女神伝説第4部:コトリの死

 あれからコトリ専務に連絡を取ろうと何度も試みましたが無駄でした。マンションも訪ねてみましたが応答はありません。近所の人に聞いてみたのですが、人の気配がここのところずっと無いとの事でした。せめてもの期待を込めてスマホにかけてみたら、呼び出し音が室内から聞こえます。これは玄関にスマホも置いて家から出ていると判断せざるを得ません。

 山本先生のところを確認したら、一度だけ訪ねて来られたそうです。それも夜に突然だったので驚かれたそうですが、それよりも驚いたのがコトリ専務の顔色の悪さとやつれよう。山本先生も、加納さんも大変心配されたそうですが、コトリ専務は、

    『そうやねん。検査の結果待ち。入院になったら見舞いに来てね』
 こう言われたそうです。山本先生も加納さんも、それだったらとその場は納得されたそうです。とにかく心配されてて、あれからどうなったのか、どこに入院しているのかを聞かれてしまいました。隠しても仕方がないので、コトリ専務が行方不明状態だと話すと電話口の向こうで絶句状態でした。お気に入りのバーのマスターにも聞いてみたのですが、一度だけ来られたそうです。長年の常連さんですし、その日の印象はよほど強かったみたいでよく覚えてらっしゃいました。
    『随分お疲れの様子で、静かにチェリー・ブロッサムだけ飲まれて帰られました』
 コトリ専務の最後の一杯はあのチェリー・ブロッサムだったんだ。コトリ専務にとって、チェリー・ブロッサムは今でも特別のカクテルだったのを思い知らされました。コトリ専務には何度もあのバーに連れて行ってもらいましたし、チェリー・ブロッサムに関する思い出話も聞かせてもらったこともあります。でもオーダーしてるのを見たことがありません。コトリ専務は、
    『チェリー・ブロッサムは思い入れこそテンコモリあるけど、飲んだら甘ったるすぎてコトリの口に合わへんねん。カズ君も、もうちょっと他のにしてくれたら良かったのに。つうかあんまり飲みたないから選んだんやろか』
 そう笑い飛ばしていましたが、辛すぎてオーダー出来なかったのが良くわかります。その特別のカクテルをラスト・オーダーにされたコトリ専務は、山本先生との思い出に耽られていたに違いありません。もちろん、あのバーだってそうです。コトリ専務は三杯目のチェリー・ブロッサムを山本先生とついに乾杯することは無かったのです。

 コトリ専務はあれほど『男が欲しい』と口癖のように仰っておられたのに、山本先生の後は誰も結婚を考えるほどの相手はおられなかったと思います。たしかにマルコと付き合った時期もありましたし、デイオルタスとの危険な逢瀬はありましたが、コトリ専務が心の底から愛していたのは山本先生だけだった気がしています。

 御実家にも連絡してみたのですが、連絡こそあったものの訪ねては来られなかったそうです。冬月さんや龍すしの女将さんも聞いてみたのですが、逆に驚かれてコトリ専務の状態を聞かれただけでした。会社の雰囲気はこれ以上はないぐらい重苦しいものになっています。誰もが心配し、誰もがコトリ専務の回復と復帰を願っています。重役会議でも警察に捜索願を出そうとの提案がされていましたが、社長は首を縦に振りませんでした。会社では休職扱いにしていますが本当は退職だからです。


 コトリ専務の発見は唐突でした。花時計の前で倒れているのが通報されたのです。警察が来た時には既に亡くなられており、御両親が引き取りに来られ、御遺体は実家の方に運ばれました。会社では社長が、

    「出来るだけ御実家のお手伝いをしてあげてくれ。それと大勢で押しかけると迷惑になるから、葬儀に出る人を厳選して欲しい」
 会社から参列したのは社長と副社長とシノブ常務、マルコや佐竹本部長、山村さんや、鈴木さんなどと総務からの葬儀応援部隊も含めて五十人程度に絞らせて頂きました。他には急を聞いて駆け付けた山本先生や加納さん、冬月先輩や龍すしの大将や女将さん、天城教授や相本准教授の姿もありました。御両親が涙ながらにお話されたのは、コトリ専務であるのは確認出来たものの、見る影も無いほど変わり果てておられたそうです。そのために御両親は決して棺を開けようとされませんでした。御両親は、
    「娘はこれほど皆さんに慕われて幸せでした。最後のお別れをされたいとは思いますが、どうか元気なころの娘の顔を思い浮かべてあげてください。それが親として娘にしてあげられる最後のことです」
 葬儀は近くのお寺で行われましたが、生憎の雨です。それもかなり激しい雨になりました。あれほど晴れの似合う人の葬儀が雨とは悲しくなりました。出棺となり霊柩車を見送ったのですが、十二月の冷たい激しい雨の中に傘もささずに呆然と立ち尽くす山本先生と、それを慰める加納さんの姿がありました。誰もが交わす言葉も少なく帰って行きました。

 会社でも異例のことながらお別れ会が執り行われました。そうでもしないと収まりがつかなかったからです。最初に弔辞に相当する者を社長が読まれましたが、途中から男泣きに暮れてしまい、これがまた涙を誘います。祭壇に飾られた大きな小島専務の写真がこぼれるような笑顔なのが余計に悲しく感じます。失った者の大きさを誰もが痛感したのでした。

 年も開け、四十九日も終った頃に御両親が会社を訪ねて来られました。これは会社に残された遺品の整理もあります。御両親と専務室を一緒に見たのですが、私物と呼べそうなものは殆ど何もありませんでした。社長も同席したのですが、

    「無理なお願いとは存じ上げますが、見ての通り、小島専務の私物と呼べそうなものは殆どありません。宜しければ、しばらくこの部屋はこのままにしておきたいのですが」
 御両親は了解されました。その代りにお願いされたのが小島専務のマンションの部屋の整理を手伝って欲しいとのことでした。社長はシノブ常務を呼び出しミサキとともに行くように命じられました。部屋に入ると玄関の靴箱の上にスマホが置いてありました。部屋はきちんと片づけられています。御両親はあちこちを見ていましたが、いくばくかの物を手にしただけで、
    「大変申し訳ありませんが、後の物の処分をお願いしてもよろしいでしょうか」
 おそらく辛すぎて、これ以上見て回るのに耐えられなくなったと思います。これはミサキもシノブ常務も同じです。見るもの、手にするものすべてがコトリ専務を思い出させてしまうのです。ミサキには今でも、
    『ミサキちゃん、いらっしゃい。ビールなら冷蔵庫に冷えてるよ。欲しかったら自分で取って来てね』
 そう笑いながらコトリ専務が出てきそうな気がしてならないのです。ミサキもシノブ常務もどうしても手を付ける気にならず、
    「ミサキちゃん、この部屋は私が借りるわ。悪いけど手続きお願い」
    「いえ、ミサキが借ります」
 どうにも手を付ける気が起らなかったのです。会社に帰って社長に報告すると、クレイエールの社宅として借り上げ総務部が管理する事になりました。社長は、窓に向かって立たれ、
    「当然のことだ。小島君は必ず帰ってくる。帰ってきた時に家も、専務室も無くなっていたらおかしいだろう」
 社長は本気だ。本気でコトリ専務が帰ってくると信じておられるんだ。たとえ人が変わっていても、コトリ専務であればすぐにでも専務に戻ってもらうつもりなんだ。ミサキだってそうなって欲しいと心から願いました。