氷姫の恋:救命救急科

 救命救急科は三年前に出来た。今年で四年目。加賀教授は港都大出身なんだけど、救命救急を志して大学を飛び出し国内外、とくにアメリカで長いこと仕事してはった。日本に帰ってからは西北大学に招聘されて救命救急科の立ち上げに成功し、母校の港都大に招かれて今に至るって感じ。なかなかさばけた人だけどある意味ではかなりの変人ぽい。

 赤城准教授は西北大学時代からの加賀教授の愛弟子の一人。腕は立つ。口は悪いけどたぶん根は善人だと思う。とにかく加賀教授に心酔していて、赤城准教授の前で加賀教授の陰口を叩くのはタブー。

 ただ救命救急科の人気はない。大学病院ってところはタコツボ専門家の牙城みたいなところがあって、ある意味なんでも屋の救命救急はあまり評価されていない部分がある。他にも理由があるけど、長くなるので省略。

 加賀教授も赤城准教授も医局員を必死になって集めてるけど、一年目は一人、二年目・三年目は二人ずつを辛うじて引っ張り込んでいる。今年はウチと佐野君の二人。これで九人だけどもう一人いる。

 加賀教授はなんとか救命救急科だけで回したいみたいだけど、こんな陣容じゃ二十四時間三百六十五日は到底無理だから、他科の応援を仰いでいる。そうやって救命救急科に出入りするうちに入って来たのが権田原講師。これが序列上はナンバー・スリーになる。

 ちなみにウチは救命救急科初の女性医師。もっとも加賀教授のところに入局希望に行ったら、ウチをしげしげと見て、

    「無理じゃないかな」
    「女性だからですか」
    「そんなことは言っておらん。アメリカだって女性の救命救急医はいくらでもおる」
    「ではなぜ」
    「理想はともかく、現状の勤務状態は激務を越えてムチャクチャだ。君の体が耐えられるかどうかを考えとる」
    「ではお断りですか」
 加賀教授は少しだけ考えて、
    「歓迎する」
 晴れてかどうかわからへんけど救命救急科の研修医になったんだけど、ウチの指導医は加賀教授。別に特別扱いではなくて、とにかく規模が小さい医局なもので、開設一年目から加賀教授と赤城准教授はずっと指導医やってはる。

 ただ少ないとはいえ研修医が五人になったので若干シフトが変わったみたい。二~四年目の研究医は赤城教授がメインで見る事になり、今年の新入局のウチは加賀教授、佐野君は権田原講師が指導医になった。

 入局歓迎会では桐山教授がいっていた社会の現実を見る事になった。佐野君は高校ではテニス部でインターハイまで行った本格派。大学でも医学部の大会でベスト4まで進んだ実績がある。もっともテニスに入れ込み過ぎて浪人歴も、留年歴もある。

 ただ救命救急科的には佐野君のスポーツマンとしての体力を高く買ってるみたい。それに比べ、見るからに華奢なウチは、

    『半年かな』
    『いや三ヶ月無理と思う』
 研修医は現在五人だけど、五人しか入らなかった訳じゃなくて、八人が入って三人脱落してる。それぐらい激務ってこと。ちなみにウチは救命救急科で初めての女医だけど、入局早々脱落組に見られたってところ。うん、ガチの体育会系の職場であるのが良くわかる。

 医師で女性はウチだけど、看護師以下はさすがに女性が多い。男性看護師もいるけど、数からすれば女性が多い。これもさすがに激務に生き残っただけあって、なかなかの体格してはる。女子プロレスとか女相撲の集団と見られそうなぐらい。そういう連中のウチを見る目も温かくない。とにかく陰口まで声がデカいから、

    「お嬢様のママゴト遊びじゃないんだよなぁ」
 ウチは間違ってもお嬢様として育てられたことはないし、そういう扱いもされたことないけど、華奢すぎる容姿と、桐山邸に住んでるからそう思われたらしい。国試を通った後に独立しようと思ったのだけど、提示された給与を見てあきらめた。あれじゃ、家賃どころか光熱費も支払えへん。そのうえ教授から、
    「バイトに出してやるほど余裕がないから覚悟してくれ」
 美知子さんは大喜びだったがウチは残念だった。でも現実の前にあきらめた。とにかく余程気合を入れないと生き残れそうにないのだけは思い知らされたのが歓迎会だった。


 さてやけど歓迎会の前から研修はスタートしてる。こういう診療科やから、救命救急室で指導医である加賀教授にバッチリ貼り付き。ほいでもって教授の指導はシンプルやった。初日は、

    「見ろ」
 そう言われて見続けた。教授は陣頭に立ってバリバリやりはる。勉強材料はたった一日でもワンサカってところ。そのまま夜に突入し朝が来たけど、教授はある患者を診察した後に、
    「木村先生、まず・・・」
 教授が指示したのは治療手順。すべて昨日から見た中にある。『いきなり』と思わんでもなかったけど、見てるだけじゃ身に付かないから、教授の指示通りに処置していった。この時にはウチの見たらなんでも覚え、すぐに出来てしまう能力に感謝した。それを見ていた教授は、
    「ほ、ほう」
 ずっとこんな調子だった。とにかく忙しい上に人手不足も深刻だから、教授は次々にうちに新たな手技や治療法を見せ、見せたらそれで出来る範囲の患者の治療をウチに任せて行った。一か月ぐらいしてから教授は、
    「木村先生、どうする」
 どう治療を進めていくかの質問だった。ウチが答えたら、
    「やってくれ」
 三ヶ月ぐらいすると、
    「診ろ」
 教授より前に診察した。
    「こういう手順が必要ですが、わたしにはまだ○○が出来ません」
 教授は少し首を傾げながら、
    「わかるのか」
 教授はウチの出来るところはやらせた上で、
    「見ろ」
 とにかくベルトコンベアーみたいに重症患者が次々に運び込まれるので。半年もすれば教授の手技、治療方法のかなりの部分を見て覚えられた気がする。それにしても教授の診断能力は卓越しており、見ただけで、これはウチが治療できる範囲か、そうでないかを瞬時に判断できたみたい。

 ウチが担当する患者のレベルはドンドン上がって行き、任せた教授は見もしなくなった。一年目の研修医にそこまで任せて良いのかの疑問はあったけど、教授は教授で向こうで重症患者と格闘しているので『こんなもんか』と思うようになってた。ある時期から、

    「木村先生、これはボクが診る。見ときなさい」
 それは、まだウチが見たことの症例の手技や治療法が含まれるものだった。でもそんな事は少なくなり、やがてほぼ無くなって行った。


 誰からも懸念された体力やけど、教授は情け容赦なかった。教授自体が『鉄人』と呼ばれるぐらい働く人だけど、付いてる研修医は同じだけ働かなあかんて寸法。二晩、三晩の徹夜は日常で、一週間ぶっ通しもよくある。

 それでも自分で驚くぐらいタフやった。一週間ぐらい寝なくてもなんてことない感じ。まだまだ余裕綽々で、後一か月どころか、一年だって平気な感じ。教授は激務自体は気にしないし、それによるスタッフの疲弊をあんまり気にしないタイプみたいだけど、

    「木村先生は疲れないのか」
 ポツリと漏らしたのが印象的やった。ただね、教授の発想は明後日だから、これは感心したんじゃなく、それだけ使っても大丈夫だって確認みたいなもので、ますます仕事が増えただけやった。

 それとプレッシャーにも無縁なのはようわかった。救命救急科も修羅場みたいなところだけど、一度も緊張したことないのよ。これは救命救急だけでなく、どんな時にも心底で緊張したことがないと言っても良いかもしれない。いつも心の奥底で『これぐらいは・・・』としか思えないってところ。

 どう言うたらエエのかなぁ、もっと途轍もない重圧とか責任を日常としていた時代があった気がしてならないの。そんなもの、どう考えたってウチの人生であるはずがないんやけど、どうにも、こうにも、救命救急ぐらいじゃ遊んでるぐらいにしか感じへんのよね。教授は何も言わないけど赤城准教授は。

    「木村先生のネジは一つどころやないぐらい飛んでる」
 加賀教授の指導法はウチには良かったけど、途中からムチャしてるんやないかと思い始めてる。そりゃ、ウチはそういう能力者だから一度見れば完璧に習得できて、次から自由自在に使えるようになっちゃうけど、誰しもそう出来るとは思えんとこがあるのよね。というか普通は無理やろ、そんなもん。

 さすがにこの頃は余裕がなくて、教授に付いて行くの必死だったから知りようも無かったんだけど、後で聞いたらやっぱり教授の指導法はムチャだったみたい。救命救急科にはウチが入るまでに八人入局してる。残ってるのが五人だから三人は脱落してるのだけど、これが全部教授が指導医になったもの。やっぱりって妙に納得した。

 そのせいかウチを見る周囲の目が変わってきたのがわかる。医療も実力主義のところがあるから、出来ることは素直に認める面はある。この辺は他のと比較があんまりないから、『たぶん』やけど一年もしないうちに、先輩研修医は追い抜いてしまったぐらいに見られてる感じ。そりゃ、『これは』って重症が担ぎ込まれてきたら、手さえ空いてれば,

    「木村先生頼む」
 こうやって教授から振られるし、振られたウチも顔色一つ変えずに淡々と処置を行うのが救命救急科では日常になっていたからやと思う。強面のコ・メディカルもウチが担当となるだけでホッとする空気が流れるぐらい。なんとかこれで医者として、救命救急医としては食って行ける目途がついた一年だった。