今日も芋づる式ムックなのですが、文化14年(1817年)滑原町屋台争論状の内容は、
9月18日、稲荷大明神祭礼付滑原町より荷い太鼓奉納仕、平山町争論仕、御祭預、東条町若中だんだん取成仕、申分相済み以、申分来無御座候。三ヶ町連印以、済状奉御断申上候。
ここに出てくる「荷い太鼓」が屋台であると解釈され、三木で文献上の初見とされます。三木には絵馬などの画像資料が一切残されておらず、この時の荷い太鼓がどんなものであったのか遺憾ながら不明です。まず参考にしたいのは三木で素性の判る最古の現存屋台とされる久留美屋台です。この屋台は八雲神社に屋台奉納されますが経歴として、
万延元年(1860)頃に村家の納屋で制作。
何度かの改修は行われているはずですが、
サイズも全体の造りも、現在の屋台として違和感のあるものではありません。つまり1860年(万延元年)には平屋根三段の現代風屋台は三木にあった事になります。でもって久留美屋台は滑原町屋台争論状の43年後に作られた事になります。ほいじゃ、久留美が三木で最初に出現した現代風の屋台かといえば違うと思います。「村家の納屋で制作」とはどういう意味があるかですが、とりあえず費用の節約の意味はあったと思います。私が知っている例なら城山町も手作りであったはずです。
久留美屋台の製作のポイントは地元の手作りならお手本があったと考えるのが自然です。それも近隣にです。そりゃ遠くの町の祭礼の屋台を参考にした可能性もゼロではありませんが、やはり近隣の神社の屋台を参考にして作られたと考える方が妥当です。でもって八雲神社と岩壷神社は近隣です。大宮八幡宮も近隣ですが、岩壺神社には滑原町屋台争論状に滑原町の荷い太鼓の存在記録があるので、久留美屋台は滑原町屋台も参考にして作られたとしても不思議ではありません。ちなみに久留美屋台が作られた時期に三木に存在して可能性がある屋台は、
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滑原、平山、東条町、明石町、高木
久留美屋台の虹梁 | 明石町屋台の井筒 |
岩壷神社と大宮八幡宮の屋台を調べてみると、
町名 | 形式 | 購入時期 | 屋根 | 備考 |
岩宮 | 井筒 | 1892年(明治25年)新調 | 平屋根 | * |
大塚 | 虹梁 | 2004年(平成16年)新調 | 平屋根 | 先代も虹梁 |
芝町 | 虹梁 | 1994年(平成6年)購入 | 平屋根 | 大元は志染の屋台 |
大手 | 井筒 | 1964年(昭和39年)購入 | 反り屋根 | 多可郡中町 |
東条町 | 井筒 | 1928年(昭和3年)購入 | 反り屋根 | 吉川町細田神社 |
滑原 | 虹梁 | 1998年(平成10年)購入 | 平屋根 | 先々代は井筒 |
明石町 | 井筒 | 江戸期より存在 | 平屋根 | * |
新町 | 井筒 | 2009年(平成21年)新調 | 反り屋根 | 先々代は平屋根で井筒 |
末広 | 井筒 | 2002年(平成14年)新調 | 平屋根 | 先代は妻鹿より購入 |
下町 | 井筒 | 1996年(平成8年)新調 | 反り屋根 | 先代は北条町より購入 |
栄町 | 井筒 | 1961年(昭和36年)購入 | 平屋根 | 多可郡中町より購入 |
高木 | 井筒 | 1929年(昭和4年)新調 | 平屋根 | * |
平田 | 井筒 | 1966年(昭和41年)購入 | 平屋根 | 元は反り屋根、先代は平屋根井筒 |
大村 | 虹梁 | 明治初期製作 | 平屋根 | 1935年(昭和10年)より大宮参加 |
そうなると残るのは岩宮、明石町、高木の3台と、かつて存在した先々代新町、先々代滑原、先代平田のあわせて6台が平屋根型の井筒になります。製作順は明石町が頭根けて古く、続いて岩宮(明治25年)、先々代新町・先々代滑原・先代平田(明治45年)、高木(昭和4年)になります。これは平屋根型に井筒という明石町のスタイルを踏襲した結果と見て良い気がします。そうでなく、ごく普通に平屋根型を新調のために発注すれば虹梁になるはずだからです。三木に平屋根型の井筒というスタイルが広がったのは素直に明石町モデルがあったからと見たいところです。
もう少し踏み込めば、明石町屋台の登場というか存在は、当時の三木の人間にとっては大きく、通常は平屋根には虹梁であっても、三木の屋台なら井筒であるべきだの共通認識となっていたぐらいしか言いようがありません。だからわざわざ平屋根型なのに井筒で作ってくれと注文した結果の様に思えます。
そうなると注目されるのは久留美の屋台です。久留美は虹梁ですから明石町スタイルを踏襲していません。だから一つの考え方としてまだ明石町屋台が登場していなかった可能性があります。存在しないものをモデルにしようがないからです。ただこの仮説には弱点があって、今でこそ久留美は三木の一部ですが、かつては久留美村は三木ではありません。つまり明石町モデルは他所の町の流行モデルとして採用しなかった可能性で地域性ってやつです。
それでも久留美の人間も三木の屋台は意識していた思います。今では想像すのも大変なんですが、江戸期の三木町は900戸・4000人程度の人口がありました。現在の規模からすると4000人なんて鄙びた田舎町の規模ですが、江戸期に4000人の人口を抱える町は立派な主要都市です。三木町に隣接する久留美村にとっては三木は都会って位置づけになると推測されます。そこの屋台のトレンドなら逆に取り入れようとしても不思議ないってところです。私の結論としては
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明石町屋台は久留美屋台が製作された後に登場した!
明石町屋台には謎が多く、江戸期から存在したであろうぐらいしか伝承は残されていないようです。さらにこれが新調なのか中古購入なのかも不明です。私は平屋根に井筒の組み合わせの一点から中古購入改造説を取ります。と言うのも普通に平屋根屋台を新調発注していたら虹梁になるだろうからです。発注した明石町の人間に「どうしても井筒」みたいな意見があればですが、言ったら悪いですが屋台が井筒であるか虹梁であるかなんて、よほどの屋台好きでないと知らない訳で、こだわるのなら水引や高欄掛けの意匠とかでしょう。
ここは井筒の特異性に明石町がこだわったのではなく、まったく逆で他の既存屋台との調和を重視した気がします。明石町屋台が登場した頃に存在していた屋台はおそらくすべて平屋根で、そこに反り屋根の中古屋台を参入させるのを遠慮したぐらいです。今でも反り屋根から平屋根の改造屋台はあり、平田が代表的ですが下町も平屋根時代があります。反り屋根から平屋根へ改造されても井筒は変わりません。どうしてもわからないのは、平屋根に井筒の組み合わせが何故に明治期の三木の人間に重視されたかです。これは当時の人間にでも聞いてみないと無理じゃないかと思っています。
布団屋台の発祥は泉州で、これが淡路に伝わりさらに瀬戸内沿岸に広がったとされます。この意見に私も同意なのですが、播州屋台にはもう一つ系統があった気がします。中区における屋台文化に天保13年(1842年)の祭りの絵馬の画像があるのでまず引用します。
泥台に太鼓を置き、高欄を組み、高欄掛けを装飾し、さらに担ぎ柱をつけて担いでいます。さらに四本柱の上に屋根を設けています。現在の屋台の原型にも見えますが、屋根の布団は1枚しか見えません。そりゃ昔は布団が1枚であった時期があっても良いだろうと言われそうですが、摂津名所図会を見て頂きます。
摂津名所図会は1796〜1798年に発行されていますから、製作されたのは1795年以前になります。つまりは絵馬の50年ぐらい前ですが既に布団は5枚です。もう一つ長崎のコッコデショ(境壇尻)ですが、
コッコデショは7年に1度しか行われず、またその激しいアクションから1799年に登場してからの原型を良く保っていると考えています。布団屋台の布団の意味は祭のときに御旅所で一泊する神様の寝具とか座布団の意味であったとされます。ですから段数はかなり早い時期に増えたと考えられます。故郷は三段ですが、五段や七段のところもあります。それが絵馬では1段なのは布団ではなくただの屋根であった可能性があるんじゃないだろうかです。この絵馬の屋台に似たのが西脇の春日神社に今もあります。
こちらは絵馬の屋根さえありませんが、現在の屋台の屋根とか飾りをすべて省くとこんな感じになります。滑原町の屋台の記録は1817年であり「荷い太鼓」とはこのスタイルであった可能性は多分にあると思います。この「荷い太鼓」スタイルは、ここに屋根を付ければ泉州の布団屋台スタイルにみるみる近づきます。まあ太鼓打ち鳴らしながら町を練り歩く点は共通していますから、最初から相性が良く、19世紀後半にはシンプルな「荷い太鼓」スタイルは泉州や淡路型の布団屋台に同化し塗り替えられたのはある気がしています。