えべっさん

関西の人間(そうじゃないところもあります)なら正月の次は十日戎です。私も西宮戎に

    家業繁栄
これを祈願しに行ってきました。商売柄「商売繁盛」とは言いにくいですからねぇ。西宮戎と言えば福男レースも有名なんですが、コースは西宮神社HPより、

表大門をスタートし、南宮神社の前を曲がり、祈祷殿の横を抜けて拝殿から本殿に至るルートになります。もちろん走った事はありません。つうかまともに十日戎の期間中に参拝したら、このルートはビッシリ人で埋まっていまして、表大門から本殿まで30分なんてザラです。もう少し言えば表大門にたどり着くまでに1時間とか、2時間、下手すりゃそれ以上なんて事もあるわけです。今年はピッタリ三連休に重なってますから、さぞ物凄いことになっていると想像しています。ちなみに私は早朝に参拝しましたから空いてました。

さてこの表大門なんですが、

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別名「赤門」とも呼ばれ桃山時代の遺構とされているもので、その左右に連なる大練塀と共に重要文化財に指定されています(国宝であった本殿も含め、他の由緒ある建物は空襲で焼失したようです)。この門は地図を見ればお判りの様に東向きです。別にどこを向いていても良いようなものですが、本殿は南向きですから、表大門も南向きの方が自然な気がします。南側にも門があり、

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こっちも立派なもんですが、あくまでも南門であって表大門ではありません。表大門は赤門と呼ばれる通り、わざわざ赤色に塗られているわけで、作られた時から表大門として東に向いていたとして良さそうです。まあ、表大門が東に向いているから福男レースにコーナーワークという勝負の綾が生まれている訳ですが、何故に東向きなんだろうに興味をもちました。つうても神社HPの由緒にも何にも書いてありません。そうなると考えないといけません。



地形から考える

まず思いついたのが地形的要素です。地形的要素と言っても現在の神社は平地の真ん中にあるわけで、南側に表大門を作らなかった訳なんて想像しようもありません。参考にしたのは国土地理院の明治期の低湿地帯の分布図です。

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見ればお分かりのように神社の周囲の北・南・西は低湿地帯に囲まれています。とくに南側は低湿地帯に面しているとして良さそうです。一方で東側はそうではありません。つまり神社に参拝するには東側からアプローチせざるを得なかったんじゃなかろうかです。南側はアプローチするにも出来なかったので、東向きに表大門が構えられたぐらいです。これはなかなか合理的な理由そうに思えます。低湿地帯の影響は西宮の市街形成にも影響していると見て良さそうです。西宮は古くは戎神社の門前町として発展した事を念頭に置いて次の地図を見てください。

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「たぶん」なんですが、原初の門前町は戎神社の表大門から東に伸びる本町通と書かれているところに出来たとして良いでしょう。通常はそこから南北に市街は広がりそうなものですが、北側は低湿地帯があり、そこまでで止まったと見ても良い気がします。そのために低湿地帯でない南側に市街が広がったと見て良い気がします・・・と、ここまではスンナリ推理が展開したのですが、問題が出現です。よく地図を見ると戎神社の南側を東西に走る道は西国街道ではありませんか!

そうなると神社の南側に回り込む事は可能になります。人通りが多い西国街道に面して南側に表大門を作っても良さそうなものです。う〜ん、困ったってところです。ひょっとして原初は南側が表大門だったのかかもしれません。しかし南大門の位置も表大門とするには少々妙で、本殿の真南にある訳ではありません。かなり東側に偏っています。ここで一旦詰まってしまいました。


由緒から考える

まず戎神社HP末社の案内図です。

十二社あるのですが注目して欲しいのは

戎神社は江戸期以前には官幣大社広田神社の摂社として浜南宮とされていたようです。そのために戎神社内の南宮神社は現在でも広田神社の摂社であり、管轄も広田神社となっています。これが明治の初めに分離するのですが、経緯をまとめると、
年月 事柄
明治5年3月 広田神社から分離し西宮神社となる
明治5年6月 大国主西神社と改称
明治7年5月 社格が村社から県社に昇格
明治7年8月 県社取り消し、広田神社の摂社になる
明治7年11月 摂社のままで西宮神社大国主西神社を県社に昇格
スッタモンダの大騒動だったようですが、混乱の要因は広田神社から西宮神社が分離した時に「なぜか」大国主西神社と改称した事のようです。そのため教部省(文部省の前身ではなく神祇省の後身)が西宮神社大国主西神社は別物の解釈をしたためとなっています。神社HPの由緒を読んでも判然としないところがあるのですが、教部省大国主西神社と西宮神社は別の物と考え、大国主西神社は広田神社の摂社であると判断したためとしています。ところが実態的にはこうなっていたから大混乱ってところです。なんとなく西宮神社を別離させられた広田神社の意向というか陰謀がある気もしますが、こういう混乱が起こっています。広田神社への意向を気にしながら、西宮神社の言い分を立てた決着が神社HPにある、

氏子総代等納得せず、さらに嘆願した処、県及び教部省は苦心、考証の結果、明治八年四月二十八日付で、「今更廣田神社 摂社の名称の取消しは出来ない、大国主西神社の由来に付いては確定出来ないので両社とも県社のままとする。但し、西宮神社は県社として別に祠官を定め社務・社入も別途とするも差し支えなし」と、一応の決着を見た。

実態的に西宮神社が県社として分離独立を認めるぐらいでしょうか。ここからは完全に想像なんですが、元は広田神社の摂社である浜南宮です。これが明治期になって分離独立するぐらいですから、それ以前からそういう気風があったんじゃないかと思っています。今日の問題は門の位置なんですが、原型の浜南宮はやはり西国街道に面する南門を表大門としていた気がします。地理的にも近いからです。これに対して戎神社は東側に新たに戎神社用の表大門を作ったんじゃないかと推測しています。

それにしても、えびす宮総本社と名乗っている西宮神社が、短期間とは言え大国主西神社と名乗っている時期があったのに驚いています。まかり間違えば、「えべっさん」ではなく「だいこくさん」になっていたかもしれなかったってところです。つうか、えびす宮総本社が大国主西神社じゃしまりませんからねぇ。

・・・そんな事を考えながら「福よ来い」と今年も願ってきました。