枚野ムック

母校の前身の校名

物凄くローカルな話題なのですが、前に小学校の同窓会があり校史を調べた事がありました。2つほど前身があったのですが問題は、

    枚野台小学校
こう呼ばれた時代があったのが判明しました。「○○台」なんていうとまるで新興住宅地にある小学校みたいですが、元祖的な前身は1903年開校で1954〜1957年の4年間のみ使われた校名です。その枚野台が謎で語感からして地名のはずですが、地元の人間である卒業生が誰も知らない地名だったのです。当然私も初耳の地名です。ずっと気になっていたのですが、最近になってようやく理由がわかりました。播磨風土記美嚢郡より、

吉川里所以號吉川者吉川大刀自神在於此故云吉川里
枚野里因體爲名
高野里因體爲名

ちなみに美嚢郡にはこの3つの里に加えて志深里の4つが紹介されており、無茶苦茶由緒ある地名であった事になります。でなんですが風土記にある4つの里のうち志深は志染と変わって今でも健在で、吉川もまたそうなんですが、枚野と高野はどうやら歴史の中で消滅してしまったようです。まあ高野はひょっとして鷹尾(地元の人間は「たかの(ぉ)」って発音します)の可能性はわずかに残りますが、枚野については完全に消滅しています。余程郷土史について詳しい人が名づけたのか、それとも1950年代ごろはまだ残っていたのかは確認する術もないのは遺憾とさせて頂きます。


飾磨郡の枚野里

美嚢郡の枚野里の地名の由緒は

    因體爲名
読み下すと「體ニ因ッテ名ヲ爲ス」になり、これは地形からそう名付けられたぐらいに解釈して良いかと思っています。実に愛想がないのが残念なんですが、播磨風土記を読んでいると飾磨郡にも枚野里がありました。読みも同じで「ひらぬのさと」です。でもって飾磨郡の枚野里はしっかり由緒が書かれており実に興味深い内容となっています。いや厳密には興味深そうなだけで、私の漢文能力では解釈が少々怪しい部分が多々あるのは御了解下さい。

右称枚野者昔為少野故号枚野所以号新良訓者。昔新羅国人来朝之時宿於此村故号新羅訓。
(右、枚野称するは昔少野を為していた故、枚野と号する所以は新良訓で号したため。昔、新羅国人が来朝の時に此の村に宿した故、新羅訓で号す。)

どうにも拙い読み下しで申し訳ありません。何度も読み直して私が採った大意は、

    枚野と言うのは小さな野を意味する。それを枚野と呼ぶのは新羅語でそう呼ぶから。そうなったのは新羅人の使者がこの村に宿を取った事があるため。
この解釈が合っていれば飾磨郡の枚野里の地形的特徴は当時の日本語では枚野と呼ばなかった事になり、呼ばなかったからこそわざわざ「称枚野者昔為少野故」と断りを入れていると考えられます。その次の新羅訓云々はそういう地形を枚野と名付けた謂れが書いてあると解釈して良いかと思います。そうなった理由は書いてある通りで新羅人の使者が宿を取った事があるからです。真偽はともかく、播磨風土記にはそう書いてあるように読めます。謂れと言うか由緒なので「そうなのか!」でエエようなものですが、そうなると美嚢郡の枚野里の謂れが不可解になります。

風土記は地名の謂れや、それにまつわる伝承を列挙している側面があるのですが、美嚢郡の枚野里の紹介の素っ気なさは少々気になります。美嚢郡の枚野里(つうかその地域)にも古伝承があります。君が峰は神功皇后三韓征伐の時に神功皇后が宿を取ったからの伝承があり、君が峰の西方にはその軍勢が宿営したので宿原となったの伝承があります。もう少し言えば神功皇后が泊まった時に御酒(みき)を献上し、それが所以で三木の名が起こったともされています。そういう伝承が風土記には全く記されていません。これは神功皇后伝承が風土記編纂の後に作られたと解釈して良いのでしょうか。

私の個人的な感想ですが、飾磨郡の枚野里が先に命名され存在しており、後に美嚢郡の枚野里を命名する時に地形が似ているので「外来語でオシャレ」ぐらいで枚野里としたぐらいはあります。つうか風土記の担当者は美嚢郡には来ていなかった可能性も高そうな気がしています。志深里の伝承は古事記とか日本書紀からかき集めて書いたのでしょうが、他の3つの里、とくに枚野や高野は適当に名づけたぐらいの感じです。だから地元に定着せず、時代と共に消え失せてしまったぐらいを想像しています


枚野の地形的特徴

飾磨郡の枚野里には、

新羅訓村。筥岡

こうとも書かれています。筥岡の方の由来は

所以称筥岡者、大汝少日子根命与日女道丘神期会之時、日女道神於丘備食物及筥器等具故号筥丘

飾磨郡の枚野里は筥岡とも呼ばれていたようですが、どうも枚野とは台地の上の事を指すような気がします。日本人的感覚では下から見上げた台地を地名とし、新羅国人は台地の上の様子を地名としたぐらいでしょうか。飾磨郡の枚野里の特定は遺憾ながらまだ出来ていませんが、美嚢郡の枚野里で見ると、

力業かもしれませんが、美嚢郡の枚野里は丘の上の平地である事が確認できます。もっとも三木に新羅国人と言うか半島系渡来人が古代に来ていても不思議ない訳で、そういう人々が枚野と名付けていた可能性は誰も否定できないとは思います。