源平期に戦国期のような小荷駄隊があったかどうかは不明ですが、源平合戦は全国スケールの合戦ですから類似のものはあったと想像します。これは西国の平家よりも東国の源氏が側の方に必要性が高いとも考えれれます。とにもかくにも頼朝率いる源氏軍は、
- 木曽義仲戦のために上洛
- 一の谷の後に範頼主力軍は下向
- 再び範頼軍は上洛し壇ノ浦へ陸路進む
- でもって再び鎌倉へ帰る
■計算の基礎値
データは他に目ぼしい資料もないので戦国期から江戸期のものを参照します。ソースは雑兵物語と前橋藩軍役規定からです。
- 兵の兵糧は水一升、米六合、塩が一勺、味噌が二勺(合計6合3勺と計算します)
- 駄馬は1頭当たり25貫搭載とする(1.5俵計算)
- 駄馬には馬丁(口取り)が1人附く
- 飼葉は1頭当たり1日大豆2升、糠2升
■小荷駄隊モデル試算
1日に1000人の兵を養うには
-
1000(人)× 6.3合(食糧)= 6300合 = 63斗 = 15.7俵 ≒ 16俵
- 馬丁が100人
- その他が10人(監督、護衛任務)
-
110(人)× 6.3合(食糧)= 693合 = 6.93斗 = 1.7325俵 ≒ 1.7俵
■東海道モデル試算
さて鎌倉から京都への所要日数ですが範頼が再び上洛した時には寿永3年8月8日に鎌倉を出発し、8月27日に京都到着となっています。日数にして19日間です。でもって最初の上洛軍が京都に着いた後に源氏軍は何をしたかと言えば
ここまでで16日(1月は小の月)です。この後に範頼がいつ鎌倉に下向したかがはっきりしないのですが吾妻鏡に2月13日 壬申
平氏の首源九郎主六條室町の亭に聚む。
ここまでは京都に居たと思いたいとところです。そうであれば範頼主力軍は22日間の京都滞在だった事になります。計算を簡略化するために
こうします。さらに帰りは国衙の食糧をアテにしたか、次発の小荷駄隊が途中まで兵糧を運んでいたぐらいに想定します。小荷駄隊は京都から折り返しで帰国(おそらく順次帰国のはずですが、計算が煩雑になるので折り返しで試算します)したとし、源氏軍が1万であればまず軍勢分の必要兵糧数は1日で160俵ですから、-
160俵 × 40(日)= 6400俵
-
150俵 − 1.7俵 × 30(日)= 99俵(≒ 100俵)
- 駄馬6400頭
- 馬丁6400人
- その他640人
- 大豆320俵
- 糠320俵
■源氏軍推測試算
上の計算式で源氏軍と小荷駄隊の関係を表にしてみます。端数処理の違いで若干数値が変わっているのは御了解下さい。
源氏軍 | 1日兵糧(俵) | 40日分兵糧(俵) | 小荷駄隊数 | 必要駄馬数 | 小荷駄隊人数 | 軍勢+小荷駄隊 |
10000 | 158 | 6300 | 63 | 6300 | 6930 | 16930 |
9000 | 142 | 5670 | 57 | 5670 | 6237 | 15237 |
8000 | 126 | 5040 | 50 | 5040 | 5544 | 13544 |
7000 | 110 | 4410 | 44 | 4410 | 4851 | 11851 |
6000 | 95 | 3780 | 38 | 3780 | 4158 | 10158 |
5000 | 79 | 3150 | 32 | 3150 | 3465 | 8465 |
4000 | 63 | 2520 | 25 | 2520 | 2772 | 6772 |
3000 | 47 | 1890 | 19 | 1890 | 2079 | 5079 |
2000 | 32 | 1260 | 13 | 1260 | 1386 | 3386 |
1000 | 16 | 630 | 6 | 630 | 693 | 1693 |