私の勉強不足で光秀が朝倉家に仕えていた資料があるのを初めて知りました。wikipediaより、
『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の旅行記)に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた」と記述
原文に近いものが読みたいと探していたら大谷学報 52(1), 54-74, 1972-06に「遊行三十一祖 京畿御修行記」〔天正6〜8年記録〕橘 俊道(校註)があり、そこから文献自体の紹介部分をまず引用してみます。
遊行三十一代同念は二十五代仏天の法資。元亀四年七月十八日、常陸江戸崎顕声寺において遊行相続。廻国十二年、天正十二年日向光照寺において、三十二代普光に遊行を譲り、同寺に閑居四年、天正十五年六月二十八日入寂世寿七十才。墓は同寺にある。
此の書は天正六年七月一日伊豆下田より海上伊勢大湊へ渡り、それより伊勢・尾張・近江・京・大和をめぐり、天正八年大和当麻寺留錫までの一年八ヶ月に亘る遊行の記録である。撰者は不明。原本でなく写本と思われるが、他に異本の存在は知られていない。
なるほど遊行三十一祖とは一遍上人から31代目の時宗の教主の事で良いようです。さらに
本書は、もと愛知県碧南市大浜称名寺に伝来されたが、戦前藤沢高等学校長の長崎慈然氏が、物置のすみに他の雑書と共に塵にまみれたのを見出し、時の住職(現時宗法王)藤井隆然上人から頂いて愛蔵されていたものである。今までに刊行されたことはなく、二、三人の人を除いて人目にも触れていない。
たしかに大谷学報以外にググっても出てきません。それでも大谷学報に出たのが昭和46年となっていますから、今から40年ぐらい前には読むことが可能になっていたぐらいはいえます。もうひとつ「おわりに」の部分を引用しておくと、
織田政権が確立し、他の地方ではなお戦乱が続いている時に、彼の分国においては既に平和の曙光見えそめている。信長の独創的な新しい施策が次々と打ち出され、旧秩序が急速に破壊されつつ、新しい建設が着々成就される。そうした過渡期の世情が極めて率直にえがかれている。見聞した事実の記録も正確である。高僧の伝記にありがちな誇張や創作も少ない。宗門の記録としてもまた一般史との関連においても、高く評価されるべきものと言える。
平たく言えば資料評価として信用性がかなり置けると見て良さそうです。では問題の部分ですが、
正月廿三日御行事成就し七条へ御帰寺。同廿四日坂本惟任日向守へ六寮被遣、南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越。惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景頼被申長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申。
折節大和筒井方安土へ年始之出仕、則惟任取次なれハ来儀幸、六寮直行合遊行上人南都御修行日州助言故順慶無別儀御請被申キ。同晦日六条御影堂へ入御、日中行事以後種々取成申上候ツる。
ここに出てくる六寮がなんじゃらほいになるのですが、近世以降なら桂光院寮になるそうですが、戦国期なら上人の遊行を管轄していた事務部門の事だろうとされています。もう一つなんですが時宗の教主というか法王の出自も興味深くて、
代数 | 名前 | 出自 |
17代 | 暉幽 | 奥州二本松畠山氏 |
18代 | 如象 | 下野聴野氏 |
21代 | 知蓮 | 上野新田氏 |
22代 | 意楽 | 近江上阪氏 |
23代 | 称愚 | 山城富樫氏 |
25代 | 仏天 | 奥州二本松畠山氏 |
26代 | 空達 | 信濃島津氏 |
27代 | 真寂 | 越後石川氏 |
28代 | 遍円 | 奥州二本松畠山氏 |
29代 | 体光 | 奥州二本松鹿子田氏 |
31代 | 同念 | 日向伊東氏 |
32代 | 普光 | 常陸佐竹氏 |
33代 | 満悟 | 越後直江氏 |
光秀と義昭の動きはシンクロする部分があるはずなので、まず義昭関係の再整理です。永禄の変は永禄8年5月19日ですが、ここから次期将軍後継レースが始まります。義輝を殺害した三好・松永は義栄を擁立し、義輝側近の残党は義昭擁立に奔走したぐらいの理解で良いかと思います。義昭の経緯を追いますが簡便にwikipediaより、
一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。
義昭は興福寺に軟禁されていましたが、ここからの脱出は伊賀に根拠地を持つ仁木義政と甲賀に本拠地を持つ和田惟政の協力の下に行われたと見られています。ちょっと寄り道なんですが和田氏は惟政の父の時代に幕臣化し奉公衆になったと推測されており、惟政が永禄の変の難を逃れたのはその頃に義輝の勘気を蒙り甲賀で謹慎していたからと和田家ではなっているようです。ただなんですが永禄六年諸役人附の前半部、つまり義輝時代の名簿に和田の名はありません。この辺はどうなっているのだろうってところです。
それと前から疑問だったのですが、義昭は当初近江に根拠地を構えていましたが、どんな成算で動いていたかです。ここについてもwikipediaより、
義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。
壮大なのですがかなり無理がありそうな企画です。無理がありそうな企画なのですが、義栄を擁する三好・松永の勢力に対抗するにはこれぐらいの軍事力が必要と判断されたと考えられます。とはいえ武田・上杉・北条が上洛戦に直接参加するのは無理でしょうから、直接には六角・浅井・斎藤・織田の4家の連合軍での上洛戦構想であった気もします。ふと気が付いたのですが朝倉は入っていないんですねぇ。この企画の主体ですがやはり六角承貞で良さそうです。そりゃ和田氏はもともと六角氏の被官ですし、和田氏の存在も六角氏の保護がないと難しいところがあります。
無理のありそうな企画ですが「どうも」かなりの段階まで進んだようです。六角氏の仲介で浅井と織田の婚姻関係が結ばれ、難色を示していたとされる斎藤氏も折れたとなっています。斎藤氏も折れれば信長も参加を承諾したってところでしょうか。この辺りの動きを裏付ける資料としてwikipediaより、
実際に義昭が惟政に対して自分の使者として信長と会うように命じた永禄9年(推定)6月11日付の自筆書状が残されている。
6月11日は永禄9年になるはずですが、この時に信長も最終的に承諾したんじゃないかと推測されます。惟政らの企画はこれまた「どうも」なんですが、
- 六角氏はそのまま参加
- 浅井氏は南下して参加
- 斎藤氏は西に向かって参加
wikipediaを読む限り、そんなストーリーみたいに思えますが、一つ違和感を感じるのが信長の参加を強く期待している企画であることです。この点を中心に見直すと、義昭の上洛企画に本気で軍勢を出す姿勢があったのは六角氏以外には信長だけだったんじゃなかろうかの疑念です。浅井も斎藤も反対はしないが軍勢を出すのには消極的だったぐらいの見方です。六角氏単独では三好・松永に対抗するには無理があり、ここは何としても信長が有力な軍勢を率いて参加してもらう必要があったぐらいです。最終的に六角・織田連合で三好・松永連合に対抗するぐらいの企画です。
信長がこの企画にある程度まで乗ったのは、やはり戦国期のこの段階でも新将軍擁立の立役者になる政治的メリットに大きな魅力を感じたぐらいはあると思います。端的には老舗武家に対する新興織田家の格上げと、将軍の権威を背景にできるぐらいです。ただ信長の本気がどこまでであったのかは不明で、上洛企画に乗る事によって北近江の浅井氏との友好関係の確立(対斎藤氏戦へのメリット)、企画が挫折しても積極的な協力姿勢を見せた事による政治的メリットを計算したぐらいを想像します。
砂上の楼閣のような上洛計画が瓦解した後は三好・松永の反撃が行われます。義昭を擁していた六角氏でしたが、信長が来ないとなると六角氏単独で三好・松永勢力と対峙しなければなりません。これは無理があり、六角氏は三好・松永に寝返ります。wikipediaより、
六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った[4]。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。
三好・松永からの工作は斎藤・六角だけではなく浅井や織田にも及んでいたとみたいところです。この上洛企画の要は六角・織田連合軍の形成であり、それを防ぐには4氏の一つでも崩せばOKになるからです。
ここまでが永禄8年7月から永禄9年8月までの義昭の動きですが、この時点で光秀が義昭に仕えていた可能性があるかどうかです。近江での義昭の上洛企画には「どうも」朝倉氏は積極的な計算要素でなかった気配があります。これは朝倉氏を信頼していなかったというより、チト遠いぐらいのところでしょうか。まあ、味方は多い方が良いので声はかけたと思いますが、朝倉氏側は加賀の一向一揆との抗争を理由に積極的な参加姿勢を表明しなかったぐらいの見方です。
これは後で計算しますが、光秀が永禄の変時点では朝倉家に仕えていたかどうかは微妙で、まだ牢人だった可能性も十分にあります。仮にまだ牢人であれば、近江の矢島にノコノコ出かけてい行ったところで、義昭の家臣の足軽ぐらいが関の山ですから、義昭の近江時代には光秀はまだ仕えていなかった可能性が高いと考えます。
義昭は若狭武田氏にまず逃げていますが、早々に見切りをつけて朝倉氏に頼り金ヶ崎城に移ります。これが永禄9年9月となっており、金ヶ崎から信長の下に転がり込む永禄11年7月までの約2年間滞在することになります。この2年間のうちに光秀が義昭に足軽衆として召し抱えられたと見るのが自然でしょう。ここでやはり気になるのは光秀が長崎称念寺の門前に10年間住んでいた証言の存在です。位置関係を確認すると、
長崎称念寺は現在の坂井市、もうちょっとわかりやすくい言えば丸岡町にあります。つまりは一乗谷ではなく、地図上での計測ですが一乗谷まで17kmぐらいはあります。朝倉家でも知行地を持つような家臣であれば一乗谷ではなく知行地に普段は居住し、必要に応じて一乗谷に伺候するスタイルであっても不思議ありませんが、光秀がそこまでの厚遇を朝倉家から受けていたとは思いにくいところがあります。称念寺の寺伝では、
光秀は、弘治2(1556)年に齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に来ます。これは光秀が幼い時に、母のお牧の方の縁である西福庵に縁があったことによります。西福庵は、称念寺の末寺でした。永禄5(1562)年貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していました。
後に遊行上人が筒井順慶の領地を遊行する時に、称念寺の住職から明智光秀に配慮を頼んでいたことが、当時の遊行上人の日記に記載されています。よほど光秀は、苦難の時代の称念寺の住職の援助が忘れられなかったのでしょう
ここについては『遊行三十一祖 京畿御修行記』に関連しそうな部分で、光秀は同念上人が奈良に向かう時に
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南都御修行有度之条筒井順慶へ日向守一書可有之旨被申越
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長崎称念寺門前に十ヶ年居住故念珠にて、六寮旧情に付て坂本暫留被申
- 一乗谷に屋敷をもらって住む
- 知行地に住む
- 称念寺門前での牢人時代が10年間
- 朝倉家仕官後
光秀が牢人になるキッカケを通説の道三崩れと見たらどうなるかです。
年号 | 西暦 | 事柄 | 道三崩れからの 経過年数 |
弘治2年 | 1556 | 道三崩れ | 0 |
永禄8年 | 1565 | 永禄の変 | 9 |
永禄9年 | 1566 | 義昭、金ヶ崎に移る | 10 |
永禄11年 | 1568 | 義昭、岐阜に移り上洛 | 12 |
太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。
さらにwikipediaより、
「一僕の身」は中世から江戸にかけての慣用句で小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である。
一説では足軽大将ぐらいであったとされますが、とてもそんな感じではない記録が残されています。太田牛一の記録が信用できそうな傍証としてwikipediaで申し訳ありませんが、
室町幕府では、土岐氏は三管領四識家に次ぎ諸家筆頭の高い家格で、十余支族も幕府奉公衆となり土岐明智氏などは将軍家と結んで独自の地位を築いた。その奉公衆や外様衆などの高位に就いてきた「土岐明智氏」の家系に連なる者を、形式的な伝統を重んじ家格に配慮する義昭が、足軽衆に格下げして臣従させたことになり「土岐明智氏」なのか疑問がもたれている。
将軍家における足軽衆の説明は前もしましたが、義昭時代でも下級武士の筆頭格ぐらいに過ぎません。光秀が本当に土岐明智氏であったかどうかは議論の尽きないところではありますが、金ヶ崎時代の義昭以下の上級武士たちには土岐の明智の嫡流であるとの名乗りは信用してもらえてなかったぐらいは考えられます。
最後に残る謎は10年間の辛苦の末につかんだ朝倉家への仕官をなぜに短期間で手放し、流浪の義昭の、それも足軽衆という軽い身分での仕官を行ったかです。通説では朝倉家での冷遇と門閥が支配する将来の無さに絶望したからとなっていますが、将軍家となればなおさら家格がものを言う世界になります。この辺に付いてはもう一つだけwikipediaを、
後の藤孝との交流を考えると、光秀は朝倉家から義昭に乗り換えたのではなく、朝倉家から藤孝に乗り換えたんじゃないかと考える方が自然な気がします。藤孝もこの頃は困窮していたとは思いますが、義昭の上から数えた方が早い重臣であり、義昭が将軍になれば藤孝が大きくなるのは容易に予見できます。つまりは藤孝は将来に見込みの持てる主人といえます。藤孝も優れた人物ですから、光秀がタダの人物でないぐらいは容易に見抜けたでしょうから、懇請されれば足軽・中間に加えてもおかしくとは言いにくいところです。
雇ってみて藤孝は光秀の才能を知れば知るほど感心したと思います。才能だけでいえば藤孝を凌駕するものが光秀にあるのは事実です。そこで藤孝は光秀を自分の家臣として留めておくのではなく、もっとその才能の発揮できる場所に連れ出そうとしたぐらいを想像します。これが軽格とはいえ将軍家直臣になる足軽衆への推挙であり、後の信長への仕官にも藤孝の力が働いていた可能性はあります。そりゃ藤孝は信長担当をしていた訳ですから、藤孝の推挙があれば信長も会うでしょうし、信長の人物鑑定眼も容易ならないものがありますから「これは買い!」と決断しても不思議ありません。
いずれにしても『遊行三十一祖 京畿御修行記』の光秀の記録を覆すだけの論拠がないと、小林正信氏の進士藤延の入れ替わり説は私には受け入れがたいってところです。