続竹中半兵衛の墓

前回のムック竹中半兵衛の墓は、

  • 天正7年(1579年)の死亡時に秀吉が平井山に作った
  • 天正15年(1587年)に半兵衛の子の重門が岐阜の垂井の禅幢寺に移葬した
この禅幢寺ですが三木平井山観光ぶどう園HPより、

竹中重門は当時7歳。8年後、天正15年(1579年)には、重門は半兵衛の遺領・美濃国岩手に禅幢寺を興し、墓も設けて、郷里で亡き父の菩提を弔いました(禅幢寺は旧領主岩手氏の菩提寺で、このころは衰微。重門の再興後、代々竹中家の菩提所となりました)。

ここまでは史実して良いかと思います。今日の問題はそこからで、これまた三木平井山観光ぶどう園HPより、

その後、徳川の世に移り、半兵衛の子孫は、大名並の高禄旗本として、家を保っていきます。そのなかで「終焉の地にある墓」を、竹中家がかえりみることはなかったようです。

竹中家の使者が三木の平井山を訪れたのは半兵衛の死後、実に226年後の文化2年(1805年)と考えて良さそうです。まあ、墓は移葬してあるので半兵衛の供養は菩提寺である禅幢寺で済みますから、わざわざ三木の前墓所に参詣する必要性を認めなかったぐらいで良いかと思います。竹中家が平井山を放置していた証拠として文化3年2月の手紙の中に、

往昔ヨリ是迄、打捨置候得者

こうなっています。これがなぜに竹中家10代(半兵衛から数えて9代目)の重寛が三木平井山の前墓所がどうなっているかを確認したくなったかについては、なにか偉大な先祖である半兵衛をアピールする「政治的」必要性が竹中家に生じたんじゃないかの説もありましたが、平井山墓所の整備に関与した重寛と、その子の重英も事績がネットでは見つからずこの点についてはお手上げです。


平井山の墓石は誰が立てたものか?

半兵衛が三木合戦の陣中で病没した時に秀吉が半兵衛のために墓所を作ったのは間違いないと考えています。当然ですが墓石もあったと思いますが、竹中家が半兵衛の墓を移葬した天正15年(1579年)は聚楽第が完成した年です。秀吉の権勢は頂点に上り詰めようとした時期ぐらいに考えて良いでしょう。当たり前ですが竹中家も秀吉には気を十二分に使ったはずです。そりゃ秀吉が半兵衛のために作った墓ですから、それこそ秀吉にお伺いをたて、秀吉が当時作った墓は根こそぎ岐阜の禅幢寺に運んだとするのが自然かと思います。

つまり、竹中家が天正15年(1579年)に移葬した直後は三木の平井山にはなんにも残っていなかったと推測します。その後に墓石は建てられますが、これは地元民が移葬後に建てた可能性が高そうに考えています。竹中家が移葬時に供養塔として新たに建てた可能性も否定できませんが、それなら226年も放置していたのはチト不自然ぐらいです。地元民が建てたと思う最大の理由は、

現存するこの墓石です。秀吉が建てたにしても、竹中家が供養塔として立て直したにしろ、これじゃ簡素過ぎるってところです。これが地元民が移葬後に供養塔として立てたのなら「それぐらい」って納得できそうだからです。建てた時期なんてなんにも記録に残っていませんが、強いて考えれば竹中家が墓を禅幢寺に移葬し、塚の上の木がある程度大きくなってからじゃないかぐらいに考えています。まあ20年もすれば結構な大木に育つんじゃないでしょうか。

もちろん地元民が建てたとする記録は残っていませんが、226年後に訪れた竹中家の使者が平井山の前墓所の様子を見て感動したというか、竹中家として整備する必要性を強く感じたんじゃないかと考えています。これも三木平井山観光ぶどう園HPより、

 村人が戦国の世から営々と守り続けてきた半兵衛の墓。大きな土盛りの上には、三樹が根をはり「竹中半兵衛重治墓」と刻まれた墓標がたっていました。庄屋太右衛門と年寄新右衛門に出会った神田弥五兵衛は、これまでの供養の礼をのべた後、竹中家として墓所の整備を申し出ました。

 このとき、まず石灯籠の建設ほか諸用の費えに一両一分を差し出し、その後、あらためて十両を送ることを約束して、帰りました。

この最初の1両1分については書面でやり取りした記録が残っており、金額としては間違いないものと判断できますが、

  1. 金額が中途半端である
  2. 使者の神田弥五兵衛は墓所をみてから整備の規模を判断したとも受け取れる
あくまでも想像ですが、竹中家の使者である神田弥五兵衛の当初の構想は、おそらくなんにも残っていないだろうから、墓所を探し当ててせめて供養塔でも建立しようぐらいだったんじゃないでしょうか。そのための予算が1両程度です。ところが墓所はそれなりに整備され、墓石までたてられて供養されていたので、
    こりゃ、竹中家の名誉のためにもキチンと整備しないといけない
こういう判断を使者の神田弥五兵衛は下したぐらいを考えます。墓石はそのまま利用するにして、三木平井山観光ぶどう園HPより、

竹中家より送られた計11両1分の使途は石灯籠の建設、地所三畝を購入しての墓域拡張、供養継続のための収入源となる地所・山林の購入、等でした。

この時に墓所の周囲の塀も作られたと記録されています。それと全部で11両1分の整備費用ですが、この捻出に竹中家はちょっと苦労した節が窺えます。文化2年(1805年)閏8月に最初の使者が訪れ追加の10両の約束をしているのですが、三木平井山観光ぶどう園HPより、

文化3年(寅年)に届いた、約束金10両のうち最初の5両の受領書。この受領書は、文化5年4月9日付の手紙に同封され、弥五兵衛から返却されました。

書面は、

20160512163921

こんな感じで、最初の訪問の翌年の文化3年12月にまず半分の5両です。残りの5両は文化4年12月となっています。書面は長くなるのでリンク先を見て欲しいのですが、支払いが遅れていることを詫びている個所が随所に見られます。推測にすぎないのですが、最初から墓所の整備をするつもりであれば、ここまで費用の捻出に時間はかからなかったと思うわけです。2年半も10両の支払いにかかったのは、竹中家としても想定外の大出費になったと考えています。

もちろんこの間に重寛が亡くなり、重英が継ぐという費用のかかる代替わりが起こったのも支払いが遅れた原因と思いますが、竹中家としては最初の使者の墓所整備構想は認めたものの、想定外の出費に苦慮した傍証ぐらいになると考えています。当時の武家は貧乏でしたからねぇ。


平井山墓所の位置?

文化3年2月の手紙が気になるところで、

20160512170507

候文は読みにくいのですが、墓所は庄兵衛が所有しており、これを買い取った上で整備拡張する案だったようです。ところが庄兵衛に拒否されてしまったようです。そこでやむなく西に10間(約18m)ずらして灯籠を設置する代案の承認が書かれています。でもって現在の墓所の様子ですが、

20160505105038

どう見たって灯籠と墓石の距離は10間(18m)も離れていません。つうか墓所自体が縦に9間(約16.2m)ですから絶対に10間も離れていません。現在の墓所の灯籠位置は、おそらく買収を前提にした墓所整備案の灯籠位置(墓石との相対関係で)にあると見て良さそうです。この手紙のやり取りから考えると

  1. 拒否していた地主の庄兵衛は後日に売却を承知した
  2. 灯籠だけではなく墓所ごと西に10間ずらした
このどちらかになります。1.であると思いたいのですが、2.の可能性もゼロではないってところです。おそらく、この後も地主の庄兵衛との交渉についての手紙のやり取りがあったと想像しますが、残念ながら残されていないようなので、これ以上のムックは不可能のようです。