三木の祭の屋台ムック

去年は見に行ったのですが、今年は膝の調子が悪くてパスしました。膝の方は全治4週間ってところですのでご心配なく。それと「これでもか」というぐらいローカルなお話なので、その点は悪しからずです。


屋台の購入・新調履歴

各町の屋台の来歴を調べるのは容易ではないのですが、幸い山車・だんじり悉皆調査兵庫県三木市様が詳しく調査してくれていますので表に直してみます。、

町名 当代 先代 先々代 先々々代
大宮八幡宮
明石町 江戸期より存在したと伝わる
新町 2009年新調 1961年、北条町御幸町)から購入 1912年、大塚に売却して新調 1874年、多可郡中町より購入
末広 2002年新調 1928年、妻鹿より購入
下町 1996年新調 1913年、北条町より購入
栄町 2002年新調 1961年、多可郡中町より購入
高木 1929年新調 1887年に売却
平田 1966年、神崎郡市川町より購入 1965年破損
大村 明治初期製作
岩壺神社
岩宮 1892年新調
大塚 2004年新調 1912年、新町より購入
芝町 1994年、明石市立博物館より購入 昭和初期の製作
大手 1964年、吉川町細田神社より購入
滑原町 1998年、別所町花尻から購入 1979年新調 1945年新調(1965年破損) 1817年に古文書記録あり
東条町 1928年、多可郡中町から購入 大正初期に破損
この調査の信憑性については新町に関しては正確です。他の町についても私が断片的に知っている部分については正確ですから、前提として「正しい」として扱います。


最古の記録

故郷の祭もある時期までは歌舞伎奉納が主であったと伝承されています。これがいつから屋台奉納に変わったのかは不明だそうですが、三木の秋祭りに文化14年(1817年)滑原町屋台争論状のオリジナルを撮影したものがあったので引用させて頂きます。

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あははは、読めません。そこで読み下しも主要部を引用させて頂きます。

9月18日、稲荷大明神祭礼付滑原町より荷い太鼓奉納仕、平山町争論仕、
御祭預、東条町若中だんだん取成仕、申分
相済み以、申分来無御座候。
三ヶ町連印以、済状奉御断申上候。

要約すると滑原町が荷太鼓を奉納したら、平山町から文句を付られ(要は喧嘩となり)、その挙句に祭が中止となった。そこで東条町が仲裁に入って収まったぐらいでしょうか。ここに書いてある「荷い太鼓」が屋台であるとの解釈です。故郷では今は屋台と呼ぶことが多いですが、かつては「太鼓」と呼び、そのために叩く太鼓をわざわざ鳴太鼓と呼び分けていたほどです。ですから「荷い太鼓 = 屋台」でも問題はないとは思います。故郷の研究家によるとサイズ的には滑原の先代も子ども屋台程度ぐらいだったんじゃないかとしていました。で画像を探したのですが容易に見つからなかったので、代わりに先々代の画像でお茶を濁させて頂きます。先々代と言っても昭和40年に破損してまして私ですら記憶にないのですが、旧滑原町屋台

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よく残っていたと思いますがこれが昭和28年(1953年)ぐらいの画像だそうです。


ここで屋台研究家がこの記録に注目するのは「荷い太鼓 = 屋台」の記録の初出部分だけなんですが、私は「稲荷大明神祭礼」に興味がわきます。まずどこの稲荷神社かですが、考えるまでもなく上の丸稲荷神社で間違いありません。間違いはないのですが、そんな派手な規模の祭りがかつて行われていたんだろうかです。鍛冶屋のつれづれ書きの上の丸稲荷神社には文化14年の古記録以外に

同じ年に初午には高室子供芝居と狂言を奉納し、そして文政四年(1821年)の初午には人形芝居を奉納している。嘉永時代から安政六年(1859年)まで毎年初午祭が祭行されている。明治二十五年担当崇敬者滑原町が御輿を調製して例大祭には渡御式を行った。御旅所は別所村高木庄の八幡宮御旅所の隣に霊地を以って是に充てた。

初午祭は稲荷神社の場合、2月の最初の午の日を祭にすることが多いですから、初午祭は春祭りって位置づけでしょうか。ただ初午祭が行われていたのは嘉永時代(1848年〜1854年)から安政6年(1859年)、日本史的にはペリー来航から安政の大獄ぐらいですが期間的には10年程であったようです。そりゃ地元の出身者でも知らない訳です。

例大祭は9/18と古記録にありますから秋祭りと見て良さそうです。文化14年(1817年)には確実に存在していますが、いつから始まったかは不明です。まあ、とにもかくにも文化14年(1817年)には屋台が存在していたして良いと思います。でなんですが、古文書には滑原町に屋台があったのは確認できますが、他の町はどうであったかです。ここでもう一つキーワードを拾いたいのですが、

    9月18日
もちろん旧暦なのですが播州大宮八幡宮

例祭日は当時三木を領していた中川右衛門太夫秀政が社殿を再建造営した天正十一年(西暦一五八三)九月十三日(旧暦)を起源としていると伝えられる。

旧暦の9月13日が新暦になって10月16日に移行しています。岩壺神社の例祭日の起源は見つけられませんでしたが、私の子どもの頃は同日開催だったので、岩壺神社も江戸期から同じであった可能性は高いと判断します。滑原町は岩壷神社の氏子として屋台奉納を行っていますが、文化14年(1817年)はヒョットしたら滑原町は9月13日に岩壺神社、9月18日に稲荷神社に屋台奉納を行ったんじゃないでしょうか。いやそうでなくて、滑原町の地元である稲荷神社の屋台奉納を優先して、岩壺神社の屋台奉納を欠席したのかもしれません。

「平山町争論仕」の内容が不明なのは遺憾ですが、想像として滑原町の重複奉納か岩壷欠席について「どうなっとんのや!」の争論はある気がしています。ここはこれ以上わからないのですが、談判に参加した3つの町に注目しておいても良いかもしれません。なぜに滑原町・平山町・東条町なのかです。あくまでも見方・考え方ですが、江戸期でなくともこういう時には関係者の協議が行われます。この関係者とは屋台を持っている町、それも岩壺神社に屋台奉納を行っていた町の可能性もある気がします。

屋台の来歴からして、滑原町に屋台は存在しています。先代東条町屋台は大正期に破損となっており、これが文化14年時点に既に存在してた可能性はあります。平山町に関しての来歴は不明ですが、かつて屋台が存在したのは間違いなく、大手を分離する前の平山町はかなり有力な町であったとされます。他の芝町・大塚・岩宮は明治期以降の屋台所有ですから、江戸期の岩壺神社への屋台奉納は滑原町・平山町・東条町の3台であったのかもしれません。


金物産業

三木の鍛冶屋の記録を三木金物歴史年表解説から鍛冶屋の軒数にしぼって抜き出してみます。

経緯
1580 三木落城
1679 野道具鍛冶など日用品を作る鍛冶屋しかいなかったと思われます
1742 鍛冶屋は十二軒で野鍛冶が八軒、銑鍛冶が一軒あった。あと三軒が何鍛冶か分かりません
1763 前挽屋五郎衛門と大坂屋権右衛門と共に京都前挽鍛冶仲間に入り三軒が三木で前挽鍛冶を始めた
1783 三木町の鋸鍛冶七軒が大坂文殊四郎鍛冶仲間へ加入し、他の三木の鋸鍛冶は七軒の下株になった
1792 この頃三十九軒の鋸鍛冶がいた
1815 前挽鍛冶三軒・庖丁鍛冶二十軒・鋸鍛冶六十一軒・やすり鍛冶八軒は分かります。次の項目の内剃刀鍛冶が六軒で鉋鍛冶が中庄と藤佐だろう
1828 曲尺地二十軒・曲尺目切鍛冶十六軒・鉋鍛冶は藤や金蔵・同治兵衛・東這田吉右衛門・前田弥三吉・来住や亦兵衛の五軒。鑿鍛冶は来住や伊兵衛・中屋国松・紅粉や善吉・一文字や五郎兵衛・綿屋国松・かりこ町兵蔵の六軒の鍛冶屋名が載っています
まだまだ続くのですが、もうひとつ金物産業の発展にともなって誕生する金物問屋ですが、
事柄
1763 道具屋善七開業(1軒目)
1765 作屋清右衛門開業(2軒目)
1792 道具屋善七、作屋清右衛門、紅粉屋源兵衛、今福屋善四朗、嶋屋吉右衛門の5軒で金物問屋仲間結成
三木の人口自体が1742年時点で500戸となっているのが、1800年には900戸となり推定人口が4000人程度とされています。50年ぐらいで倍近く増えていますが、これは金物産業の発展に伴ったものと見て良い気がします。おそらく最盛期は

1828年 昭和三年 鍛冶屋の軒数が多くなる

 この頃工業関係業者が集まった美嚢郡工業懇談会という組織がありその名簿によると鋸鍛冶二百三軒・高級鋸のスタイル鍛冶が三十一軒・特製鋸鍛冶が二十二軒で合計二百五十六軒の鋸鍛冶がいました。鑿鍛冶は大鑿鍛冶が七十六軒・小鑿鍛冶が九十五軒で合計百七十一軒です。鉋鍛冶は六十八軒いました。玉鋼で鋸を作る鍛冶屋がまだ宮野鉄之助と五百蔵安兵衛と二人いました。この年以降厳しい不景気になって行き鍛冶屋の軒数も減って行きます。

三木の金物産業は浮き沈みはあったと思いますが、昭和初期まで発展を続けていたと記録にはなっています。祭が盛大になるには旦那衆の形成が必要であり、19世紀初頭ぐらいにはそれが誕生していたと見れる気がします。


岩壷神社は文化年間に屋台奉納があった可能性はありますが、大宮八幡の方に屋台奉納が果たしていつからだったのだろうかです。上で示した表を少し書き直してみます。

西暦 年号 明石町 新町 末広 下町 栄町 高木 平田 大村
それ以前 江戸期製作 * * * * 由緒不明 由緒不明 明治初期製作
1874 明治7年 * 多可郡中町より購入 * * * * * *
1887 明治20年 * * * * * 売却 * *
1912 明治45年 * 大塚に売却・新調 * * * * * *
1913 大正2年 * * * 北条町より購入 * * * *
1928 昭和3年 * * 妻鹿より購入 * * * * *
1929 昭和4年 * * * * * 新調 * *
1935 昭和10年 * * * * * * * 大宮の宮入参加
1961 昭和36年 * 北条町より購入 * * 多可郡中町より購入 * 台風7号により破損 *
1966 昭和41年 * * * * * * 市川町より購入 *
1996 平成8年 * * * 新調 * * * *
2002 平成14年 * * 新調 * 新調 * * *
2007 平成19年 * 火事により破損 * * * * * *
2009 平成21年 * 新調 * * * * * *
もうちょっと単純化すると、
時代 参入屋台
江戸期 明石町、高木、平田??
明治期 新町、高木撤退
大正期 下町
戦前昭和 末広、高木再参入
戦後昭和 栄町、城山町
江戸期に屋台奉納を行っていた可能性があるのは明石町・高木・平田の3町になります。明治期でもこれに新町が加わるだけで、下町・末広で大正期です。新町以降はとりあえず置いておいて、明石町は江戸期から伝わるとされているので確実と考えます。高木・平田については大宮八幡宮の祭礼は高木・平田が五穀豊穣を感謝して参加してから今のスタイルになっていったとする説があります。この説の出どころが不明なもので、どれぐらい信憑性が置けるかの話になりますが、私は興味深いものと判断します。

大宮八幡宮の祭礼の見せ場は石段登りですが、これが屋台奉納のネックになっていたんじゃないかと推測します。岩壷神社の方はおそらく19世紀の初めぐらいには屋台奉納が行われていた可能性が高いですが、大宮八幡宮は石段の存在のために歌舞伎奉納なり、人形芝居なりの芸能奉納が主体であったんじゃないだろうかです。芸能奉納を主宰していたのが下五町です。そこに後発で高木・平田が参加したぐらいの経緯です。想像の翼を広げると、高木・平田は大宮八幡宮に宮入を行う以前から地元の神社に屋台奉納を行っていた可能性はあるとも考えています。

高木・平田が大宮八幡宮の祭礼に参加するにあたって、例の石段を登ってしまったぐらいのエピソードを想像します。これが大評判になり刺激された明石町が屋台を誂えたぐらいの経緯です。というのも明石町が大宮八幡宮で最初に石段を登ったとはどうしても考えられないからです。明石町屋台は長い間「三木最大の屋台である」との言い伝えがありました。この伝承の元は明石町屋台が出現した時に、既存の他の屋台に較べて目に見えて大きかったからと考えるのが自然です。

では比較したのはどこの町の屋台かになりますが、岩壺神社に屋台奉納していた滑原・平山・東条町の可能性もありますが、同じ大宮八幡宮の高木・平田である可能性の方が高いと思います。そうでないと明石町が大宮八幡宮の石段を登った最初の屋台になってしまうからです。


幻の平田屋台

先代高木屋台も幻なんですが、それでも明治20年に売却であれば江戸期に存在していた可能性は十分にあります。先代高木屋台の記録はネットには皆無ですが、売却の経緯が公会堂建設のためとなっていますから、高木に記録が残っているかもしれません。しかしこれについては私もこれ以上調べようがありません。

問題は平田屋台です。先代平田屋台は昭和40年の台風7号で破損し、昭和41年に市川町から購入した屋台で今に至るです。昭和39年までは存在していたわけですから、どこかに画像ぐらい残っていそうなものと探し回りましたが、これが見つかりません。辛うじて昭和37年の平田旧屋台にかつて画像があったらしい形跡があるのみです。ただコメント欄に興味深い情報があり、

    先代平田屋台は先々代新町屋台と酷似している
細部まで非常に似ているので同じ職人の作品じゃないかとしています。参考までに先々代新町屋台は、

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私はこれに加えて同じ時期の作品じゃないかとしたいところです。同じ職人に近い時期に発注されて、近い時期に出来上がったので非常に似ている結果になったぐらいの推測です。ここで先々代新町屋台の購入は1912年(明治45年/大正元年)です。もし先々代新町屋台が新調なら先代平田屋台も1910年前後に製作された可能性が高いことになります。では先々代新町屋台が新調なのかそうでなかったのかは・・・これが不明ですが、新町の人間に聞くと中古購入ではないかとしていました。新調したのなんて前の火事で焼けた後が初めてじゃないかと。

ただ言うても1912年(明治45年/大正元年)の話ですから、100年以上前の話なんて覚えている人が簡単には見つからないってところです。ですから新調の可能性も残ります。中古購入であれば他の同じ地域の兄弟屋台を「たまたま」新町も平田も購入したぐらいになりますが、それだったら近い時期に新町と平田が同じ職人に発注した方がありえそうな気もしますが、これ以上は不明です。仮に先々代新町屋台が新調であったとするなら、先代平田屋台も1910年前後の新調となります。つまり江戸期に平田屋台が存在していれば先々代になります。しかし残念ながら平田屋台は先代の情報も極めて乏しいですが、先々代になると存在したかどうかも不明です。というか先々代があったとする記録は見つかりません。


推理

私は三木の屋台奉納は岩壷神社が先行し、18世紀の終わりか19世紀初頭に始まっていたと考えます。大宮八幡宮が遅れたのは石段のためで、これを初めて登って屋台奉納したのは高木と見ます。高木の次が明石町で、さらに新町です。下町は大正2年(1913年)ですから、この時期に平田も先代屋台で屋台奉納に参加したぐらいと見ます。高木がいつ石段登りを始めたのか不明ですが、岩壺神社よりかなり遅れて19世紀半ばを過ぎてからぐらいを想像します。明石町は江戸期と言っても幕末ギリギリぐらいと思います。

もう一つ、三木の祭りの発展は金物産業の発展とシンクロしている部分は多そうな気がします。三木の祭りの屋台奉納が現在の形に近くなったのは大正年間から昭和初期ぐらいと見て良いかと考えます。この時期に岩壺も大宮も屋台奉納に参入する町が増えています。逆に言うと、18世紀中期以前の三木の経済力では難しかったかもしれません。ただなんですが幾分にも点と線を結ぶようなお話の上に、祭関係の資料が非常に乏しいのでこの辺りで休題にさせて頂きます。