渋茶のアカネ:アカネの課題

 アカネがブレークした及川電機のカレンダーだけど、あれはまだ仕事としては未完成。残り半分をなんとしても完成させなきゃいけないんだ。それこそルシエンの夢なんだよ。でもそれにはツバサ先生の協力が必要なんだけど、これが難物。

 イヤなのも心情的にわかるんだ。でもね、でもね、ツバサ先生は協力する義務があるとさえ思ってるんだ。かえすがえすも失敗だったのは、カレンダー写真が完成して、残り半分の仕事の遂行を迫った時。あの時は後一歩で了解を取れそうだったのに、アカネがぶっ倒れてしまった。

 あれからはツバサ先生も用心してるのか、この話を出そうになるとスルスルと逃げちゃうんだよね。どこかでキッカケが必要なんだけど、今はアカネも一人前のプロだから、同じオフィスといっても、弟子時代みたいに始終顔合わせてるわけじゃないもんね。

 そんな時にビックリするようなニュースが飛び込んで来たんだ。及川さんが入院したって言うのよ。アカネも時間を作ってお見舞いに行ったんだけど。見るからに弱ってた。歳が歳だから、正直なところ危なそうな感じ。

    「アカネ君、わざわざ悪いね。やっと年貢の納め時がきたみたいだ」
    「及川さん、まだ早いですよ。来年のカレンダーも見てもらわないと」
    「あははは、心配しなくとも来年も依頼すると思うよ」
 明るく振舞ってはくれますが、及川氏は寂しそう。及川氏は終生独身。養女が一人いるんだけど、これが交通孤児らしい。どうして独身の及川氏の養女になったか疑問だったんだけど、もともとは及川電機の社員の娘だったらしく、様々な経緯で養女として引き取ったらしい。

 及川氏も及川氏なりに愛情を傾けて育てらしいのだけど、やはり他人。というか、既に小学校六年生だったみたいで、難しいお年頃。親子仲はギクシャクせざるを得なかったで良さそう。

 及川氏の後に社長になった娘婿は養女が見つけて来たというか、娘婿に口説かれてというかのなれそめらしい。要は普通に恋をして結ばれたと言いたいところだけど、娘婿は野心家だったで良さそう。

 及川氏の養女の娘婿になれば、及川電機の社長の椅子が回ってくるぐらいかな。及川氏もその野心は見えてたみたいだけど、堅実な経営の才はあるにはあったらしい。もっとも及川氏の評価は手厳しく、

    「うちぐらいの規模の会社を守りの経営で切り抜けるのは無理だよ。常にイノベーションがないと必ずジリ貧になる」
 これは取締役を解任された時に岡本さんに話したものだそうだけど、その予言通り及川電機の経営は徐々に傾いていき、ついにはエレギオン・グループの一員として再生されるところまで追いつめられたとして良さそう。

 及川電機の経営のことはさておき、娘婿の夫婦仲も良くなかったそうなのよ。それが娘婿の社長解任が決定打になり離婚。子どももいたそうだけど、そういう家庭で育ったものだから、独立してからは家にも寄り付かずみたい。

 及川氏はあの広いお屋敷に一人で住み、入院してからも家族の見舞はなさそう。そのためかアカネが行くとまるで孫、歳の差からするとひ孫かもしれないけど喜んでくれる。

    「及川さん、あのカレンダーの仕事はまだ終わっていません」
    「そんなことはない。あれは立派な仕事だった。あの頃を思い出したもの。加納先生が撮ったカレンダーを見る時のワクワク感と、それさえ裏切る仕上がり。冥土の土産に相応しいものだ」

 どう見ても及川氏に残された時間は長くなさそうなんだけど、

    「岡本社長から聞きました。あのカメラのプロジェクト・コードはルシエンではないって」
    「岡本もおしゃべりだな。そうだミューズだ」
    「でもプロジェクト・ルシエンはあったと」

 及川氏は遠い昔を思い出してるようでした。

    「プロジェクト・ルシエンは私的なプロジェクトで岡本んさんや、ごく限られたメンバーしか内容を知らなかったはずです」
    「あははは、ちょっと思い違いをしてる。岡本ならそう解釈してるだろうが、プロジェクト・ミューズはプロジェクト・ルシエンの最終部分だよ。そう及川CMOSの開発も一部だ」

 ああ、やっぱり。

    「及川さんがルシエン計画を始められたのは、加納先生にカメラを贈る約束をした時じゃないですね」
    「どうしてそう思うかね」
    「人であるベレンはルシエンに恋をします。許されぬ恋の条件にシンマリル奪取を命じられたベレンは片手を失いながらも使命を果たします。ところが、シルマリルを飲み込んだカルハロスによって深手を負わされベレンは死にます」
    「トールキンだね。加納先生をルシエンにたとえ、私がベレンってところだ」

 もう言ってくれてもイイのに、

    「及川さん、いつ知ったのですか。加納先生がエレギオンの女神であることを」

 及川さん顔に凄味が、

    「私は二十六歳の時に急死した親父の跡を継いで社長になった。しかもだ、当時はまだ大学院在学中だった。それも仏文だ。こんな役立たずが、あれほどの業績を残せるのが不思議だと思わんか」
    「そ、それは・・・」
    「経営だけならまだしも、数々の製品開発を行ったが、その基礎知識はすべて泥縄式に習得したものだ」
    「まさか・・・」
    「そのまさかだ。私の正体を知る者はおそらくエレギオンHDの小山社長ぐらいだ。シオリにはなぜか見えなかったらしい」
    「見えるって」
    「小山社長に聞いてみたまえ」

 往年の気迫が甦ったみたいな・・・

    「シオリをルシエンに喩えたのはそうだが、ベレンに喩えたのは山本先生だ」

 アカネの予想さえ超えてる。