどうかも一人で悩み、一人で決めた。

 両親がボクに無関心だったのは公立高校合格発表の日が離婚成立の日になっていたぐらいだ。ボクは落ちたら中卒で就職なんて危機感まであったけど、そんなものは離婚の成立に比べたらどうでも良い事ぐらいでしかなかった。

 無事合格したよ。さすがに嬉しかったが、誰も祝ってくれなかったな。離婚協議から帰って来た母親は、

「元気でね」

 この一言だけで家から出て行った。離婚後の新生活に胸を弾ませていたんだろうな。あの日が母親を見た最後の日になった。どこに行ってしまったのか今も知らない。知ってもしようがないか。

 それで泣いたかって。泣きもしなかった。両親がいずれ離婚するのは肌に感じていたし、その日が来たかぐらいだ。父親も、母親もいない家はせいせいしたぐらいだ。ボクの生活の中で家だけは自由になった喜びがあったぐらい。

 ボクは誰にも祝ってもらえない高校合格になり、新入学の準備もすべてボクがやるしかなかった。高校入試の手続きには保護者の欄があるが、これを親権を持った父親に書いてもらうだけで一苦労だった。

 こういう時には親戚の助けがあっても良さそうなものだけど、これもまったくゼロ。これは両親の結婚が家の猛反対を押し切っての駆け落ちだったからだ。そこまでして結婚してこのザマかと思うが、これは親戚付き合いに大きすぎる影響となった。

 両親は結婚の経緯から親戚からは絶縁状態だった。これは両親側からもそうだった。これが、まあ、徹底していて、ボクは両親の祖父母に一度も会っていないし、名前も家すら知らない。それどころか生きているかどうかもしらない。

 祖父母がこんな調子だから、叔父叔母なんて存在するかどうかすら知らない。とにかく転勤族だったから、両親の故郷すら知らない。物心が付いた幼稚園時代ですら社宅だったはずだから、あそこですら両親のどちらかの生まれ故郷でない気がする。

 大人の知人も同様の理由でなし。そりゃ中三で引っ越して来て、いきなり離婚協議だ。そんなややこしい家に親しくしてくれる人なんていない。それどころか、好奇の目で見られて噂話のタネにされ、後ろ指をさされるぐらいだ。


 母親は離婚成立の日にまだ会えたが、父親となると単身赴任で家を出て以来会っていない。それでも最低限の親としての自覚はあったのには助かっている。父親から電話連絡があり、まず家はボクの高校通学用に残された。

 生活費はそれなりに送ってくれると言い、ボクが望めば大学進学の費用も持つとは言ってくれた。その代わりに、

「もう会わない」

 再婚に驀進していた父親は、ボクが息子面して顔を出すのを忌避していた。というか念を押された。念を押されただけでなく、もし下手に関われば援助も打ち切ると宣言された。父親の口調からすれば、ボクが死にでもしない限り連絡はするなぐらいにしか受け取れなかった。

 ボクの十六の春は、少々早すぎる自立の年になってしまった。友人も、知人も、親戚さえいない生活が始まってしまったってこと。言い換えれば学校のボッチから、社会のボッチに進化したのかもしれない。嬉しくもない進化だった。