古代製鉄のムック5・続日本の場合

専門家の方には基礎レベルなのですが、素人のムックなので目をつぶって下さい。


間接製鋼法のおさらい

製鉄の基本原理は酸化鉄を熱で酸化還元させ、酸化鉄中の酸素を取り去る事です。この時に炉内が高温であるほど鉄は炭素を取り込みやすくなり、出来上がる鉄は銑鉄になります。鉄は炭素含有量が多いほど融点が下がり、銑鉄なら1200℃ぐらいになります。西洋の高炉も中国の爆風炉も出来た鉄は溶けた鉄として炉内の底に溜まり、それを溶けたまま取り出すことが出来ます。この溶けた鉄を取り出せる点が重要で、連続して製鉄が可能になり大量生産が可能になります。

直接製鉄法で連続製鉄が出来ないのは鉄は400〜800℃でも製鉄できますが、炉内の温度が低いと炭素含有量が下がり融点が上がります。そのため固まった鉄が炉の底に形成される事になります。これを取り出すには炉を壊す必要があるからです。えらく単純な説明ですが、原理的にはそんなところです。

間接製鋼法にも欠点はあり、出来た鉄は銑鉄で鋳物には適していますが固い代わりに脆く、刃物や工具として使うには炭素を減らし鋼鉄や錬鉄にする必要があります。言うまでもないですが、銑鉄をまず作って鋼鉄や錬鉄にしたので間接製鋼法と言い、製鉄段階で錬鉄や鋼鉄を作るので直接製鋼法と言います。

銑鉄は鋳物に使われますが、西洋の鉄需要は鋼鉄や錬鉄(つうか銑鉄自体が無かった)です。にもかかわらず間接製鋼法による銑鉄製造が製鉄のメインになったのは量産のメリットが余りに大きかったと素直に受け取って良いと思います。ほいでもって日本の製鉄は独自に発達したものではなく、大陸技術の導入です。当然のように銑鉄製造技術が伝わっているのですが、なぜか連続製鉄に進んだ形跡がありません。この辺の理由を再考したいと思います。


技術基盤の問題

中国の銑鉄技術はある程度完成したものであったと見て良いかと思います。前にも出しましたが、中国における製鉄遺跡研究の現状と課題にある古栄鎮製鉄遺跡の復元図にあるように、

20170510094128

こういうシステムがあったわけです。現代なら技術導入と言えば、こういう装置一式を持ち込んでのものになりますが、大陸(ないし半島)の技術者は徒手空拳で日本に来たと考えるのが妥当です。つまりイチから日本で装置造りから始めなければならなかったってところです。そりゃ木炭さえ現地でイチから製造しなければなかったんじゃないかと思われます。たぶん当時の日本の技術基盤では先進の大陸の装置をそのまま再現するのは非常に難しかったぐらいです。そこで日本の技術水準に合わせたアレンジを行ったとしても不思議ありません。銑鉄が作れるだけの高温の炉はなんとか作ったものの、それを取り出して連続製鉄に持っていくのはあきらめたぐらいの想像です。

それでも時の権力者に十分に喜ばれたんじゃないかと思っています。これまで輸入に頼らざるを得なかった鉄が自給できるからです。現実的に連続製鉄技術を当時の日本で実現するのは難しく、とにもかくにも鉄が出来たので誰しも満足してくれたぐらいでしょうか。この辺は鉄の歴史からするとアンバランスな技術伝承となり、連続製鉄が出来ないのに高温の炉を持てたので鋳物が出来るなんて状態が出現する訳です。まあ大陸の技術者からすれば、銑鉄を作ればこれは鋳物にするのが常識で、その技術はセットで伝えないと意味がないぐらいの情熱を燃やしてくれたんじゃないかと想像しています。


鉄需要の問題

JSJ様から

おそらく爆風炉にはそれなりの設備投資が必要で、それに見合う需要がなかったのだろうと想像します。

ここは考え直すと微妙な点で、鉄は供給さえ豊富なら需要はドンドン湧いてきそうな感じがします。鉄は汎用性の広い金属で、近世の構造材はさておくとして農具・工具・武器・鍋釜と身近な実用品として需要はあったはずです。また書紀を信じるならば、神功皇后三韓征伐を始めとして半島への出兵記録はかなりあります。当然ですが相手は鉄製の武器で武装しているわけで、日本が石製や青銅製で戦ったとも思いにくいところがあります。少し時代は下りますが、白村江の敗戦で失った鉄は近江の古代製鉄より、

663年の白村江の戦で大敗した日本は、(一万人の兵が沈んだと記され、一人5キログラムの鉄を着けていたとすると)50トンの鉄を失ったと思われますので、これを回復するために鉄を大増産する必要があり、技術の改良がおこなわれたと考えられます。

ここには当時の鉄生産が年間30トンぐらいであったとの推測も書かれており、天智天皇は鉄の大増産を命じたとなっています。そりゃそうするでしょうが、近江の古代製鉄には古代では近江に60カ所以上の製鉄遺跡があり、古代最大の製鉄地となっていたとも書かれています。天智天皇が近江に遷都した理由は色々書かれていますが、鉄の産地に近いと言うのもあったかもしれません。

それでも史実として日本で鉄供給が溢れた記録は存じません。天智天皇の命令で鉄生産は増えたかもしれませんが、一挙大増産とか、今日のテーマである連続製鉄法に発展したはなかったとして良さそうです。チト強引な結論かもしれませんが、日本で鉄需要が高くならなかったのは供給サイドに問題があり、慢性的な鉄不足のために鉄をあんまり使わない文明体系が出来たような気がしています。


原料の問題

大陸から製鉄技術が伝わった時には鉄鉱石を原料としていたでどうも良さそうです。これも大陸ではそうでしたから日本でもそうなるのは自然です。ただ日本は鉄鉱石に恵まれた国とはいえません。鉄自体は地球の5%ぐらいあるものなのですが、製鉄するには鉄分を多く含む鉄鉱石が必要です。優良な鉄鉱石は50%以上の鉄分を含むそうですが、日本ではそんな優良なものは少なく、あったとしてもすぐに掘り尽くしてしまう程度のものしかなかったぐらいは推測できます。

そこで鉄鉱石の代わりに砂鉄と使い出すのですが、東アジアにおける日本列島の鉄生産より、

岡山県大蔵池南遺跡や京都府遠所遺跡は、6世紀代に操業された製鉄遺跡である。いずれも砂鉄を始発原料とするが、我 が国最古と認められる総社市千引カナクロ谷遺跡では、鉄鉱石を始発原料とする。鉄鉱石を始発原料として操業しているのは、山陽地域と近畿に多く見られる。中国大陸や朝鮮半島には、現在のところ、この時期の砂鉄製錬が確認されておらず、課題の一つとなっている。

まず大陸や半島は豊富な鉄鉱石があったのでわざわざ砂鉄からの製鉄をしなかったぐらいに考えています。ただ砂鉄からでも製鉄が出来るぐらいの知識はあったぐらいはあっても不思議ないと思います。最後のところは不明ですが鉄鉱石の入手で不利な日本では、比較的採取しやすい砂鉄による製鉄にかなり早い時期にシフトしているのが示唆されます。この砂鉄からの製鉄にはメリット・デメリットがあるのですがwikipediaには、

ただし、不純物のチタンのため高炉による製鉄には不向きである。かつて製鉄所などで、原料の国産化を図るため高炉で製鉄する実験が行われたが、出銑口に詰まりが多発し、近代製鉄原料には不向きなことが知られている。

近代製鉄とは高炉による連続製鉄で、古代中国の爆風炉にもあてはまると思います。どうも砂鉄を原料とすると連続製鉄が技術的に困難になるとしてよさそうです。古代日本で鉄需要が増えた時に、大陸の連続製鉄技術を導入しようと思っても無理だったんじゃないかと考えられます。そのため銑鉄を作る技術があるのに連続製鉄に進めず、鉄の量産化のネックになり続けたと言えそうな気がします。鉄供給にネックがあったので鉄器の普及が供給分だけに限定されたぐらいでしょうか。


たたら製鉄は大陸の銑鉄製造技術をベースにしながら、原料が砂鉄になった事への対応をした結果じゃないかと思い始めています。日本の製鉄が連続製鉄についにならなかった点について様々な説が出ていましたが、どうも原料問題に帰結して良さそうな気がします。砂鉄で連続製鉄を行うのは技術的にハードルが高すぎたぐらいです。東アジアにおける日本列島の鉄生産に大陸や半島で砂鉄を使った形跡がないとしているのは、使ってはみたが使えなかったが真相の気がします。大陸や半島では砂鉄が使えなくとも鉄鉱石があるからです。

もうちょっと言い換えると、大陸の銑鉄技術(西洋も基本的に同じ)は鉄鉱石が原料であるのが前提で、鉄鉱石を銑鉄にして連続製鉄する技術発展を遂げたぐらいの見方です。これが日本の砂鉄になると鉄が出来るところまでは可能でも、連続製鉄を行うのが事実上不可能だったぐらいです。そのために独自の発達をせざるを得なくなったぐらいです。

そこまで考えると、たたら製鉄がズク押し(銑鉄製造)からケラ押し(錬鉄・鋼鉄製造)にシフトした理由もわかる気がします。鉄の生産量が限定されるので、用途が農機具や工具、武器にシフトし、そのためには鋼鉄や錬鉄の方が使いやすいぐらいでしょうか。錬鉄や鋼鉄の利用に偏る点は西洋の鉄利用と基本的に同じですから、中国以外は「普通はそうなる」ぐらいです。西洋の高炉だって鋳物が作りたくて作った訳じゃありません。

長々とムックしてきましたが、個人的にはモヤモヤした疑問がそれなりに整理された気がしています。