シノブの恋:北六甲乗馬クラブ

 伊集院さんに連れられて行った乗馬クラブだけど、とにかく広い。屋外馬場だけで一万五千平米ぐらいあるんだって。

    「ここは?」
    「クラブハウスだよ」

 乗馬クラブってもっとハイソなイメージがあったんだけど、なんとも手作り感の溢れたというか、庶民的というか、ショボイというか。気楽でイイけどね。受付の人かと思ってたんだけど、

    「伊集院さん、お久しぶり」
    「社長も元気そうで」

 なんとこのクラブの社長さん。とりあえずシノブは入門体験コースということで、

    「結崎さん、はい手袋」

 後はレンタルでヘルメット、乗馬ブーツ、プロテクターを選んで、今日の馬との御対面。近くで見ると大きいけど、目は優しそう。まずは基本のレクチャーで、馬の乗り方、合図の出し方、馬の褒め方、馬からの降り方・・・

    「まず乗ってみましょう」

 なるほど踏台があるんだ。鐙に足を引っかけて、乗れた、乗れた。さすがに高いよね、

    「ではアンブルをしてみましょう」
 これはゆっくり馬を歩かせることで常歩(なみあし)のこと。どうやるんだと思ってたんだけど、合図を送るんだ。発進の合図は馬のお腹をやさしく圧迫するんだけど、バンバンやるんじゃなくて優しくやるみたい。

 歩き出してからも馬の右足が出たら左足で、左足が出たら右足で合図を送っていくんだね。なるほど、なるほど、これは面白い。乗馬って馬をコントロールするんだけど、ここまでやるんだ。

    「お上手ですよ」

 なんかすぐに慣れちゃった。

    「進行方向を変えてみましょう」

 馬の向きを変えるのも手綱でやると思ってたら、足と重心移動が重要で、手綱は補助ぐらいに考えるんだって。馬だって口をグイッとされるとイヤだと言われて納得。やったら馬の向きはすんなり変わってくれた。

    「なかなかセンスが良いですよ」

 インストラクターも褒めるのが仕事だろうけど、我ながら上手い感じがする。常歩をしばらくやってから、

    「次はトロットをやってみますか」
 トロットは速歩(はやあし)のことで、やったのは軽速歩。常歩より馬の上下運動が強くなるから、立ったり座ったりして反動を緩和する動きが必要だって。馬の向きを変える時の基本は、左回りの時は右の前肢が出た時に立ち、左の前肢が出た時に座るんだ。右回りの時はその逆。

 やってみるとすんなり出来る。体が馬の動きに馴染んでる感じ。体の中でこのリズムを覚えてる気がする。この時も手綱は使わないようにして、拳の位置も一定にするんだけど、言われるまでなく出来てる。

    「いやぁ、ホントに初心者ですか。トロットをこれだけアッサリ覚えた方は初めてです」

 馬の動きが全部わかっちゃうのよね。いや、馬の気持ちまでわかってる気がする。それに身を委ねて走らせる感じ。そう、この感じ、どこかで。

    「じゃあ、正反動もやってみましょうか」

 正反動とは立ったり座ったりせずに、座ったままでバランスを取って乗ること。うん、こっちの方がシノブには合ってる気がする。そうよ馬ってこうやって乗るものよ・・・あれ、どうしてそう思うんだろ。速歩じゃもの足りない気がする。ここまで来たら駆歩(かけあし)よ。それ、

    「お客さん、まだキャンターは危ないです・・・」

 ああ、気持ちイイ。馬に乗るってまさにこんな感じ。そしたら伊集院さんが馬を寄せてきて、

    「ホントに初めてですか」
    「そうです」

 ビックリしてた。それにしても、どうして乗れるんだろう。結崎忍時代から馬に乗ったのは、馬を曳いてもらったのに乗ったぐらいしかないはずなんだけど。初心者体験コースが終わって馬から降りる時にもインストラクターが踏台もって来たんだけど。

    「いりません」

 さっと馬から飛び降りちゃった。どうしても必要と思えなかったのよ。そこから伊集院さんとクラブハウスのレストランに行ったのだけど、これをレストランって言うのかな。名前こそレストランだけど、どうみても定食屋の感じ。だって入ったら、

    「いらっしゃい」

 シノブは粕汁定食頼んだんだけど、

    「粕汁定食、お願いします」

 店に響き渡るような調子の良い声が響くんだよね。店は大賑わいだけど、

    「繁盛してますね」
    「そりゃ・・・」
 このレストランは乗馬クラブの客だけでなく、早い、美味い、安いの三拍子がそろっていてレストラン目当ての客の方が遥かに多いんだって。たしかにボリューム満点で美味しい。

 客層は近所の農家のおっちゃん、おばちゃんや、トラックやタクシーの運転手、他にも営業の外回りの人とか。顔見知りも多いみたいで、話も盛り上がってる。そこに小林社長も顔を出して、

    「結崎さんでしたよね。いやぁ、ビックリした、ビックリした。初めてであそこまで乗れた人は初めてですわ」
    「それほどじゃ」

 そしたら伊集院さんも、

    「ボクもビックリした。あんなにあっさりトロットが出来るなんて驚いた」
    「そうでっしゃろ。さらにキャンターまででっせ。トロットからキャンターに切り替えられた上に、あの安定した状態に普通はいけまへんで」
    「乗馬姿勢も上級者だよ」
 お世辞半分だと思うし、小林社長の目的は入会勧誘だと思うけど、我ながら馬は合ってる気がする。伊集院さんも勧めるから正式に入会することにしたんだ。そしたら小林社長はクラブ内を案内してくれた。

 まずレストランだけど切り盛りしてるのは小林社長の奥さんと娘さん。奥さんは肝っ玉母さんみたいな感じだけど、常連客から頼りにされ慕われてる感じ。娘さんはアイドルって感じの人気者かな。

    「あははは、乗馬クラブよりよほど儲かってます」

 小林社長は馬が好きで厩務員になり、この乗馬クラブまで作り上げたそうなんだけど、広大な敷地は馬に理解のある地主さんが格安で貸してくれたそう。

    「あの山の中にはトレッキング・コースも作ってありまっせ」
    「社長、ありゃ、トレッキング・コースじゃなくてアドベンチャー・コースやで」

 厩舎の方に案内される時に崩れた建物があったんだけど、

    「ああ、これ。台風の時に壊れたんや」
 古い倉庫を強引に移築して作った屋内馬場だったそうだけど、強風に煽られて屋根が吹っ飛び、壁まで倒れてそのままだって。あの時の台風被害は市内でも大きかったけど、ここでも凄かったらしく、クラブハウスの屋根も飛んでいったそうなんだ。そうそう、トレッキング・コースがアドベンチャー・コースになってしまったのも同じ理由。

 厩舎は・・・言いにくいけどボロっちい。ボロっちい言えばクラブハウスのロッカーもうそうで、どこから拾ってきたんだろうって代物だったものね。

    「見た目は少々悪いですけど、台風の時にも壊れへんかったし。馬のためには・・・」

 小林社長が馬について話し始めると止まらなくタイプみたいで、たっぷり講釈を聞かされちゃいました。それにしても入会金にしろ、会費にしろかなり安い感じがしたんだけど、

    「うちの広さは神戸一、料金の安さも神戸一、馬の世話は日本一や」
 小林社長は馬に親しんでもらう人を増やすために、気楽に、手軽に乗れるクラブを目指してるんだって。ホントにそうみたいで、野良着で馬に乗ってるおばちゃんみてビックリしたもの。

 とにかくこれで伊集院さんとのデートの舞台はバーでの歴史談義から、乗馬クラブでのデートになった気がする。一歩前進したのは間違いない。伊集院さんにもらった手袋が嬉しい。