慌てて書いたら良くなかったみたいで、原本に近いものがあるので見直してみます。
これがいつ書かれたかについては永禄10年2月から永禄11年5月の間とする説があるようで、義昭が金ヶ崎から信長の下に上洛のために転がり込んだのが永禄11年7月ですから、金ヶ崎時代に書かれたものとして良さそうです。でもって永禄6年と銘は打たれていますが、
光源院殿とは義輝の戒名ですから、義輝の死後に書かれたものであるのは確実です。全体の構成は
- 前半部は義輝時代
- 後半部は義昭の金ヶ崎時代
義輝時代 | 義昭時代 |
御伴衆 | 御伴衆 |
御部屋衆 | 御部屋衆 |
申次 | 申次 |
外様結衆以下 | 詰衆番衆(一番〜五番) |
御小袖御番衆 | |
奉行衆 | 奉行衆 |
同朋衆 | 足軽衆 |
御末之男 | 奈良御伴衆 |
足軽衆 | 御小者 |
* | 諸大名御相伴衆以下 |
* | 同朋衆 |
* | 御末男 |
* | 外様衆、大名在国衆 |
* | 関東衆 |
室町体制の職制の知識は怪しい部分が多いので粗いですが、筆頭は管領で細川・斯波・畠山の三家が受け持っていました。しかし管領の権威も三管の家も衰弱し永禄6年の細川氏綱の死で廃絶したとなっています。ですから抜けているぐらいでまず良さそうです。次は御相伴衆なのですがwikipediaより、
戦国時代に入ると、朝倉孝景や北条氏康、尼子晴久、斎藤義龍、毛利元就、毛利隆元、今川氏真、大友義鎮、伊東義祐、河野通直 (弾正少弼)など在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が任じられる例も増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる
御相伴衆の次には国持衆、準国主衆、外様衆が来るのですが、御相伴衆と同様に在京している者がいなくなってる訳で、格式と身分だけが残っていたぐらいでしょうか。どうも実態がないので義昭時代でも末尾に並んでいる気がします。そうなると実質的に一番格式の高いのは本来6番目の御伴衆になります。以下は
-
御伴衆 → 御部屋衆 → 申次衆 →(節朔衆)→(走衆)
将軍に近侍して警衛にあたった上級武士は番衆と呼ばれ,雑役にあたる下級の侍は恪勤と呼ばれて区別されていた。室町中期以降になると恪勤侍は職掌によってさらに御末衆(御末(おすえ))と足軽衆の二つに分けられていたようである。このうちの御末衆は,主として殿中の宿直や配膳を務め,将軍に御膳を進める際には,御末衆が器を捧げて同朋へ渡し,同朋がこれを近侍の御供衆へ渡し,御供衆が将軍の御前に進めた。
えっとえっと、とりあえず将軍側近のうちで
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上級武士は番衆
下級武士は恪勤
-
御末衆・・・配膳関係かな?
足軽衆・・・なにしてたんだろう?
-
将軍に御膳を進める際には,御末衆が器を捧げて同朋へ渡し,同朋がこれを近侍の御供衆へ渡し,御供衆が将軍の御前に進めた。
当参衆並足軽以下衆覚
この意味は当参衆が上級武士を指し、足軽「以下」衆が下級武士である事を示し、下級武士の中でも筆頭が足軽衆であったと解釈できない事もありません。
二人がどこにいるかですが、
『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の旅行記)に知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人だったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた」と記述
これが光秀の朝倉家仕官説の根拠だったのか。。。そうなると一番ありえそうなのは、金ヶ崎滞在中に藤孝が光秀を見出したとするのが自然そうです。藤孝が織田家工作の担当だったのも確からしいですから、美濃の土岐家の一族と言うのも魅力的だったのかもしれません。つか光秀が帰蝶との関係を売り込んだ可能性もないとは言えません。どっちにしても流浪の義昭に仕官するぐらいですから朝倉家時代の光秀は、余程不遇だったと歴史小説家が見るのは当然そうってところです。
朝倉家での光秀の不遇の傍証ですが、戦国期では能力のない主人を見限って致仕し他家に仕官するのはさほど珍しいものではなかったとされます。この転職の時に禄高とか与えられる地位は重要だったそうで、前より低いのはプライドとして許せなかったとも聞いた事があります。光秀の場合は転職先が将軍家ですから必ずしも同列にしにくいのですが、それでも採用された時は下級武士である足軽衆ですから、朝倉時代の待遇も下級武士であったのかもしれません。
う〜ん、ヒョットして金ヶ崎に来て足軽衆が足りなくなったので現地採用を行った時に光秀が応募したのも・・・可能性ぐらいはあるかもしれません。世襲が濃厚な将軍家であっても下級武士なら門戸は広かった、とくに金ヶ崎流浪中ですからあっても不思議とは言えないぐらいにしておきます。