もうちょっと松平氏の勉強

前回程度で必要して十分なのですが、もう少しだけ。


松平氏の始まり

系図というか親族関係に諸説がありすぎるのですが、徳川氏系図1(松平氏1・十八松平1・平手氏)より書き直してみます。

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もう一度お断りしておきますが、この系図も諸説のうちの一つに過ぎません。それでも参考に出来るところはあります。松平氏三河国加茂郡松平郷を発生地です。加茂郡はその名の通り賀茂氏ゆかりの地であり、賀茂氏の神紋は

二葉葵です。松平氏賀茂氏と関連があるとするのはうなづけるところです。もちろん賀茂氏の一族なのか、神人出身なのかは杳としてわかりませんが、出自として賀茂氏の一族であると名乗っていたぐらいは想像できるところです。さて徳川氏と源氏の関連として世良田政義が出てきます。世良田政義は実在の人物で新田氏の血を間違いなく引いています。しかしその子孫となると行方が怪しくなります。またこの系図を信じたとすれば、世良田政義の孫にあたる松平泰親松平信重の娘は婚姻していますが、そこからの血脈は途絶えています。そう、家康に世良田氏の血は伝わっていないのです。

世良田親季は政義の子であるのは確からしいのですが、親季の事歴は殆ど不詳とされます。松平氏世良田氏の血を引くというのは清康時代から「そういわれている」との記録もあるそうですが、松平氏二代とされている泰親も事歴不詳の人物です。この系図では義理の兄弟になりますが、他にも本当の兄弟説、叔父説、息子説があります。ここもこの系図を信じるという前提で考えれば、

  1. 親氏と泰親は松平信重の娘を娶り、義兄弟となった。(兄弟説のモト)
  2. 親氏より泰親が年上であった。(叔父説のモト、ひょっとすると親氏と泰親は血縁上で叔父甥であった可能性もあり)
  3. 源氏との関係を作るためには、源氏の血を引くとしている泰親の血脈が続く必要があり、信光は泰親の子である必要が出た(親子説のモト)
私の感想なんですが、松平信重は男子に恵まれなかったとまず見ます。そのために養子を取ったのですが、先に養子に迎えたのが泰親であった気がしています。しかし次に養子に迎えた親氏の方が血縁的に良く、親氏に家督を譲られたんじゃないかと思っています。でもって家督は親氏から息子の信光に伝えられたぐらいです。でもって泰親とその子孫は松平氏から消えていったのですが、松平氏が大きくなるにつれて出自の問題が大きくなり、事歴が不明の泰親に世良田氏との関係をまず持たせ、さらに力業で世良田氏の血を松平氏に流させたぐらいの経緯を思い浮かべます。

清康が世良田氏の末裔を称したというのも傍証で、清康が三河平定に際して、源氏の血を引く出自であると宣伝した結果も気もしないでもありません。たんだ世良田氏の血を引かせる系図造りも混乱があった気がしています。


伝承というより伝説の人みたいです。この親氏が松平氏初代となっていますが、家康の遠祖にあたる人物ですから、飾るところは飾りたいはずなんですが、結構ネガティブな伝承が残されています。まず松平信重の娘と結婚する前に、酒井忠則の娘と結婚し息子をもうけている話です。言いようによっては酒井氏の養子になったものの、養家から追い出された格好です。ここも本当に親氏が酒井氏の養子になったかについて疑義が出ていますが、ちょっと違う見方をしてみたいと思います。

親氏伝説では親氏は流浪の僧であったとするものがあります。もう一つかなりの教養があった「らしい」ともなっています。もう一つですが、酒井氏の時も、松平氏の時も親氏が立ち寄った時に「娘と出来ちゃった」説もあります。なぜにこんな話が残ってしまったかですが、親氏は酒井氏からも松平氏からも貴種としての扱いを受けたんじゃないかと考えています。家が重い時代は血のつながりが重視されましたが、一方で貴種の血を入れたがる側面は多分にあります。そのため貴種とみなされる人物が訪問すると、娘を伽に出し、子どもを授かろうとします。

貴種認定のための必要条件は出自が訪れた家より高いことが条件になります。親氏当時の酒井氏にしろ、松平氏にしろ地侍か、せいぜい国人の端っこぐらいじゃないかと想像します。酒井氏・松平氏から見て貴種であれば良いわけですから、上の系図に説得力が出てきます。系図では親氏は賀茂氏の一族になります。当時の三河での賀茂氏の一族のどれほどの尊崇があったかは確かめようがありませんが、松平氏に取っては主筋に当たっていてもおかしくありません。酒井氏は微妙なんですが、賀茂氏を貴種と認める程度の家だったぐらいはいえます。親氏は酒井氏では貴種して扱われて子どもだけ作って去り、続いて松平氏でも貴種扱いを受けたぐらいを想像します。親氏が松平氏に入婿となったのはwikipediaより、

信重の家は弓馬や和歌に秀でた三河国中に知られていた有徳人・富貴の者であったとされ

信重の家の方がリッチだったのも理由の気がします。また松平氏賀茂氏を出自として名乗っていたのなら、賀茂氏の一族を養子にし、家督を譲っても血統的にも問題は小さくなります。全部推測と想像に過ぎませんが、いくら教養があったとしても、流浪の僧がいきなり養子に迎え入れれるよりはストーリーとしてまだ妥当性があるぐらいです。


家系作りの混乱

さて徳川氏の家系作りで混乱が出ているのは、

ここで2つの手法が混在していたように思います。どうも最初は泰親を世良田氏の一族として婿養子にし、その血脈が受け継がれている話を作った気がしています。ところが泰親の子孫が続いているにするには松平一族の伝承との間に無理が生じたぐらいを考えます。松平氏時代、とくに清康時代であれば親氏、泰親、信光の記憶が遠くないからです。そこで後から同じ婿養子で直系の先祖である親氏に世良田氏の血を引かせたぐらいでしょうか。たぶん親氏の息子が信光であったのは松平一族の伝承であったと思うからです。

ここで始末に困ったのが泰親の存在で、当主として存在しなかったとすることが出来なくなり、強引に2代目に割り込ませたぐらいを考えています。まあ、後に征夷大将軍になって江戸幕府を開くとまで想像していなかったので、この辺の処理をエエ加減にしておいたツケが今も残ってしまったぐらいです。そうなると松平氏の系譜は

    親氏 − 信光
こうなるのですが、これで時代的に矛盾しないかどうかです。松平氏が記録に登場するのは信光からですがwikipediaより、

寛正6年(1465年)5月、三河守護細川成之の要請により、貞親の被官として8代将軍足利義政の命により額田郡一揆を鎮定している(『親元日記』)。

生年には1401年説、1404年説、1413年説がありますが1465年の生存証明から

生年説 1465年時点年齢 親忠出生時年齢
1431年説 1438年説
1401 64 30 37
1404 61 27 34
1413 54 18 25
信光の享年説は76〜89歳まであるのですが、合戦に赴くとなると1413年説が妥当な気がします。信光が1413年生まれとして親氏の生没年なんですが、これは多彩過ぎて目が回ります。
没年説 信光出生からの生存年数
1401生年説 1404生年説 1413年説
1361
1394
1413 12 9 0
1414 13 10 1
1421 20 17 8
1428 27 24 15
1437 36 33 22
1456 55 52 43
1467 66 63 54
信光の親、もしくはせいぜい祖父であるのにこれだけ没年に幅があります。幅がある分だけ信光との親子関係に矛盾がない親氏の没年は存在しますが、これじゃ証明といえるかどうかです。どうにも世良田氏と関連付けるために生没年の設定に相当無理が出ている気がします。ちなみに親氏の生年も2つ説があるのですが、これと没年説を組み合わせると、
没年説 享年
1298生年説 1332生年説
1361 63 29
1394 96 62
1413 115 81
1414 116 82
1421 123 89
1428 130 96
1437 139 105
1456 158 124
1467 169 135
生年で34年、没年で106年の幅があります。つうか記紀欠史八代の寿命を見るようで幻暈がしました。二代となっている泰親の没年も
  • 1377年説
  • 1393年説
  • 1430年説
  • 1435年説
  • 1436年説
  • 1437年説
  • 1448年説
  • 1472年説
実に95年の幅があります。歴史的には親氏が何者であり、また泰親が何者であろうと関係ないのですが、江戸幕府の権威をもってしても統一できなかったかいなってところです。


矢作川と十八松平の分布

矢作川も暴れ川で、なおかつ江戸期以降に大規模治水が行われため、現在の地図で戦国期の地理を想像するには限界があります。またまた厄介至極な当時の川の流道と海岸線の再現みたいなものが必要になります。幸い国土交通省資料があったので、これを参考にして十八松平の分布を見直してみます。

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松平氏は西三河東三河の中間の山岳地帯に興ったぐらいで良さそうです。三代である信光の分家はまずそこに分布しています。おそらく谷間の農地に分家が作られていったぐらいの想像で宜しいかと思います。このチマチマした谷間の土豪との争いに勝ち抜き、さらなる大地を求めたのが信光ぐらいでしょうか。でもって信光が進んだのは西三河矢作川流域です。

西三河の開発は古代から矢作川流域で、知多湾沿岸から東に続く丘陵地帯は台地となっており、ここまで水をくみ上げる灌漑技術がなく開発が遅れたとなっています。この矢作川流域で大規模開発が行われたのは、室町期に入ってからのようで吉良氏が西尾中心に大規模開拓を行い、さらに下流部では一色氏が開拓を行ったとされます。西尾や一色の開拓の後だと私は考えていますが、中流域の安祥や岡崎も大規模開拓されたようです。だから後に安祥や岡崎が西三河の重要戦略拠点になったぐらいでしょうか。信光はこの安祥と岡崎を奪取したと考えて良さそうです。

四代の親忠は事歴の乏しい人物なので、私はその子の五代長親の時代じゃないかと思ってはいますが、松平氏矢作川の上流地帯に勢力を広げ、さらに下流域にも勢力を広げていったぐらいに見えます。ただしその力は西尾の吉良氏を倒せるようなものはなく、矢作川流域で上中流域は松平氏下流域は吉良氏と棲み分けていたふらいでしょうか。

六代の信忠は置いておいて、七代の清康の事歴に西三河の征服事業の記述が乏しいのは

  1. 西三河は吉良氏と友好関係さえ結べば有力敵対豪族が少なかった
  2. 松平氏が初めて進出する東三河が主戦場であった
清康は12歳で家督を継ぎ、19歳までに三河を平定した英雄児ですが、松平氏東三河の覇権は短かった気がします。清康が森山崩れで急死した後の信定の時代ぐらいはあったかもしれませんが、広忠の時代には確実に失われています。これぐらい松平氏のことを知っておけば、今度こそ必要にして十分な気がします。