第3部後日談編:菩薩様

 木村先生は変わられました。テキパキした仕事ぶりは同じなのですが、氷の女帝の冷たさはすっかり影をひそめ、温かい空気が周囲を満たします。その雰囲気は春風の様だと言う人もいれば、極楽浄土じゃないかと言う人もいます。

 今じゃ観音様とか菩薩様と呼ばれています。かつてを知らない人間に氷の女帝時代があったと話しても誰も信じようとはしません。この菩薩様ですが、山本先生が退院された日からそうなっています。それも日に日にどんどん菩薩様になっていくのです。

 それはまるで長かった冬が過ぎ、つぼみが膨らみ、満開をひたすら目指す桜のようです。もともと綺麗な人でしたが、氷の女帝時代は冷たい美貌で近寄るのも怖かった。でも、今はこぼれるほどの笑顔で眩しすぎるぐらいです。あんなに綺麗でチャーミングな人だったのかと目を疑うほどです。

 それが日に日に進むのですからかえって怖いぐらいです。今では後光が射していると、みんなは口をそろえて言います。これは大袈裟ではなく私も見ました。夜の廊下で照明が切れているところがあったのですが、木村先生の姿はその中でくっきりと光ってました。何度も見直しましたから間違いないと思います。

 氷の女帝時代は畏怖されていましたが、菩薩様に変わられてからは誰もが心酔を越えて陶酔しています。だって木村先生の前に立って、まともに口が利ける人はいないからです。心の底の底まで見通され、穢れた心が洗い流されてしまうっていえばわかってもらえるでしょうか。もう生身の観世音菩薩様そのものだと言う人がいるのも納得です。私も声をかけてもらうだけで夢の世界にいるような感覚に陥ってしまいます。

 氷の女帝時代に院内を歩かれると、それだけで職員がピリピリしたものですが、今やすっ飛んでいって、お姿を拝見したくて仕方がなくなるのを押さえるのが大変です。その日に木村先生に付いた看護師は、そうですねぇ、三日間ぐらいは木村先生みたいに安らかな感情で満たされてしまいます。

 治療の方もまさに神憑りです。氷の女帝時代も完璧すぎる指示を出されていましたが、今はそんなレベルではありません。氷の女帝時代より指示は格段に少ないのですが、その指示分しか必要ないのです。最初の頃は抜けてそうな指示を確認していましたが、今や誰も聞かなくなりました。指示がないという事は起こらないって事と同じ意味なんです。

 ただ一つ心配なのは、日に日に痩せられている感じがすることです。院内の誰もが心配しているのですが木村先生はただ、

    「恋する女はやせるのよ」
 こう笑って答えるだけです。氷の女帝から菩薩様に変わられた理由が恋であるのは納得しましたが、やせ方がちょっと異常な感じがします。検査を勧めようとした先生もいましたが、木村先生の前に立つと何も言えなくなってしまいます。

 事件は突然に起こりました。木村先生が倒れられたのです。それこそ病院中が蜂の巣を突いたような大騒ぎになったのを覚えています。誰もが心配し、誰もが一刻も早く良くなるように祈りました。しかし木村先生が二度と起き上がる事はついになかったのです。木村先生の意識ははっきりされていました。自分の病のことも自覚されていたようで、ただ笑って

    「これでいいの、こうなるために私は生まれて来たの。だからなにも心配しなくてイイよ」
 木村先生が要望されたのは二つで、病室の指定と山本先生への対応だけでした。病室の方は簡単でしたが、山本先生への対応は大変でした。だって『取り次ぐな』、『病院に来ても追い返せ』、『病状は一切知らせるな』でしたから。

 木村先生の恋の相手が山本先生であることは指定された病室だけでわかります。誰もが何故と思いましたが、木村先生の要望をあえて破る事は誰も出来るものではありませんでした。