続和船のお話

JSJ様の

寺社造営料唐船勘合貿易の間に日本人が主体だったとされる前期倭寇の活動した時代が入ります。
してみると、清盛の日宋貿易から鎌倉・南北朝期の寺社造営料唐船までは大陸側の船が主体となって活動していたのに対し、
前期倭寇こそは後の勘合貿易朱印船貿易につながる和船大型化の濫觴であった、という見通しを立てることができるのではないかと思います。

これを受けての話を考えていたのですが、なにせ泥縄式ですから時間ばかり喰った上に結果的にあんまり「続」ってムックにはなりませんでした。


とにかく資料が少ない

日本初の大型船は遣唐使船と考えて良いかと思っています。これが実在したのは間違いありませんが、どんな船であったかは不明となっています。記録が残っている乗組員数からの試算では、おおよそ江戸期の千石船程度の大きさ「だろう」があるぐらいです。通説では半島技術を導入した初期ジャンク船形式の見方が多いようですが、実物はもちろん当時の絵図さえ残っていないので推測の域を出ません。遣唐使は894年に菅原道真の建議により廃止されていますが、遣唐使廃止と同時に遣唐使船建造技術も滅んだ気配が強そうに感じます。

滅んだのかどうかは実のところサッパリわからないのですが、こういうものは後世の船の形式で考えるのが常套手段です。遣唐使船の次に大型の交易船が活躍した時代として思いつくのは日宋貿易です。平家栄華の原動力の一因になるぐらい儲かったと想像していますが、ここに日本船の記録は「たぶん」残っていません。つうか、宋からの交易船は間違いなく大輪田の泊まで来航していたとは思いますが、日本からの交易船なんてあったんだろうかです。日本からとは日本人船主の交易船が果たして存在していたんだろうかです。

清盛の大輪田の泊の改修事業は経が島築造に代表される大規模なもので、この工事の記録はあちこちに残されています。ここでなんですが、日宋貿易のために日本船の建造も盛んに行われていたら、やはり大輪田の泊に大型船の作事場を作ったでしょうし、その記録も残っていそうなものです。しかし私がこれまで調べたところありませんので、推測として日宋貿易時代は日本に大型の交易船を作る能力はなかったんじゃないかと考えています。日宋貿易とは宋の商人が運用する船による交易事業じゃなかろうかです。

日宋貿易時代に大型の日本の交易船が存在しなかった傍証として元寇の後に行われた寺社造営料唐船(日元貿易)があります。歴史的には天竜寺船が有名ですが、この寺社造営料唐船もどんな船を使っていたのかの資料が乏しいところです。唯一新安沈船の発見があり、これは大陸製のジャンク船です。運用主体は荷物の調査では大陸人の可能性が高そうとなっています。まあネーミング自体が寺社造営料「唐船」ですから、大陸商人の運用する交易船を利用したものだったんじゃないかの推測は成り立ちます。心細い資料しか見つからなかったのですが、だからこそ思い切った仮説を立てて見ます。

  1. 遣唐使船技術は894年に廃止された後に継承されることなく滅んだ
  2. 日宋貿易も日元貿易(寺社造営料唐船)も運用主体は大陸商人だった
  3. 日本側が船を利用したとしても、大陸商人の交易船をチャーターしたぐらいだった
でもって
    鎌倉期には大陸に行けるような大型の交易船を作れる能力がなかった
とりあえずこういう事にします。


謎はジャンク船になる

日本が大陸に日本船で日本人主体で押し渡れるようになったのは前期倭寇ぐらいと見ています。倭寇の跳梁跋扈は明も手を焼いています。前期倭寇足利義満の時代に制圧され、その後に勘合貿易の時代が来ます。遣明船とも呼ばれますが、これまた船自体の資料が乏しいのですが僅かに残された絵図から船は船の科学館 もの知りシートより、

江戸期の千石船に近いものが描かれています。つまりは棚板造りの和船です。こういう船は遣明船と呼ばれたようですが、遣明船を幕府が独自に作ったわけではなくwikipediaより、

遣明船は遣唐使船のように特別な船を新造したわけではなく、国内にあった大型船を借り入れて、居室用の屋形を増設したり、艤装品を補充するなど大がかりな改修を施して用いました。

ここの解釈を考えていたのですが、室町時代には商人が大型和船を建造し所有していたと見て良いかと思います。もう少し踏み込むと、鎌倉期以前とは違い大陸の商人の交易船を用いなくても良くなったとも言えます。もう少し言うと、鎌倉期以前は請け負わそうとも日本にそんな力をもった商人がいなかったのが、室町期に入ると出現してきたぐらいでしょうか。で、ここで私の大きな疑問なんですが力を付けた商人が所有した船がなぜにジャンク船ではなく、和船だったのかです。

前期倭寇の活躍時期も考慮すると南北朝の末期ぐらいには大陸に押し渡れる船が作られていたとして良いかと考えています。それ以前は無かったとすれば、常識的には先に存在する大型交易船の模倣を行いそうなものです。ジャンク船は遅くとも日宋貿易の時代には盛んに来航していたはずで、大型交易船のモデルとして取り入れられるのが自然そうに思います。しかし出現したのは棚板造りの大型和船です。当時に日本製のジャンク船が存在していたかどうかの記録はありませんが傍証として倭寇図巻を示します。

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倭寇図巻は従来は前期倭寇の姿を描いたものだとされていましたが、

  1. 白塗りの部分を赤外線で調査したら日本弘治四年(1558年)の記載が見つかった
  2. 倭寇の中に火縄銃を持つものがいる
16世紀の後半に江南地方を広範囲に襲撃した嘉靖大倭寇を描いたものであろうとされています。1558年て「いつ」ぐらいですが、1555年に毛利元就厳島の戦いをやり、1557年に第三次川中島の戦いがあった頃とすればイメージして頂けるでしょうか。実は後期倭寇も含めても倭寇図巻しか倭寇船の資料はないそうです。それでも参考になる部分はあります。描かれている日本船と遣明船は非常に良く似ています。同じ技術体系から作られた棚板造りの和船であるのは確認できます。

それと倭寇図巻を描いたのは明人です。明人画家が日本船を描くときに和船を描いています。後期倭寇に日本人は少なかったとされていますが、明人画家は倭寇と言えば日本人であり、日本人であれば和船に乗っているはずだの考えで描いたと考えます。そうであれば、明人は和船を知っていたことになります。倭寇だけではなく、日本人の交易商人が和船で大陸に良く現れていた傍証になる気がします。ジャンク船と和船は形式がまったく異なりますから、描き分けの時に常識として用いられたぐらいの考え方です。

そこまで考えると日本にジャンク船技術は積極的には導入されず、一方でようやく発達した棚板造りの和船で大陸に渡り始めたって話になってしまいます。史実的にはそうなりそうなんですが、やはり最初に戻って

    なぜに大型交易船が作れなかった時代にジャンク船技術を導入せず、棚板造りの和船技術の発達を待ったのか?
こういう疑問に行き着くことになります。


民間活力

大陸との海上交易史は遣唐使船時代は純官営でしたが、以後は官許であっても運営は民間人主体であったと見れそうな気がします。政府や有力豪族・寺社は金主であっても運用主体にはならなかったぐらいの考え方です。鎌倉期ぐらいまでは大陸との交易を取り仕切れるような有力商人は日本ではまだ存在せず、南北朝末期から室町初期になってようやく大陸交易を請け負えるぐらいに成長したんじゃなかろうかです。では鎌倉期ぐらいまでの商人は何をしていたかですが、江戸期風の内航主体の廻船問屋であったぐらいを想像します。

廻船問屋の商売の基本は船という大量輸送機関のメリットを活かしての大量販売です。ただなんですが、無暗に運んでも商売になりません。運んだ場所で商品が売れる必要があります。もうちょっと単純化すると、運んだ場所に売れそうな商品を運び、それを売りさばくことによって収益をあげるこおとになります。この売れるためには顧客というか、購買者が必要です。これが多いほど商品の単価は上がり収益が大きくなります。そうなると人口集積地に運ぶのを誰でも思いつきますが、wikipediaより室町時代の主要都市推定人口を示します。

都市 旧国 推定人口 元号 西暦
京都 山城 100,000 明応9年 1500年
天王寺 摂津 35,000 明応8年 1499年
博多 肥前 35,000 天正7年 1579年
柏崎 越後 30,000 長享2年 1488年
和泉 30,000 天文元年 1532年
山田 伊勢 30,000 天文13年 1544年
春日山 (直江津) 越後 30,000 中世末 1570年代
安濃津 伊勢 25,000 大永2年 1522年
野津 豊後 20,000 天正7年 1579年
坂本 近江 15,000 文亀元年 1501年
桑名 伊勢 15,000 大永6年 1526年
瑞泉寺 越中 15,000 天正以前 1560年以前
石寺 近江 15,000 永禄6年 1563年
府中 駿河 10,000 享禄3年 1530年
山口 周防 10,000 弘治3年 1557年
本願寺 摂津 10,000 永禄5年 1562年
岐阜 美濃 10,000 永禄12年 1569年
蓮沼 越中 10,000 天正12年 1584年
雪ノ湊 阿波 8,500 康安元年 1361年
奈良 大和 8,000 中世中期 14世紀
清洲 尾張 7,500 天正年中 1580年代
尾道 備後 5,000 元応2年 1320年
引間 (浜松) 遠江 5,000 文明17年 1485年
山城 5,000 延徳2年 1490年
大湊 伊勢 5,000 明応7年 1498年
吉田 甲斐 5,000 天文23年 1554年
府内 (大分) 豊後 5,000 元亀2年 1571年
蒲江津 豊後 5,000 中世末 16世紀
これは原田伴彦氏の1942年のものであり、他にも説はありますが、都市と言ってもほとんどは3万人程度、いやそれ以下であったと見ても良い気がします。また室町期でこの程度ですから、それ以前となるともっと都市規模は小さかったとも考えられ、人口集積規模が小さいと商売のパイは小さくなり、商売の規模もそれなりになります。都市人口は室町期でも少ない気がしますが、鎌倉期から室町期に商人の力が伸びたのは、単に人口だけではなく、人口の中の購買者数比率が増えたのがありそうな気がします。とにかく室町期には商人は成長しています。

カギは成長期に廻船問屋が求めた船になりそうな気がします。廻船問屋は運送業ですが、経費のうちで大きな部分を占めるのが船です。収益は運ぶ荷物の量に比例するとはいえ、運び過ぎたら売れ残ったり、値崩れして損を出す結果になりかねません。つまりなるべく建造費の廉い船で運びたいと考えるのが自然です。建造費が廉いにはもう一つ条件があって、同じ建造費の船なら少しでも荷物を載せたいとも考えるでしょう。ここでジャンク船は堅牢ですが、隔壁を多数設けるために

  1. 建造費が高くつく
  2. 隔壁構造のために荷物が積み込みにくい
  3. 水密甲板もあるため、荷物の積載量が船体に比べて和船より少なくなる
当時の商売規模では大型のジャンク船は不要であり、小型のジャンク船では不経済と判断された気がします。そのため内国交易のためには建造費の廉い棚板造りの和船が用いられたと思います。最初はそれこそ30石積とか、50石積から始まって、商規模の拡大にともなって100石積、さらには遣明船規模の千石船クラスに大きくなっていったぐらいでしょうか。建造技術は需要によって発達する部分がありますから、廻船問屋が多数の船を求め、また大型の船を求めた時には、その注文に応えるだけの発達をしたぐらいの考え方です。

船の拡大は廻船問屋の商規模の拡大によって徐々に進んでいったんじゃないかと想像しています。ここで船は大きくなっても、もともと小型船でも航海可能な航路でしたから、ジャンク船構造まで求める需要が起こらなかった可能性を考えています。つまりは和船の拡大です。とくに堅牢性を求めてジャンク船形式を導入する必然性に乏しかったぐらいです。つうか「そうなったんだ」ぐらいしか言いようがありません。それでも大型化するにあたって小型船よりは和船なりに堅牢性の向上に努めた部分はあったんじゃないかと想像しています。

大型化と和船なりの堅牢性の向上が遣明船につながっていったぐらい・・・が精一杯の想像です。ですから和船の発達をワザワザ待って海外進出を行ったわけではなく、民間でも海外交易を請け負えるようになる発展と和船の発達がシンクロしたぐらいの見方です。


和船に水密甲板はあったか、なかったか?

江戸期の千石船にも甲板はありましたが、基本的に水密性はなく荷物の積み下ろしに便利なようにいつでも取り外せる構造であったようです。つまりは板を置いてあっただけで水密性はありません。では和船に水密甲板そのものが無かったかどうかになると、私はあったと思いたいところです。とりあえず遣明船にも倭寇船にも甲板らしきものは見られます。これが水密甲板かどうかは判断しようがありませんが、外洋の航海のために水密甲板であったとする方が自然な気がします。

問題は内航での沿岸航海のための大型和船にまで水密甲板が張られた時期があったかです。これがなんとも言えないのですが、そうであった船はあったと思っています。たとえば船は老化しますから、外洋航海が無理になった時に内航に転用されるのはアリと思うからです。ここでなんですが水密甲板の長所は航海能力が上がることですが、欠点は荷物の積載量が減ることです。この関係を単純化すると

    内航時・・・荷物優先
    外洋時・・・航海能力優先
こういう図式で考えると内航用は航海の危険度が低い分だけ荷物優先になりますし、荷物自体の単価も外洋用に較べると廉くなるのでやはり荷物優先で甲板無しが優先される気がします。外洋用は逆です。つうかなんですが、江戸期の菱垣廻船でも元禄期でさえ350石積が主力であったことを考えると、もっと話を単純化できそうな気がします。
    内航用・・・甲板無しの荷物山積みの小型船
    外洋用・・・水密甲板を備えた大型船
べつに内航用の大型船なんてものを作る必要はなく、どうしても大型船を使いたいのなら外洋用のものを使っていたぐらいの状況を想像します。この辺の考察を踏まえて江戸期を考えます。


江戸期の廻船問屋

江戸期の廻船問屋の様相は大まかに分けると、

  1. 安土桃山時代から御朱印船時代までは外航用の大型船が作られる(竜骨やジャンク構造も採用されています)
  2. 鎖国政策により海外交易が消滅。船の需要は内航用の小型船にシフトする
  3. 内国経済が盛んになり再び大型船が必要になる
とりあえず思うのは海外交易がなくなって廻船問屋の商規模が一挙に萎んだと考えられます。外洋用には2000石積とか、それ以上の大型船もあったようですが、そんな大型船の使い道もまた一挙に失われたぐらいです。どれぐらい船が小さくなったかですが、江戸期の花形航路である大坂〜江戸の状況として菱垣廻船と樽廻船より菱垣廻船の始まりとして、

  • 元和5年(1619) 泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積みの廻船を借り受けて、大阪〜江戸への日常物資を運送したのが始まりです。
  • 元禄期に入り、江戸の物資消費量が増大すると、廻船はしだいに大型化し、元禄年間には350石積が主力となりました。

あくまでも想像ですが、元和元年に使われた船は当時の最大級であったと考えています。つまりそれぐらいの船しか持てない規模に廻船問屋も縮小したとも言えそうな気がします。こういう状況は元禄期(1688-1704)、つまり約100年後になっても250石積から350石積に大型化したにすぎません。ここで前にやった考察の焼き直しになるのですが、江戸の消費需要が高まるにつれて船は大型化し、船の数も増えていきます。こういう状況で常に

    需要 >> 供給
こうであれば良いのですが、供給がやや過剰になったと思っています。供給過多まではいかなくとも、時期によっては
    需要 ≒ 供給
江戸航路も初期は運びさえすれば濡れ手に粟状態だったのが、段々に時期と商品を選ばないと儲けが薄くなり下手すりゃ損するケースも出てきたぐらいです。まあ全体の平均として初期に較べれば商品単価は下がり気味になったぐらいで良いかと。そうなると誰でも思いつくのは薄利を多売でカバーしようぐらいでしょうか。そこで再び大型和船が登場するのですが、薄利多売路線の船の前提は、
    大型化した分に比例して荷物が積み込めること
比例というのは単純にいえば、船の大きさが2倍になれば積載量も2倍になるぐらいの感覚です。安土桃山期以前の海外交易に用いられた大型和船は、海外の珍品の単価が高いので「より安全に持って帰れること」が優先されましたが、江戸期に再び登場した大型和船は「とにかく1度にたくさん運べること」を期待されて登場したぐらいを考えます。海外交易時代には必要性に乏しかった内航用の大型和船となって出現したぐらいに考えています。そんな商売上の要求の下に生まれた江戸期の大型和船に水密甲板が再び用いられることはなかったぐらいを考えています。

もう少し付け加えると和船の安定には荷物の重みが重要であったとされます。空船では危険で、ある程度の荷物を積み込んだ方が安定するぐらいです。船を作るときにもそういう要素は考慮されたと思っています。積める荷物は「甲板あり < 甲板無し」で私の見るところ倍近く違います。甲板無しの大型和船を作る時には山盛り積載量を前提として建造されるようになったんじゃないだろうかの想像です。色んな想像ができて楽しかったですが、とにかく資料が乏しいのはお手上げでした。