私はアパレルメーカー『クレイエール』に勤務三年目の結崎忍。仲間からは『シノブ』って呼ばれてます。部署は総務部なのですが、私の憧れの人にコトリ先輩がおられます。まだ三十代半ばですが既に課長になられています。本来は課長ってお呼びしないといけないのですが、
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「課長なんて仰々しくて嫌だから、せめて先輩にしといて」
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「コトリは・・・」
後輩の面倒見もよくて、優しい方です。姉御肌の面もありますが、それより私たちに交じって『キャッ、キャッ』とはしゃいでしまわれる感じです。それが全然違和感がなくて、下手すると私たちより年下じゃないかと思われる時がよくあります。
ファッションセンスも抜群です。ブランド品で身を飾るなんてことはしないのですが、とにかくコーディネートが凄いんです。私たちも時々アドバイスをもらうのですが、コトリ先輩のちょっとしたアドバイスで見違えるように変わるのにいつも驚かされます。
コトリ先輩はいつもニコニコされているのですが、温かい笑顔で、その笑顔だけで周囲がパッと明るくなります。コトリ先輩の笑顔を見るだけで自分もニコニコしたくなるぐらいです。このコトリ先輩の微笑みですが社内では、
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『天使の微笑み』
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「そのふざけた笑い顔をやめろ」
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「小島君、以前のように微笑んでくれないか」
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「ヘラヘラ笑うな」
この二つの事件から、会社上層部はコトリ先輩の微笑みと業績が奇妙にリンクすることに気が付いたと言われています。もちろん理由などは説明しようがありませんが、これだけ業績とコトリ先輩の微笑みが一致したのは無視できないぐらいのところです。そんな時に天使の微笑みを決定づける第三の事件が起こります。
コトリ先輩は恋をされたようです。そりゃ、あれだけ素敵な人ですから恋しない方が不思議なのですが、この時は私も知っています。コトリ先輩の笑顔が満開の桜のように輝いていました。今から思えばコトリ先輩の笑顔に連動してか、業績の方は史上最高益を更新する勢いになっていました。
そんなある日に出社した時に会社の雰囲気の変わりように驚かされました。昨日まで、あれだけ活気にあふれていたのに、まるで御通夜状態です。真剣に社長でも亡くなられたのか思ったほどです。社内はどこも暗く沈んでいたのですが、総務の部屋なんて真っ暗でした。外は晴れているのに、字を読むのさえ難儀するほどの暗さです。その時にコトリ先輩の顔を見たのですが、ニコニコ顔は消えうせ、笑顔どころかそれは悲痛な表情でおられました。
昨日まで飛ぶように売れていた商品の売り上げがバッタリ止まり、かわりにクレームの嵐が吹き荒れ、返品の山が積みあがります。社内では業績回復のための対策会議が連日のように行われていましたが、何をやっても裏目裏目。業績は赤字転落確実どころか倒産や吸収合併の噂さえ真剣にささやかれていました。万策尽きかけた時に社長がコトリ先輩の微笑み伝説にすがろうと決断されたそうです。重役会議室に呼ばれたコトリ先輩は社長以下の幹部役員から、
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「我が社のために微笑んでくれないか」
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「申し訳ありません、今は微笑みたくても微笑めない状況なんです」
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「作り笑いでも構わないから」
コトリ先輩に後で聞いたことがあるのですが、作り笑いをするのはかなり苦痛で、どうしても続けるのが難しかったそうで、ずっとは出来なかったと仰ってました。そんな状態が一年近く続き、私も会社がどうなってしまうのか心配してました。
今日もまたあのギクシャク状態の会社に行くのは気が重いと思っていたら、社内の空気は一変してました。私は大急ぎで総務部の部屋に行ってみると、コトリ先輩の天使のニコニコ顔が戻っておられるのです。この時にコトリ先輩の微笑みは会社で決定的に重視されるようになったと言われております。
これにはさらなる第四のエピソードが加わります。会社側の重視といっても、最初は重役会の申し合わせ程度だったと思っています。ですからコトリ先輩の天使の微笑みの意味をよく知らなかった方も少なからずおられたのです。
コトリ先輩はずっと総務部におられたのですが、営業部への転属の内示が出たのです。呼び出されて内示を受けたコトリ先輩は顔を曇らせたそうです。曇らせただけでなく、翌日から微笑みが消えてしまったのです。何が起こったかは言うまでもないですが、人事異動はなかった話になり、人事部長だけではなく、異動工作に関与したとされた営業一課長、営業部長、さらには営業本部長までどこかに左遷されました。
これ以来、社内ではコトリ先輩の微笑みを絶やす行為は絶対のタブーであることが常識になったようです。これはどんな重役でも冒せば重大な処罰が下る事になります。一緒に働く私たち同僚にとってコトリ先輩の微笑みはみんなを幸せにしてくれますが、上司たちにとってはうっかりコトリ先輩の機嫌を損なうことに戦々恐々としているぐらいと言えばわかってもらえるでしょうか。
でも、コトリ先輩自身はどう見ても、どう聞いても、自分の微笑みがそういう扱いを受けてることをまったく意識されていないようです。
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「コトリが悲しい顔をしたぐらいで会社が潰れるわけないでしょ」
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「シノブちゃん、どうかしたの」
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「それは大変ねぇ。怒られる時にはコトリも一緒に行ってあげるから」
総務部長は鬼瓦の異名を取る、見るからに怖そうで、実際も怖い部長です。私の報告書を読む部長の表情が見る見る険しくなっていくのが手に取るようにわかります。顔を真っ赤にして報告書から目を上げた部長が怒鳴りそうになった瞬間に、
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「失礼します。小島です」
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「誰にでもミスはある。今回のミスは小さくないが、これをもっと大きなミスを防ぐための糧にしてくれたまえ。小島君、後の指導は宜しく任せたぞ」
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「シノブちゃん良かったね。今から業務の見直しを一緒にやろう」