黄昏交差点:願い

 気まぐれだけど、久しぶりに故郷に行ってみた。結婚して以来だよ。駅が変わっていないのは笑ったけど、寂れたね。実家に帰る気なんてなかったから、ふらふらと商店街の方に。ありゃ、角の散髪屋も閉店になってるよ。道向かいの美容院も閉まってるし、あの辺に小鳥屋もあったはずだけどもう廃屋だね。

 でも商店街の出口から見えた三階建てのビルは同じだった。その時に突然昔のことを思い出しちゃったんだ。もう矢も楯もたまらなかった。県道を渡り、市道を渡り、ぐるっと右に曲がる道を通り抜け四つ角に。

『ここが由佳の青春、由佳の本当の恋があったところ』

 今にも康太が現れそうな気がしたものね。あれから二十三年だよ。そこから左に曲がったけどひたすら懐かしかった。この道の一歩一歩が由佳の青春。まだ清純だった本当の由佳がいた時代。

 康太とは夢見てた。奥さんになる気だったよ。でも笑っちゃうよね、まだ中学生だったものね。でもそうなる気がしてた。康太だって由佳のことが好きだったはずだもの。

 そう言えばどうやって調べたんだろう。小学校の同窓会の案内状が来てのにはビックリしたもの。こんな体で顔出せる訳ないから、返事も出さずにいたら電話までかかってきたもの。

 かけてきたのは美由紀だった。なんだかんだと幼稚園から高校までの腐れ縁。高校なんて三年間同じだったものね。由佳はそんなに友だちの多い方じゃなかったから美由紀は親友としても良いかもしれない。

 色んな話をしたし、相談もした。康太の相談だってやったもの。由佳が康太を好きだって言ったら、面食らった顔してたよな。まあ、中学時代の康太じゃそうかもしれない。でも後から、

『由佳の目は高いと思った』

 こんなこと言ってたから、ひょっとしたら美由紀も狙ってたかも。そう言えば結婚する時も反対してた。

『由佳ならもっとイイのを選べるよ。神保君みたいのをどうして探さないの』

 あの時はそれでも結婚に浮かれてたから喧嘩したのを覚えてる。それでも友だち代表でスピーチしてくれたものね。なにか無性に会いたい気分。美由紀も結婚してるはずだから迷惑だろうな。まあ、かけるだけかけてみるか。

「西村由佳だよ」

 美由紀に通じるかなって思ったけど即答だったよ、

「本当に由佳なの。どこにいるの」

 旧友はありがたいね。すぐにでも会いたいからクルマで迎えに来てくれるって。駅前の交差点で待ってると赤い軽自動車がやってきて、

「由佳だよね。全然変わってないよ。乗って、乗って」

 連れて行かれたのはファミレスだった。故郷にもこんな店が出来てたんだ。それにしても由佳が変わってないと言われて笑うしかなかったね。見た目はこういう商売やってるから小綺麗にしてるけど、中身はドロドロも良いところ。

 汚れてるってレベルじゃなくて、泥水で芯の芯まで漬かり切ってるものね。それと美由紀はある程度知ってるで良さそう。だから口に出さなかったんだ。二人の共通の思い出は高校までだから、その時の話ばっかりしてたかな。

「・・・どうして神保君あきらめちゃったの? あそこまで行ってたのに」

 康太は好きだった。好きだったからあそこまで頑張った。康太も由佳を好きになってくれてた。ひたすら嬉しかった。でも康太は待ちきれないと思ったんだよね。あの頃は康太より家を一日も早く出ることの方が重かったから。結果はこのザマだけど。

 康太はやっぱり医者になってた。さすがだね。由佳とは出来が違うよ。そんな康太とあそこまで近づけただけでも良い時代だったと思ってる。あれは由佳が最後に幸せだった時代だよ。

「神保君だけど・・・」

 これは耳を疑ったよ。康太が結婚したこと自体はそうなってるだろうと予想範囲内だったけど、まさか離婚してるなんて。康太の結婚相手は故郷の人間だから美由紀もあれこれ良く知ってたけど、奥さんの浮気が原因なんて。

 なんて贅沢と思ったよ。康太の奥さんだし、医者の奥さんだよ。なんの不満があるって言うんだよ。由佳が過ごした環境に比べれば天国みたいなところじゃない。でも聞いてると離婚したのは康太だけじゃなかった。

 ま、わかんないか。平凡に結婚して、子どもが出来て、旦那の愚痴を言いながら過ごす日常がどれだけ幸せなことかってね。底辺の底の底まで落ちないと、それが幸せなんて死んでもわからないかもね。

「そういえば智子のとこも別れたって。正確には死別だから未亡人だけど・・・」

 智子か。これも噂で聞いたけど、高校の時は康太の彼女になってたらしい。あれ聞いて、やっぱりと思ったもの。塾の時に康太を見てる目が尋常じゃなかったのよ。高校に入ってからもしばらく康太と朝の通学は一緒だったけど、それを見ていた智子の目がギラギラ燃えてたもの。

 そんな智子でも康太とは結ばれなかったんだ。たぶん智子も待ちきれなかったんだろうね。でもあの頃の恋ってそんなものだったよな。先のことなど何も考えずに、自分が好きと思った相手を純粋に愛するみたいな感じかな。

 でも今となって思うのは、あの時の恋を花咲かせることが出来ていたら、違う人生があったかもって。こういうのを見果てぬ夢っていうのかもしれない。

「ねぇ、由佳。せっかく独身に戻ったんだから、もう一度あの夢を追ってみたら。美由紀も応援するし」

 あの夢か・・・もう無理。そりゃ、康太も独身に戻ってるけど、由佳とは住んでる世界が違いすぎる。由佳はあの頃の由佳じゃない。ボロ雑巾はいくら洗っても綺麗になれないもの。もう康太の前に立つ資格さえないよ。

「由佳は変わってないから行けると思うよ。会った時に美由紀が驚いたのよ。高校の時の由佳がそのまま立ってるんだもの」

 言い過ぎだと思ったけど、見た目はどうやらそうらしいのは知ってる。だからこそソープでもずっとナンバー・ワンだったぐらい。あの奴隷ソープでもそれ以前も殆どそうだった。あははは、今のラウンジでもそうなんだよ。

 ああいう商売だから、随分年齢誤魔化してるけど、誰も気が付かなかったぐらい。葛城先生も由佳の実年齢を知って魂消てたものね、最初は戸籍が間違ってるのじゃないかと思ったって言ってたもの。

「由佳、よく聞いて。勘づいてると思うけど、美由紀は知ってるんだ。だから住所も電話番号も知っていたってこと。だからこそ由佳には今からでも幸せになって欲しい。そのためにあの夢を追うべきだと思うの。神保君を追うなら最後のチャンスよ」

 夕食の支度があるからって美由紀は帰ったけど、最後に康太の連絡先を書いたメモを残してくれた。別れ際に、

「由佳はこんな人生で終わったらいけない。神保君なら必ず由佳を幸せにしてくれる。だから行くのよ、神保君ならかならず応えてくれるはず」

 出来るなら由佳もそうしたい。今からだってやり直したい。こんな由佳で良かったら康太と結ばれたい。そして康太と幸せな家庭を築きたい。こんな体じゃなかったら、今すぐにでも連絡を取って会いに行きたい。あの時のように康太の心をつかみ直したい。

 帰りの電車の中でメモとにらめっこしてた。康太なら優しいから会ってくれるだろうし、話もしてくれると思う。そこから一歩一歩距離を詰めて行けば、昔に戻るのも夢じゃないかもしれない。

 でも、最後に言わなければいけないのよね。由佳がどれだけの男を相手にしてきたかって。それを知った康太が怖い。康太じゃなくとも、誰だって嫌がるはず。恋人どころか、知り合いにでもそんな女がいるのを喜ぶ奴がいるものか。

 そうなんだよね、汚れはてた公衆便器をわざわざ選ぶ男なんて世の中にいないよ。ましてや、康太なら今からでも誰だって選べるもの。でも美由紀は、

「由佳の辛さを美由紀がわかるなんて言わない。わかるはずないもの。でもね世の中、辛かった分だけ良いことがないと不公平すぎる。由佳にも幸せになる権利があるはず」

 由佳への幸せの配分が少なすぎるのはそうだけど、もうこの歳だし、あまりにも汚されすぎちゃったよ。せめてキャバクラ、それが贅沢ならヘルスで足を洗えていたらね。ヘルスでも無理か。

 キャバクラ嬢上がりでもゴミに見られかねないのに、ヘルスじゃ蛆虫だよね。ヘルスだけでもどれだけの相手を搾ったことか。そんな女でも許して結婚考える男なんて滅多にいないよ。あれは女のプライドを犠牲にしておカネを稼ぐ商売だもの。

 由佳は・・・ダメ、涙が止まらない。由佳はヘルス嬢からも見下ろされる商売やってたもの。そうよ、毎日毎日、股開いて、由佳の体で搾り取る商売。それも一日に何人もだし、ピル服用ですべてナマ。男の液だって商品保護のための潤滑剤扱いだった。

 そんな由佳を神保君が許して認めてくれて、再婚相手に選ぶなんて宝くじに当たるより難しいよ。そんなことは最初からわかってる。わかってるから考えないようにしてたんだよ。美由紀のバカ、焚きつけられたら止められないじゃない、


 あの終わりのない売春やってるときに、本当に感じないと這い上がれないのはわかったんだ。どうしてそうかなのかだけど、あそこの売女のセールス・ポイントは色情狂だったんだよ。キャッチ・フレーズ的には、

『男に飢えた色情狂の女が、それを満たしてくれる貴方をお待ちしています』

 あの連中に言わせると色情狂の設定にしているのは商品保護のためとしてた。色情狂なら常に男に飢えて発情してる事になり、あそこが濡れ濡れ状態になってるって言うのよね。とにかく数をこなす必要があったから、しっかり濡れてないとすぐに傷むからだってさ。

 そうは言われても困るしかない色情狂の設定だけど、ここでも教育された。あれも辛かったけどその日の一人目の客を取る前にセルフで暖機運転させられた。それも監視付きで昇り詰めるまでキッチリやらされた。

 時間がかかりすぎたり、昇りきれない者には電マが使われた。由佳も最初は不慣れで使われたことがあるけど、あれも強烈だった。あっという間に三回ぐらい昇らされたもの。あれだけで悶絶しそうだったから懸命になって暖機運転に励んだよ。

 客を取るのもマグロじゃ論外で、女から積極的になるのも求められた。とにかく色情狂だから男が欲しくてしょうがない事になってるし、男に満足するのを見せなければならなかったのよね。

 そうすべての客に感じまくって昇り詰めることが要求されたってこと。そうすれば仕事時間中は常に濡れ濡れで商品保護にもつながるから、

『すべてお前らのことを考えてやっている』

 ただ要求を満たせないとどうなるかも見せつけられたよ。女にとって受け入れられるものじゃないから、こんなところに落とされても抵抗しようしたのもいたし、始業前の暖機運転から満足にこなせないのもいた。

 しばらくは頑張らせるけど、どうしてもダメそうと判断されるとシャブが使われた。あれって麻薬というより魔薬と思ったよ。あれだけ抵抗していた女が見る見るうちに色情狂に変わっていったもの。だったら全員に使えば簡単そうなものだけど、

『シャブも安くないし、シャブを使った女は賞味期限も短いからな』

 その時に冷酷そうな男の言葉の意味がわかった気がする。ここで生き抜くには女のプライドをすべて捨てて順応しなければならないって。おそらくシャブ女は、そういうのが好みの男の相手をするのだろうけど、時間の問題で廃人になり処分されてしまうのだろうって。

 由佳にとって難関だったのは、やはり客相手に本気で感じて昇り詰めること。だって初めて見る男相手、それも嫌悪感しかない相手にそうなるなんて無理じゃない。それも次から次なんだよ。でも無理だからと言って済む状況でないのも見せつけられていた。

 タコ部屋はどうも実習会場というか、テスト会場みたいなもので良さそうだった。とにかくここで落ちるとシャブ女への道しかないのよね。由佳が客相手に昇り詰められるかどうかが死命を制するぐらい重要だってこと。

 だから由佳は康太に抱いてもらってると思い込もうと努力してた。それも次から次に康太が由佳をひたすら求めてくれる世界を妄想しようとしてた。すっごい無理のある妄想だったけど、出来なきゃシャブ女から廃人になるしかないからね。

 とにかく生き残るために懸命どころか必死になってやったんだよ。そしたらある日、ある相手に出来た。その瞬間は幸せだった。妄想の中とはいえ、その時に由佳が相手してるのは康太だし、康太に感じて昇りつめたんだもの。

 その幸せな瞬間をひたすら求め、追い続けた。そこしかあの頃の由佳に幸せな時間はなかったんだ。この妄想が自然に出来るようになったから、あの日々をなんとか耐え抜けたと思う。それだけでも康太に感謝してる。康太という存在がいなければ、由佳もシャブ女にされて、とっくにどこかで野垂れ死にしてたよ。


 でもね、監禁から解放されて、ソープに勤めた時に愕然としたんだよね。もう普通のソープだから演技で十分だし暖機運転もローションで代用できるのよ。なのに仕事と思うだけで濡れ濡れになるし、体が勝手に感じちゃうんだよ。そう由佳の体は完全に変わってしまってた。

 そうだよ葛城先生相手でも由佳は感じてたし、昇りつめた姿を毎回見せてるよ。そこまで墜ちてる女だってこと。葛城先生だけじゃない、どの客にだって感じたし、哀れなぐらい簡単に昇り詰めてた。

 だからソープから足を洗ってからは一度もやってない。ラウンジ嬢だって口説かれるけどお断りしてる。男とやるのはさすがにコリゴリの部分と、イキたくもない男相手に感じたくない。

 それが由佳にたった一つだけ残された女のプライド。体の反応は骨の髄まで色情狂にされてるけど、男なら誰でもみたいな欲情だけは感じない。いやもう、男にあんな姿をさらしたくない。

 由佳が体を開く男は一人だけ。感じ、昇り詰める姿を見せるのもその男だけ。これだけは決めてる。もちろん康太だよ。それ以外の男なんて考えたくもない。

 こんなもの自慢しても価値ないけど、売春時代でも昇り詰めたのは、最初の頃の冷酷そうな男と妄想の中の康太だけ。普通のソープ時代だって、感じだすとすぐに妄想の中の康太になっていた。

 妄想じゃない本物の康太を一度でイイから感じたい、そしてなんのためらいもなく、思う存分感じて昇り詰めたい。由佳の監禁時代の幸せな瞬間は、昇り詰めて醒めてしまえば妄想から現実に戻らされたけど、醒めても康太の腕の中にいたい。

 そんな願いさえ贅沢すぎるのが今の由佳。でも許されるなら一度だけ、たったの一度で良いから康太を経験したい。でも、その時に由佳がどうなるかを考えると怖いぐらい。入ってきた瞬間に一直線に昇り詰めそう。

 だってだよ妄想じゃなく本物の康太が入って来るんだよ。妄想でも感じるのに本物なんて想像もつかないよ。感じすぎて死んじゃうかもしれないもの。それにそんな由佳を見せるのも仕事じゃなく喜びだよ。

 あは、死んじゃうか。康太が入って来て狂い死に出来るなら本望。そんな幸せに死ねるのなら、もう何も思い残すものはないよ。とっくの昔に生きてる価値がない女になってるものね。でもすべてが夢、決してかなう事がない夢。