彗星騒ぎでクレイエールはクール・ド・キュヴェやジュエリーが飛ぶように売れたり、六甲山の保養所が売れたりしましたが、ミサキはトータルとしては損失の方が多いと思っていました。ところが蓋を開けてみるとアングリするような状況になっています。
株式証券市場も乱高下から、ついには大暴落になり市場自体が閉鎖されてしまったのですが、底値を狙ってこれでもかの買い入れを行っています。これは市場からだけではなく、投資家との直接取引も多数あったようで、株式証券市場が回復すると時価総額がエライ事になっています。
それと日本では割と平穏でしたが、そうでない国の方が多かったのです。そういう国では政情不安に陥るのですが、その混乱に乗じて高級時計メーカー、高級ワイナリー、高級レストラン、さらには高級ホテルまで捨て値に近い値段でゴッソリ買収しています。それ以外にも買収したリストが延々と並んでいるのには仰天させられました。
六甲山の保養所こそ売却しましたが、一方で日本だけでなく世界各地の一等地の不動産をこれまたタダ同然みたいな捨て値で買いまくっています。どれだけ買ったんじゃとあきれるぐらいです。コトリ副社長に、
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「前に彗星騒ぎで乗じるのは女神の矜持に関わるって仰ってましたが」
「買ってくれっていうから買っただけ」
それと、これだけの買収や投資となると重役会議だけではなく取締役会議の了承が必要なはずですが、彗星騒ぎがある程度広がった時点でユッキー社長は、
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「非常事態に迅速に対応するために、経営の大権を社長の独断に委ねてもらう」
そう宣言して、なぜか会議室の花瓶の水をぶちまけました。あれはなんだとコトリ副社長に聞いたら、
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「エレギオンの時の女神大権みたいなもの」
「花瓶の水の意味は」
「そうするのが慣習やねん」
「なにか謂れがあるのですか」
「コトリも忘れてもた」
これまではパリにヨーロッパ支社、ニューヨークに北米支社があり、他は連絡所程度のものでしたが、顧客へのサービス強化のために支社に格上げ強化されたのです。具体的にはヨーロッパではパリ以外に、ロンドン、ローマ、ベルリン、マドリード、アムステルダムなどの主要都市。アメリカ大陸でもロサンゼルス、オタワ、リオデジャネイロ。アジアも北京、ニューデリー、中近東ではカイロ。オーストラリアもシドニーに支社を設けています。
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「それにしてもシドニー支社は立派ですねぇ」
「あれ、まあ、ユッキーも必要だろうって」
現地採用者については現地支社限定採用者と、そうでない者がいます。そうでない者は妙な表現ですが、もう少し正確に言い直すと、
- 現地国内のみ活動する社員
- 世界中のクレイエールで活動する社員
本社勤務になる海外支社からのスタッフですが、これも二種類に大別されます。一つは通常の異動によるものです。こちらについてはまだ現地採用者が採用され始めて日が浅いのでまだ現われておりません。もう一つが見学・研修のためです。
見学・研修と言っても、これは現地限定採用者から、そうでなくなるためのステップみたいなもので、ある種のテストみたいなものです。逆に言えばここをクリアして幹部社員への道が広がるみたいなところがあります。
ミサキが担当しているジュエリー事業にも、シドニー支社からフィリップ・スミス君が来ています。このフィリップ・スミス君はミサキも旧知の人です。『フィル』と呼んでますが、学生時代にミサキの家に三ヶ月ほどホームステイしてたからです。フィルは大学卒業後にクレイエールの現地社員の募集に応じ、希望して日本の研修に来てるってところです。なかなか可愛いところがあるのですが、困るのはミサキのことを、
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『魔女』
こう呼ぶのですよねぇ。これはホームステイに来た時に、ミサキを少し年上のお姉さんぐらいと信じ込んでいたことに始まります。
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「最初はサラの姉って思ってたんだ」
これがサラとケイの母であること知って驚いたそうですが、それでも、
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「十代で結婚して、子どもを産んでたと思ってた」
三ヶ月もいればミサキの歳もバレますから、
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「オー・マイ・ガッ」
てなところです。フィルがホームステイしている間にユッキー社長や、コトリ副社長も遊びに来たことがあるのですが、当時のフィルの怪しい日本語でお二人が社長とか副社長とも気づくはずもなく、
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「あの二人は独身か」
「そうだよ」
「ミサキみたいに魔女のように若く見えるということはないか」
「ちょっと若く見えるけど、ミサキほどじゃないよ」
「あの二人もクレイエールの社員か」
「そうだよ」
まさかと思いますが、フィルは社長か副社長を口説き落とすためにクレイエールに入社したとか。これも聞いてみたのですが、
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「ボクを見損なわないで欲しい。あの二人『が』ではなく、あの二人『も』だ」
はい、しっかり目標にされてました。でもフィル、あのお二人は手強いですよ。フィル君がジュエリー事業部で研修している時にユッキー社長に呼ばれました。
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「ミサキちゃん、フィルはどう」
「はい、真面目に研修に取り組んでいます」
社長もフィルのことは知っています。ただ、フィルが日本に来てから一度もお会いしてないはずです。
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「評価は」
「イイんじゃないでしょうか」
「フィルの希望は」
「将来的には本社勤務だそうです」
ユッキー社長は少し考えてから、
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「フィルは日本に残しといて」
「えっ」
「ミサキちゃんとこで良いわ。コトリのところにするほどじゃないと思うし」
どういう意味だろう。それからニコッと笑われて、
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「ミサキちゃん、そろそろ社長室のカーペット敷こうよ」
「ダメです」
とはいうものの、とにかく家一軒分相当の豪華仮眠室が出来ており、社長も副社長も誰かと会う時にはリビング・ルームを使うことが多いようです。
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「社長、聞いてもイイですか」
「な~に」
「ひょっとして、この社長室を使われるのはミサキと話をするときだけですか」
「さて、どうかしら」
そこにコトリ副社長がエレベーターから出て来られ、
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「コトリ、なに買ってきたの」
「燻製作ろうって思って」
「でも煙は困るわよ」
前に仮眠室の庭でバーベキューをやられ。火災警報は鳴る、スプリンクラーから放水されるはの一騒ぎが起ってます。そうなることぐらい気づけよと思ったものですが、懲りられたのは懲りられたようです。
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「それがやね・・・」
大型のオーブンとスターぐらいの大きさですが、煙もほとんど出ずに燻製が出来るそうです。
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「そりゃ便利そう。とりあえず何を作るの」
「とりあえずウインナーと卵とチーズでやろうと思て買ってきた。ソミュール液も買って来たから豚とか鶏も出来るで」
「うわぁ、楽しみ」
「今夜はこれで一杯」
「うん、うん」
ただコトリ副社長が帰って来たのでお二人は燻製作りに熱中してしまい、フィルの本社採用の理由を聞きそびれてしまいました。それにしても、いつもながら思うのですが、あれだけ忙しいのに、こういう遊びの時間はちゃんと作り上げてしまうんですよねぇ。