第3部後日談編:氷の女帝

 木村先生は自分の事をクール&ビューティと仰られてますが、私たちの中では氷の女帝と呼んでいます。あれは木村先生が赴任された頃のお話になります。当時の部長先生は腕もイマイチいやイマサンぐらいの上に、男尊女卑のセクハラ野郎でした。私たちも嫌がっていました。そのセクハラ部長の常套手段が診療中にイジメ倒して、弱ったところを押し倒すです。何人もの女医さんが被害に遭った話を聞いています。もちろん看護師もです。

 セクハラ部長は木村先生にも目を付けたようです。いつか起るんじゃないかと心配していたら案の定、ある日の回診中にネチネチとセクハラ部長のイジメが始まりました。私たちは『ああ、またか』と思ったものです。ところが木村先生は違いました。セクハラ部長の指摘を悉くペチャンコしちゃったのです。それも徹底的に容赦なく顔色一つ変えずにです。完全に言い負かされたセクハラ部長は顔を真っ赤にしながら

    「木村先生の言う通りで良い」
 これだけでも私たちは『やった』と声に出さない歓呼の声を挙げたのですが、実はこれは序奏に過ぎなかったことを思い知らされるのでした。回診がセクハラ部長の患者の番になったときに、木村先生は患者の前でセクハラ部長の治療方針を根こそぎ否定しちゃったんです。そりゃ物凄かった。居づらくなったセクハラ部長は
    「この先の話はカンファレンスで・・・」
 こうやって何度も逃げようとしたのですが、逃げようとするセクハラ部長の前に立ち塞がり、
    「これはカンファレンス・レベルのお話ではありませんし、研修医レベルでさえありません。当然ですが患者にも聞いてもらう必要があります」
 こう言い切って聞く耳を持たず、傷口に塩なんて生易しいものじゃなく、まるで剣山でハバネロを傷口にすり込むように延々とセクハラ部長を粉砕しちゃったのです。ああいうのを氷のように冷やかにっていうのでしょうか。最後の方はセクハラ部長に同情したくなるほど辛辣なものでした。とにかくあの目は怖かった、あの目でにらまれたら誰もどうしようもないと思いました。プライドをずたずたにされたセクハラ部長は一週間もしなういうちに病院に来なくなり、やがてどこかに異動しちゃいました。ノイローゼになったって噂もあります。

 それ以来、木村先生は氷の女帝と呼ばれ畏怖される存在になっています。正直なところ、おられるだけで怖い部分は確かにありますが、だからと言って、誰にでも無暗に厳しい訳ではありません。もちろん能力もないのに威張りたがるタイプとか、女医だから女性だからといって舐めてかかるような人間への対応は震え上がるようなものがありますが、一方でそうでない人への対応は少し違います。

 あれは私が木村先生の患者を受け持っていた時のことです。患者の容体の判断で私は大きなミスを犯しました。そのために患者の容体が急変し、かけつけた木村先生が大車輪で処置してくれなければ大変な事になっていたと思います。そりゃ、氷の女帝の患者に判断ミスを犯して悪化させたのですから、私も剣山にハバネロを覚悟して木村先生に謝りに行ったのですが、

    「あれは、私の判断が甘かった。あなたのせいではない」
 けっこうウルサ型の家族の患者でしたが、私のことをおくびにも出さずに事態を収拾してしまったのです。一生懸命頑張っている人には、意外といっては失礼ですが優しい一面もあります。ですから氷の女帝として畏怖はされていますが、本当は心の優しい人じゃないかって、私たちは思っています。

 木村先生がいかに優秀なのかの例はいくらでも挙げられるのですが、今は部長に昇進されています。あの若さで部長ですからいかに優秀かわかってもらえるかと思います。まあこの辺はセクハラ部長の後任もイマイチがなぜか続き、悉く血祭りに挙げられてしまったのもあります。素直に女帝の能力を認めれば良いものを、なぜか凌ごうとされて争われ、最後は剣山にハバネロで轟沈されています。そのために誰も怖がって女帝の上に立つ医師がいなくなってしまったからだとも言われています。

 ですから若いから、女だから女医だからと馬鹿にする者は誰一人いません。院長先生も一目置いているどころじゃないのがわかります。そりゃ下手にチョッカイ出したら剣山にハバネロが待っているからです。院内では院長より余程怖れられています。


 そんな木村先生の様子があの患者が来てから妙というか変なのです。たまたま私の同期が一緒だったので聞けたのですが、救急車からの一報で患者の名前を聞いた時からおかしかったそうです。どんな重症患者が来ても顔色一つ変えることがない氷の女帝が、どうみても動揺しているようにしか見えなかったそうです。氷の女帝が動揺するぐらいですから余程の重症患者が来ると覚悟していたそうですが、救急車からストレッチャーで運び出された患者の顔を見て、木村先生の顔色が明らかに変わったそうです。たしかに重傷だったのですが、そこからが凄かったそうです。いつもの倍以上の速度で次々に指示が飛び、鬼の形相で治療に当たったそうです。

 私が見たのはICUに移ってからですが、あれも一生忘れられない光景になりそうです。木村先生は外来も、他の受持ち患者もすべて他の先生に任せて、あの患者だけの治療に専念されました。そんな事は普通はできないのですが、そこは氷の女帝の意向ですから誰も逆らえませんでした。というか、逆らえないオーラというか、あの形相を見てなにか言える人がいたとは思えません。

 ああいうのを鬼気迫るっていうのでしょうか。氷の女帝でなくまさに治療の鬼と化してました。それも泊まり込みってレベルじゃありません。文字通りベッドサイドに付きっきりで看護師にさえ手を触れさせない感じです。処置の無い時には、ずっと患者の手を握って何かを呟いていたようでした。それを患者が意識を取り戻すまで一週間、本当に不眠不休でやっておられました。私たちは患者も心配でしたが、睡眠も取らず食事もロクロク取られない木村先生を真剣に心配してました。

 木村先生が何を呟かれていたかですが、断片的に耳にしたのは、

    「コンチクショウ、せっかく会えたのに・・・」
    「この私がなにがあっても死なせるもんか・・・」
    「私の命と引き換えにしてもいいから、お願い・・・」
 本当にそう言っておられたのか、声が小さすぎてよく聞き取れなかったのですが、たぶんそんな感じだったと思います。ただ容体は予断が許さない状態が続き、木村先生の力でも危なくなっていました。その時に先生が絶叫されたのです。
    「カズ坊、ウチの目の前でくたばったらタダじゃおかへんからな」
 あの叫びの効果は信じられなかった。だってそのたびに落ちていた心拍数が奇跡のように回復し、ようやく峠を越えたのでした。


 ここまででも相当驚かされましたが、ここからはさらに信じられない事が起こります。木村先生はあの患者の主治医ですから話もされます。ところが、これがなんと掛け合い漫才なのです。最初に聞いた看護師は、目の前で一体何が起こっているのかわからなくなったそうです。私も実際に聞くまでは信じられませんでした。あの氷の女帝が掛け合い漫才をやるなんて誰が想像できるでしょうか。それも超ハイ・テンションのしゃべくり漫才です。最初は気が狂ったんじゃないかとまでささやかれたものです。ただ漫才をやるのはあの患者の前だけで、それ以外は氷の女帝のままです。

 あの患者も患者で、全部アドリブのはずなのにキッチリ切り返されます。まるで長年連れ添った夫婦漫才みたいにホントに息が合っていて感心させられます。今じゃ病院の名物で私たちも楽しみにしています。私はてっきり木村先生の恋人だと思っていました。漫才で会話する恋人ってのも変ですが、氷の女帝があれだけ変わられるのですから他は考えられなかったからです。

    「先生の恋人ですか?」
 こう聞いてみたのですが、
    「アイツが? 冗談は顔だけにしてくれる。あんなダッサイ、ブッサイクな男を誰が恋人なんかに選ぶかいな。そんな奴がいたら拝んでみたいもんや。単なる高校の同級生だよ」
 でもそういう話し方も声も顔もどう見たって氷の女帝ではありません。二人の関係はちょっとした謎ですが、やはり木村先生の大事な人だと思っています。