兵糧の話からの連想

源平期に戦国期のような小荷駄隊があったかどうかは不明ですが、源平合戦は全国スケールの合戦ですから類似のものはあったと想像します。これは西国の平家よりも東国の源氏が側の方に必要性が高いとも考えれれます。とにもかくにも頼朝率いる源氏軍は、

  1. 木曽義仲戦のために上洛
  2. 一の谷の後に範頼主力軍は下向
  3. 再び範頼軍は上洛し壇ノ浦へ陸路進む
  4. でもって再び鎌倉へ帰る
これだけ東国と西国の間を源氏軍が東海道を往復している訳ですから、小荷駄隊類似のものはあったと想像しています。ただなんですが、源平期の大規模遠征軍の兵糧調達の基本は国衙からの供出だったと考える方が妥当です。それでも源氏軍が大量の兵糧を携えて上洛した可能性が高いのが1回はあります。最初の上洛である木曽義仲戦です。あの時の京都近辺の状況は、
  1. 養和の飢饉の影響で基本的に食糧不足
  2. 平家軍が倶利伽羅峠に向った時に兵糧調達
  3. 平家都落ちの時の兵糧調達
  4. 木曽義仲上洛のよる食糧調達
京都近辺の食糧事情は非常に悪かったと推測されます。また頼朝は義仲の兵糧調達が不評の原因の一つであった事も知っていた形跡があります。ですからかなりの兵糧を持参して上洛した可能性はあると見ています。


計算の基礎値

データは他に目ぼしい資料もないので戦国期から江戸期のものを参照します。ソースは雑兵物語と前橋藩軍役規定からです。

  1. 兵の兵糧は水一升、米六合、塩が一勺、味噌が二勺(合計6合3勺と計算します)
  2. 駄馬は1頭当たり25貫搭載とする(1.5俵計算)
  3. 駄馬には馬丁(口取り)が1人附く
  4. 飼葉は1頭当たり1日大豆2升、糠2升
飼葉はとりあえず置いといて食糧から計算します。


小荷駄隊モデル試算

1日に1000人の兵を養うには

    1000(人)× 6.3合(食糧)= 6300合 = 63斗 = 15.7俵 ≒ 16俵
これだけ必要です。そこでまず100頭の小荷駄隊の輸送能力を考えてみます。100頭の小荷駄隊の編成は、
  1. 馬丁が100人
  2. その他が10人(監督、護衛任務)
こうします。まず100頭の兵糧輸送量ですが150俵になります。ここで小荷駄隊の1日の兵糧消費量ですが、
    110(人)× 6.3合(食糧)= 693合 = 6.93斗 = 1.7325俵 ≒ 1.7俵
100頭の小荷駄隊は150俵の兵糧は運べますが、小荷駄隊も兵糧を食べる訳で計算上は44日で半減します。44日間は長そうですが、帰りの間も飯を食う点が一つのポイントと思います。


東海道モデル試算

さて鎌倉から京都への所要日数ですが範頼が再び上洛した時には寿永3年8月8日に鎌倉を出発し、8月27日に京都到着となっています。日数にして19日間です。でもって最初の上洛軍が京都に着いた後に源氏軍は何をしたかと言えば

ここまでで16日(1月は小の月)です。この後に範頼がいつ鎌倉に下向したかがはっきりしないのですが吾妻鏡

2月13日 壬申

平氏の首源九郎主六條室町の亭に聚む。

ここまでは京都に居たと思いたいとところです。そうであれば範頼主力軍は22日間の京都滞在だった事になります。計算を簡略化するために

  1. 鎌倉から京都までが20日
  2. 京都に20日
こうします。さらに帰りは国衙の食糧をアテにしたか、次発の小荷駄隊が途中まで兵糧を運んでいたぐらいに想定します。小荷駄隊は京都から折り返しで帰国(おそらく順次帰国のはずですが、計算が煩雑になるので折り返しで試算します)したとし、源氏軍が1万であればまず軍勢分の必要兵糧数は1日で160俵ですから、
    160俵 × 40(日)= 6400俵
これだけ必要になります。小荷駄隊ですが往きは20日ですが帰りは10日として30日分の兵糧が必要だったと考えると、100頭部隊が軍勢に提供できる兵糧は、
    150俵 − 1.7俵 × 30(日)= 99俵(≒ 100俵)
こうなります。そうなると必要小荷駄隊数は64個部隊です。64個部隊とは、
  1. 駄馬6400頭
  2. 馬丁6400人
  3. その他640人
小荷駄隊だけで7000人ぐらい必要になりますが、それより駄馬6400頭に幻暈がします。馬の飼葉を規定通り調達すると1日分だけで、
  • 大豆320俵
  • 糠320俵
これ1日分ですからねぇ。路傍の草とかで凌ぐにしても6400頭ですから少々厳しそうな気がします。宇治川から一の谷を戦った源氏遠征軍が1万もいたのだろうかの疑問が出て来ます。


源氏軍推測試算

上の計算式で源氏軍と小荷駄隊の関係を表にしてみます。端数処理の違いで若干数値が変わっているのは御了解下さい。

源氏軍 1日兵糧(俵) 40日分兵糧(俵) 小荷駄隊数 必要駄馬数 小荷駄隊人数 軍勢+小荷駄隊
10000 158 6300 63 6300 6930 16930
9000 142 5670 57 5670 6237 15237
8000 126 5040 50 5040 5544 13544
7000 110 4410 44 4410 4851 11851
6000 95 3780 38 3780 4158 10158
5000 79 3150 32 3150 3465 8465
4000 63 2520 25 2520 2772 6772
3000 47 1890 19 1890 2079 5079
2000 32 1260 13 1260 1386 3386
1000 16 630 6 630 693 1693
源氏軍1万と仮定する時に軍勢+小荷駄隊で1万弱と考えれば、源氏の軍勢は5000人程度じゃなかったかと思ったりします。5000人でも駄馬が3465頭必要で、さらにここには軍馬の飼葉を計算に入れていません。小荷駄隊が5000の源氏軍が軍馬の飼葉をもし運んでいたら、どれぐらいの必要量があったかを試算すると馬に乗るのは武者ですから、全体の1割が騎馬武者とすると500頭分が最低必要です。ここに替え馬分も必要ですが、500頭なら1000俵、替え馬も含めて1000頭なら2000俵です。2000俵の飼葉を運ぶには小荷駄隊が13個いや、小荷駄隊の食糧も必要ですから14個部隊ぐらいが必要になります。 5000人計算の人用の小荷駄隊が32個ですから合わせると46個部隊。4600頭の駄馬がやはり必要になります。う〜ん、源氏軍5000人を京都に送り込むだけでもやはり大変だ。そうなると3000人ぐらいだったかもしれませんねぇ。