今日は涼と教授室に。ノックして、
「篠田です。入ります」
「天羽です」
浦崎教授はソファに案内し、
「研究は進んでいるかね」
「天羽関数の完成は近づいています」
教授は見せられた関数を見ながら、
「よくぞ、ここまで・・・」
ここで涼が、
「お世話になりましたが、この関数の完成を以て退職させて頂きたいと存じます」
浦崎教授は複雑そうな顔に一瞬なりましたが、
「おめでとうで良いのかな。篠田君もか」
「はい」
「君たちを失うのは痛手だが、西学では君たちを受け止められないのはわかっていた。悔しいが引き留められるだけの材料が何もない」
秘書さんが紅茶を運んできてくれて、
「黒木君と林君もゼノンに移るそうだ。寂しくなるな」
「申し訳ありません」
黒木もそうか、林さんも当然セットになるよな。黒木は機械屋に寄ってるからゼノンなら良い仕事が出来るはず。
「君たちはどこだ」
「科技研です」
浦崎教授は大きなため息を吐き、寂しそうな顔で、
「羨ましいよ。ボクには声もかからなかったからな」
さっと寂しそうな顔を振り払った教授は、
「おそらく西学から科技研に行くのは君たちが初めてじゃないか。そんな優秀な教え子を送り出せた事を誇りに思う」
教授も科技研に行きたかったはずです。
「あそこはとにかく錚々たる連中がいるが・・・」
その中でもとくに有名なのはトライマグニスコープの発明者のジェームス・ハンティング博士かもしれません。ボクも科技研に行けばお話を伺うのを楽しみにしています。
「麻吹アングルの解明はどうかね」
「八〇%は解明したつもりです」
「そこまで解明したのか!」
八〇%、そんなはずが。既に涼は九五%以上解明しているはず。
「あれは魔物のようなものです。追えば追うほど逃げていく感じがします」
「逃げる?」
「そうです。つかまえたと思った瞬間にいなくなります」
教授は少し考えて、
「どういうことかね」
「とにかく広がりの底が見えないのです。まるで宇宙の果てを追いかけてる感じに囚われる事さえあります」
教授は紅茶を一口飲み、
「そんなにか。でも物理現象、それもニュートン力学の範囲におさまるはずだが」
涼は表情も変えず。
「物理学的には教授の仰る通りのはずですが、それだけではどうしても説明しきれないものがあります」
「どういうことだ」
「かつて量子論と相対論は別物と考えられていた時代があります。これも今では一体のものになっています」
涼も選りによって難解な例えを持ち出さなくとも良いのに。すると浦崎教授が、
「篠田君、解説したまえ」
げっ、どうしてボクに。量子論なんてちょっと囓っただけなのに。教授も意地が悪い。まずですが涼が言いたいのはディラックの海です。これは量子論と相対論を結びつけた先駆的な理論です。
「それだけじゃ、わからんだろ」
教授だって! 仕方ないからやりますが、物理学的な空間とはエネルギーが満たされているものと考えます。そこには電子が溢れ、電子は光子を放出しながらエネルギーは低下していきます。物理学ではエネルギーが低下するほど空間は安定しているとします。
ニュートンやファラデーはエネルギーがゼロの状態をもっとも安定していると定義し、それを真空と定義しています。ここも一般的な意味での真空と意味が違いますから注意が必要です。
ディラックは量子論に相対論を持ち込んでディラック方程式を編み出しますが、そうするとゼロを超えてマイナスの電子の存在が必要になることが分かったのです。そうエネルギーはゼロまで低下して安定するのではなく、さらにマイナスになって安定するはずの結論を導き出したのです。
そこはマイナス・エネルギーの電子がビッシリと詰まり、プラス・エネルギーの電子が入り込もうとしても、弾き返されて入れない状態であるとしました。それこそがディラックの海です。
マイナス・エネルギーの塊であるディラックの海は観察は不可能です。観察できないディラックの海の存在の証拠が陽電子になります。用語が混乱するので通常の電子をここでは仮に正電子としますが、
・正電子(マイナス負荷)
・陽電子(プラス負荷)
陽電子も本来は正電子と同じぐらい存在すべきなのですが、自然界では観察は出来ません。この理由についてファイアマンは、
・光子は陽電子と衝突する正電子になる
・正電子は陽電子と衝突すると光子になる
この二つの現象が起るのですが、この現象の中で陽電子が存在する時間が極めて短いというか、量子論的には時間が逆行しながら起る現象なので、実態として正電子と光子しか存在しなくなると説明しています。
ディラックの海の存在証明は、高エネルギーのガンマ線がディラックの海を突き抜けた時にわかるとされています。強いプラス・エネルギーであるガンマ線は通り抜ける時にマイナス・エネルギーの電子をプラス・エネルギーの電子に変えます。
プラス・エネルギーに変えられた電子ですが、マイナス負荷の正電子と、プラス負荷の陽電子が同時に出現します。つまり観察されるはずがない陽電子が見られ、それを説明するにはディラックの海の存在が不可欠になります。
「篠田君も量子論は苦手だな」
教授も他人の事を言えるかと一瞬思いましたが、強いて訂正もされなかったので良いことにします。
「天羽君は麻吹アングルが量子論、相対論の世界にまで広がると言うのかね」
「先ほども申し上げました通り、ニュートン物理学の範疇に留まるはずです。写真とはあくまでも人の目で見たものを捉えているからです」
量子論の素粒子レベルの動きはニュートン物理学を超えますし、それによりニュートン物理学では説明不能であった宇宙現象の説明が可能になったり、宇宙の始まりから宇宙の成立まで研究されています。しかし研究しているのは写真です。
「量子論まで広げる必要はないのは確認しています」
涼はそこまでやったのか。
「しかしニュートン物理学の範囲では説明できない範囲がどうしても残ります。残ると言うより、そこにこそ麻吹アングルの秘密がありそうなのです」
教授は不可解そうな顔になり、
「それはなんだね」
「それの確認を行わなければなりません。篠田君にも可能な限りの条件での実験を行って頂きましたが、やはりデータが足りません。足りないところを理論で埋めるために量子論まで考えてみましたが、これとて目指すものと違います」
「そのためにどうしろと」
「見たいのです。実際に撮影するところを。この壁を突破するには是非必要です」
浦崎教授は何か言いたそうでしたが涼はそれを制するように、
「これは私の西学での最後の仕事です。そしてこの解明は教授の大きな功績になります。余分な研究費用は残っていないのは百も承知ですが、もっとも費用をかけずに突破口を見つけ出す可能性があります。これを躊躇う理由はどこにもないかと存じます」
「尾崎美里か・・・」
教授室からの帰り道で、
「おかしすぎる。どう考えてもおかしすぎる。これを科学者として認めたくない」
「涼には何が見えてるの」
「もし涼の仮説が正しければ、誰も加納アングルに近付けない。理論で実在を証明してもディラックの海と同じ。その存在があるだけで誰も触れられないのも同様」
どんどん山姥が、
「だけど、説明できてしまう。加納志織が誰にも加納アングルを伝えられなかったかを」
「でも麻吹つばさは加納アングルを使える弟子を育ててるよ」
「それが怖すぎるのよ。そんな事は出来ないはずよ。そこまでになれば、まさに神の領域に踏み込むことになる」
神の領域?
「神は言い過ぎだけど、その領域に麻吹アングルが本当に関係していたのなら、現在の科学では近付けない。涼が出来るのはディラックの海の間接的実在証明が精一杯になり、麻吹アングルには実質的に手が届かないのと同じ」
涼にはなにが見えてるんだろう。