麻吹アングルへの挑戦:AI研

 ここは西宮学院大学理工学部データサイエンス学科人工知能研究室。長ったらしいから通称AI研と呼ばれています。理工学部も昔は本部にあったそうですが、手狭になったので移転しています。同じ西宮市内なのですが、

『狸ヶ原キャンパス』

 こう呼ばれています。移転した頃は周囲にホントに何にもなかったそうで、キャンパスに狸や狐が出没していたそうです。これも伝説みたいなものですが、講義中にふと隣を見たら猿が座っていたとか、廊下が騒がしいと講師が注意しようとしたら、猪の母子が走っていたなんて話が残されています。

 現在は住宅地になりそんな面影は殆ど残っていませんが、今でも本部の連中からは講義に来ているのは狸が化けてるのじゃないかとか、理工学部じゃなくて化け学部じゃないかと良く言われます。

「天羽君も呼ばれたのか」

 彼女は天羽涼。涼はリョウでなくスズミと読みます。

「例の寄附講座らしいよ」

 AI研に新たな寄附講座が設けられる話があるのです。寄附者はエクア開発なのですが、

「どうしてマンション屋がAI研に寄附講座なんだろう」

 もっとも誰が寄附者より寄附してくれて研究資金が手に入る方が嬉しいのが本音です。大山教授の部屋に入ると、

「これで全員揃ったな。新たな寄附講座はこの五人でやってもらう事にする。名前はフォトテクノロジー分室だ」

 顔見知りですが自己紹介となり、

「特任教授となる浦崎史郎だ。よろしく頼む」
「黒木孝之です。よろしくお願いします」
「林真奈美です」

 浦崎教授はAI研の次代を担うと呼ばれている俊英です。黒木も林さんも若手の期待の星とされていますから、粒よりのメンバーとして良いと思います。顔合わせの後に浦崎教授に連れられて研究室に。

「見ての通りの空部屋だが、ここから開始だ」

 机と椅子だけしかないのですがメンバーの初会議みたいになり、

「フォトテクノロジー分室はわかりましたが具体的には?」
「もちろん写真だ。フォトグラファーに挑戦する」

 AIは様々な分野への適用が広がっていますが、決して万能でなく得意分野、苦手分野がはっきりしています。得意なのはまず膨大なデータの記憶です。これも新たな事象を次々に記憶できます。そこから同じ事象に対して同じ判断が出来ます。判断は記憶量が多いほどより正確になります。

 判断については人間なら何千回、何万回も繰り返しているうちにどうしてもミスが生じますが、AIの場合は絶対に間違わない上に判断時間も瞬時です。この判断力のベースになっているのが膨大な記憶であり、そこからデータの共通点を探し出すことです。

 ここなのですがAIが得意とするのはデータを数値化できるものです。これさえ出来れば、人間にとっては手に負え無さそうな難題も、瞬時にその場の最適解を見つけ出すことが可能になります。

 たとえば囲碁や将棋。これらは決まったルールがあり、目的も明瞭です。盤面に無数の手があるように見えますが、これとて有限です。ゲームの進行による展開の変化も、それこそ過去の全棋譜をデータベースにすることが可能です。

 将棋なら何十手詰みであろうが読み切ることは可能ですし、囲碁でもヨセのすべてを、その変化も含めて読み切るのも容易です。さらに人間のように時間に追われての動揺とか、勝利に対しての震えにも無縁です。つまりは絶対に間違わないのです。

 ですから自動翻訳にも能力を発揮します。単語は有限ですし、文法も決まっています。どんなに長い文章でもパズルのようなものです。もちろん類似文の膨大なデータも持っています。逐語訳程度ならかなり前から可能になっています。

 逆に苦手分野は合理的な判断がしにくいものです。感情とか、倫理的な要素を含む判断とすれば良いでしょうか。たとえば仕事を割り振る時に、AIなら優秀な人間に仕事を割り振ります。

 そうすれば仕事が効率的に達成度の高いものになると判断するからです。しかし現実は必ずしもそうなりません。そんな事をすれば、優秀な者のみに仕事が集中してしまいます。それだけでなく育成という観点もあります。

 時間や達成度が落ちるとみても、あえてその仕事を任せることにより成長を期待するみたいな手法です。この場合はその仕事だけの判断で言えば不合理ですが、将来性を見ると取り戻せるぐらいの判断です。もう少し言えば、その期待に反しても認めてしまう不合理さも含みます。

 能力判定についてもそうで、AIは数値化されたものの足し算や引き算の結果になりますが、人の場合は先ほどあげた将来性だけではなく、その仕事への愛着とか、上司への忠誠心、さらに言えば結婚したからとか、子どもが生まれたとかで新たなモチベーションを含ませたりします。

 AIの判断は数値に基づくものであり、数値に基づく限りミスは起こしませんが、数値に出来ないものはそもそも判断が下せません。これは言語翻訳に於いても大きな壁になっています。

 論理性の高い文章ならばまだ良いのですが、芸術性の高いもの、会話文、口語文に近いものになると弱点が出てくるのです。それこそ感嘆符一つで読み手の感情を引き起こし、その感情から次の文脈を構成します。自然言語系とも呼びますが、こちらの研究はなかなかと言うところです。

 これに伴って創造を必要とする分野も苦手です。AIで音楽や絵画を行わせるものもありますが、あれは創作ではありません。蓄積されたデータの切り貼りに過ぎないのです。本当の意味のオリジナルをAIでは作れません。

 この辺はボクらは教師モデルと呼んでいますが、教師は生徒に物事を教えますが、教師の知識や経験以上の物を教えるとは不可能ということです。AIの場合は人では到底不可能な知識をデータとして覚え込めますが、それでもその枠内から一歩も出られないぐらいです。

 写真にもAIは進出しています。単純なものなら、犯罪捜査に用いられる人相の一致とかです。写されている場所の特定などもあります。この辺はデータさえ蓄積できればAIなら探索は得意ですから既に実用化されています。

「それって創造への挑戦ですか」
「いや否定かな」

 空前の写真ブームになっており、その中でプロの写真の価値は高まり、とくに一部のフォトグラファーの写真は神格化されるほどです。

「そんなものは誰でも撮れるのを証明する研究だ」

 これはなかなか野心的です。写真はデジタル・データの塊です。どんなに高精度の写真であっても、ドットの一つまで数値化できます。カメラもそうで、あれこれと撮影のための調節機構はあるとは言え、すべてデジタル化され有限の物です。

「察しが良いな。写真はカメラと言う制限されたメカニズムから産み出されたものだ。そうであれば、優れた教師モデルを作り上げればAIでも撮れるはずだ」

 絵画や文学に比べると創作物の自由度が限られるのはわかります。写真はカメラを使うと言うのが制限になり、そこが弱点になります。

「そういうことだ。ある被写体を撮影する時に、すべてのアングル、すべての撮影条件で撮り尽くせば、写真で表現できる可能性をすべて探り出せることになる」

 膨大そうな作業ですが、そういう単純作業こそAIの得意とするところです。そうそうこの寄附講座はフォトテクノロジー分室では長すぎるので、AI研では浦崎班とも呼ばれています。夜は浦崎班の立ち上げ飲み会になり、でっかい信楽焼の狸がトレードマークの居酒屋ムジナ庵に。

「浦崎班の出発を祝して」

 浦崎教授は寄附講座発足の前に先行して検討に入られており、

「我に勝算ありだ。写真は数値化しやすいものだ。AIとの相性が悪いとは思えない。諸君の健闘を期待する」

 飲みながら話していたのですが、

「教授、写真が数値化しやすいのはそうだと思いますが、写真の専門家の協力が必要ではないでしょうか」
「それも考えたが、あの連中はすぐに感性の世界に入りたがるから、あえて写真の素人だけでやろうと思う」

 聞いていると浦崎教授の構想は理詰めで写真を丸裸にしたいようです。

「出来るはずだ。写真は無限の組み合わせがある訳でがなく、いかに組み合わせが多くとも有限だ。組み合わせの数が多いのはAIにとってむしろ得意分野ではないか」

 被写体から得られる写真は機械ですべて撮れるはずで、そこからAIで優れた写真を選別させれば、

「写真の素人の科学者がプロのフォトグラファーの鼻をあかしてやろう」

 なるほど写真は有限の可能性の中からの選択と見れば、理詰めで追い詰められるはずです。ボクもファイトが湧いてきました。