渋茶のアカネ:サキ先輩の憂鬱

 オフィス加納では弟子育成の方針として、とにかく真剣勝負の場に放り込んで鍛えるのが基本で、アカネがやっている商店街の仕事もその一環。あんな小さな仕事を受けてるのは近所づきあいの意味もあるけど、弟子の育成用のためでもあるでイイと思ってる。

 でも間違っても練習用じゃない。アカネの初仕事もそうだったけど、イイ仕事のためには足が出るのも厭わないんだ。サキ先輩やカツオ先輩に聞いたら、やり直しは当たり前だって聞いたし、それでも気に入らなければツバサ先生やサトル先生が自分で撮ってたって言うもの。

 信じられる。あのツバサ先生がスーパーのチラシ用の特売の牛乳パックの写真を撮るんだよ。そりゃ、弟子はそうさせないように必死になるのは当然じゃない。オフィス加納での真剣勝負の場での育成とはそういうことなの。

 ちなみに次のステップはサキ先輩がやってる仕事。簡単にはオフィス加納の本気の収益業務のグンと依頼料の高い仕事。見てて羨ましいし、アカネも早く撮れるようになりたいって頑張ってる。


 この弟子の修業期間は、とくに決まってはいないみたいだけど、サキ先輩が聞いたところでは五年ぐらいが一応の目安らしい。それぐらいでモノにならなければ他の道を探すように言われるぐらいかな。

 これは必ずしもカメラマンをやめろって意味じゃなく、フォトグラファーの世界を目指すのは無理だって意味で良さそう。カメラマンも色んな方向性があるから、たとえば報道とか、珍しい花とか動物を探し出して撮るとか、写真館みたいなところで結婚式とか成人式、七五三を撮るとかもあるの。

 そういう方向性なら求められるのは技術で、技術だけならオフィス加納に五年もいれば鍛え上げられると見て良さそう。フォトグラファーになるのが難しいのは、技術は当然だけど芸術が求められる点なのよね。画家とか彫刻家みたいなものと似ているで良さそう。絵が上手い人は世の中にたくさんいるけど、プロの絵描きで食える人はほんの一握りだもんね。ツバサ先生の言い方だったら、

    『最後の関門は自分の世界を切り開けるかどうか』
 これは言い換えれば他人には撮れない写真を撮れるようにならなきゃいけないとも言える。わかりやすいのはツバサ先生の光の写真。あれは亡き加納先生とツバサ先生しか撮れないウルトラ・テクニック。

 サトル先生の渋い写真もそう。とくに女性の写真なんて凄くて、華やかじゃなく艶やかなんだ。まさに写真から色気が匂い立つって感じ。アカネもちょっと真似したことあるけど、渋いのはある程度は真似出来ても、どうしたらあんなに艶やかになるのか理解不能だもの。

 芸術系の宿命で最後の最後は本人が持っている才能になる気がしてる。努力だけで越えられない壁としても良いかもしれない。たぶんだけど五年頑張っても自分の世界を切り開ける目途も立たなければ、何年やっても同じぐらいとされてる気がする。アカネにそんな才能があるかどうかだけど、今はあると信じて頑張ってる。


 サキ先輩はアカネより入門年次が一年早いから四年目。さっぱりした姉御肌で面倒見が良くて、アカネもどれだけお世話になったかわからないぐらい。歳はバラしたらいけないかもしれないけど、きっちり大学を卒業されて、他のスタジオで四年間勉強されてるからもう三十歳になられる。

    「アカネ、ちょっと付き合って」

 週末の仕事帰りに商店街の串カツ屋に。学生相手の店で、安くてボリュームがあって美味いので、いつも大賑わいのお店。串カツにビールは最高の組み合わせとアカネは思ってる。さてなんだけどサキ先輩の表情がちょっとどころやなく暗い。

    「もう四年目なんだ・・・」

 アカネが三年目だからそうなるけど、

    「アカネを見ていてわかった気がする」
    「なにがですか」
    「サキはしょせん押しかけ弟子だって」

 サキ先輩は情熱家でもある。なにしろ入門のためにオフィスの玄関で一ヶ月籠城してるんだもの。そのせいで、オフィス加納では押しかけての弟子入り志願はタブーになってるぐらい。

    「そんなことありませんよ、あれだけ上手なのに」
    「上手か・・・今だけならアカネより少し上手だけど、こんなもの差じゃないよ。時間の問題でアカネは追いつける」
    「その時間の間にまたサキ先輩は先に進むじゃないですか」

 あれっ、サキ先輩、ちっとも箸が進んでいないじゃない。

    「アカネ、先に進んだらどうなると思う」
    「どうなるって、ドンドン進んで・・・」
    「そう壁にぶち当たる。最大の壁にね」

 ふと気が付いたようにサキ先輩はアスパラのベーコン巻を口にして、

    「入門の時にツバサ先生にはっきり言われたの。サキにプロは無理だって。でもいつまでも籠城されたら迷惑だからって、お情けで弟子にしてもらったようなもの」
    「そんなぁ」
    「うふふふ、サキだって真に受けてた訳じゃないよ。絶対に才能はあるはずで、ツバサ先生に目に見えてないだけだって」
    「そうですよ、絶対にありますよ」

 今夜のサキ先輩は変だ。こういう時にこそ少しでも励まさなきゃ。

    「自分の才能はどこにあるんだろうって、ずっと探してた」

 アカネの才能ってなんだろう。考えたこともなかった。

    「それでね、やっとわかった気がする。才能は探すものじゃなくて持ってるんだって。カツオ君もそうだけど、それよりなによりアカネにね」

 えっ、アカネが、

    「柴田屋の仕事を見せてもらって痛感したのよ。こんなに差があるんだって。それだけじゃないわよ、ペンギンとかライオンもビックリした。あれはサキもやったけど、絶対に敵わないと思ったもの」
    「あんなのはアイデアだけのものです」
    「コロンブスの卵は、最初にやったコロンブスが偉大ってこと」

 サキ先輩のあんな寂しそうな顔を初めて見る気がする。

    「ツバサ先生にさ、ここのところずっと言われてるのは、
    『サキ、これで満足してるのか』
    サキなりに創意工夫の限りを尽くしたつもりだけど、言われたらわかるのよね。単に上手く撮っただけの写真だって。何かが足りないのよね。何が足りないかずっと考えていたんだけど、アカネの写真を見てわかった気がする」
    「アカネのはマグレ当たりです」
    「才能とは足りないものを最初から持ってるんだって。凡人は足りないことだけは気づくけど、それを得ることはできないんだろうって。アカネ、あんたの写真は悔しいぐらい光ってるよ」

 そうかなぁ。アカン、アカン、ここでアカネが喜んでどうするの。今日のアカネはサキ先輩を励ます役なんだ。

    「たったの四年じゃないですか。大器熟成って言葉もあるし」
    「それを言うなら『大器晩成』。ツバサ先生がアカネを弟子にした理由がよくわかったもの。ここまで見えてるんだって。アカネはプロになれるよ。でもサキは・・・」
    「サキ先輩も必ずプロになれます。アカネが保証します」
 アカネが保証したどころでサキ先輩が元気になるはずもなく、この夜は大変だった。アカネがいくら止めてもベロベロになるまで酔っ払い、カツオ先輩にも頼んでサキ先輩のアパートまで担ぎ込んでもらったのよ。もちろん心配だから朝まで介抱してた。だって、あんなに酔っぱらったサキ先輩を初めて見たんだもの。


 サキ先輩は週が明けても出勤してこなかったんだ。心配で見に行こうとしたらツバサ先生は、

    「ほっとけ。それより仕事だ」

 冷たいと思ったけど、ここでアカネまで抜けると仕事が回らなくなるのは現実で、アカネもサキ先輩の穴を埋めるためにフル回転。そしたら夜になってツバサ先生に呼ばれた。

    「・・・サキはそんな事を言ってたのか」
    「ツバサ先生、サキ先輩には才能がありますよね」

 ツバサ先生はじっと考え込んでから、

    「誰にでも才能はある。でもね、アカネ、その才能が写真に向いているとは限らないってこと」
    「アカネはサキ先輩に才能があるって信じてます」

 ツバサ先生はゆっくり立ち上がり窓に手をかけ、

    「サキには悪いことをしたと思ってる。あの時にホースで水をぶっかけてでも追い払っとくべきだった」
    「そんなぁ」
    「三年間もサキの人生を浪費させてしまったと反省してる」

 振り向いたツバサ先生は、

    「アカネ、だから追ってはいけない。ここに居たって悲しい思いをするだけだよ」
    「どうにか、ならないのですか」
    「アカネも覚えとくんだ。プロの世界は才能があってもダメな時はダメなんだ。才能のあるものが死に物狂いで競い合って生き残った者だけが食える世界だよ。そこに才能の無いものを引きずり込むのは罪深いことなんだ」