頼朝の富士川・ダメ押しのおさらい

お盆休みは富士川の合戦ばかりやっていたので、次のテーマに動きにくくなってしまったので、なるべく手際よく「おさらい」を付けくわえてみたいと思います。


富士川の合戦の特異性

史上でも有名な合戦は幾つもあります。たとえば源平合戦なら一の谷もありますし、戦国時代なら桶狭間とか、川中島とかです。ただどれも実相が判然としないところがあります。根拠資料があっても基本的に勝者の記録しかないところです。平家物語も基本的に勝者の記録です。まあ、敗者は滅びてしまう事が多いので、そうは簡単に敗者の記録が残らないと言えばそれまでです。ところが富士川は勝者だけではなく敗者の記録も残されています。

吾妻鏡鎌倉幕府の公式記録として良く、玉葉は私的な記録ながら源平のどちら寄りでもない第三者の記録です。こうやって両面から合戦の記録が残されているのは結構レア・ケースだと感じた次第です。吾妻鏡の記録のうち日付は信用しても良いと見ています。つまりは移動記録です。そんなところに嘘を交えてもしょうがないでしょう。玉葉は敗将である維盛の釈明を九条兼実が書き留めたものとして良いかと思います。これも移動記録は信用しても良いかと思います。残りの記述はケース・バイ・ケースで判断するぐらいです。


移動記録

吾妻鏡玉葉から移動記録をプロットした地図を見てもらいます。

注釈ですが平家軍の移動記録のうち10/17の蒲原駅は推測です。これは10/16が高橋宿、10/18には富士川に陣を構えたとなっていますから、必然的に10/17は蒲原に泊まったとして良いと思います。この点について異論は少ないと思います。頼朝軍の進路のうち賀島は私の説では完全に不明です。それと頼朝軍が足柄路を通ったか、箱根路を通ったかの根拠は吾妻鏡

10月18日 丁酉

大庭の三郎景親平家の陣に加わんが為、一千騎を伴い発向せんと欲するの処、前の武衛二十万騎の精兵を引率し、足柄を越え給うの間

足柄路と明記されています。後は日付の青色表示は富士川で平家が退却した10/20以降のものです。帰路の記録は吾妻鏡にはありませんが、来た道を帰るとするのが一つと、箱根路を通れば箱根権現の参拝記録があるだろうぐらいの判断です。

武田軍は10/14の鉢田合戦の後の記録は残されていません。玉葉に平家軍が10/18に富士川に陣を構えたとなっていますが、陣を構えたのは対岸に源氏軍がいたからになります。いなけりゃ富士川を渡るでしょう。源氏軍のうち頼朝軍は10/18どころか10/19時点でも吾妻鏡では黄瀬川にいますから、頼朝軍は物理的に存在不可能です。いるとすれば消去法で武田軍になります。武田軍が10/18に着陣したかどうかは不明ですが、少なくとも10/18に平家軍が来るまでに到着していた事は確実と判断しています。


頼朝軍の移動記録の異様さ

あくまでも現在地図での距離概算ですが、

  • 鎌倉 → 黄瀬川:約95km
  • 黄瀬川 → 相模国府:約80km
現代人の基準で1日の歩行距離を考えたらいけませんが、それにしても結構な距離です。距離尺度に里と言う単位がありますが、あれは当時の普通の人が1日で歩ける距離を十分割していたの説があります。1里が4km弱に定められたのは江戸期ですが10里(= 40km弱)が当時の一般人の1日の歩行距離の目安です。これはいかなる条件でも1日に10里歩けると言う意味ではなく、当然ですが山道では短くなり、平地なら長くなります。足柄路は箱根路より緩やかではありますが、それでも1日に10里ぐらいを歩くのは相当大変だと思います。

それと江戸期の東海道の旅は夜は旅籠なりに泊まります。しかし富士川の時代では自炊になるはずです。さらにがあって夜道は基本的に避けます。強行しても昼間より移動速度は落ちます。治承4年10月20日新暦なら11月9日です。つまり日も短いって事です。それでも頼朝軍の往きはなんとか理解可能です。吾妻鏡より、

治承四年十月十八日

晩に及び黄瀬河に着御す。

夜までかかって漸くたどり着いたってところでしょうか。当時であっても相当な強行軍としか思えませんが、一の谷の時に義経軍は三草山まで延慶本平家物語には、

九郎義経は、あかぢのにしきのひたたれに、きにかへしたるよろひきて、さびつきげなる馬の、ふとく尾がみあくまでたくましきが、名をばあまぐもといふにぞのりたりける。とうごくだいいちのめいばなり。ふつかぢをひとひにぞうちたりける

京都から三草山まで約80kmを1日で駆け抜けたとなっており、これも前に散々検証しましたが、そうでなくては義経は一の谷の合戦に間に合わないので実話の可能性はあります。ですから10/16に鎌倉を出て10/18に黄瀬川に到着するのは可能ぐらいの見方です。問題は復路で、10/21は義経の面会や、三島神社参拝を行っています。では10/22は何をしていたかですが、

10月22日 辛丑

飯田の五郎家能、平氏の家人伊藤武者次郎の首を持参す。合戦の次第並びに子息太郎討ち死にの由を申す。昨日御神拝の事に依って、故に不参の由と。武衛家義に感じ仰せられて云く、本朝無双の勇士なり。石橋に於いて景親に相伴いながら、景親に戦い遁し奉るか。今またこの勲功を竭す。末代此の如き類有るべからずてえり。諸人異心無しと。

これがどこで行われたかですが、カギになりそうなのは、

    昨日御神拝の事に依って、故に不参の由と
「昨日御神拝」とは三島神社参拝と考えて良く、三島神社に出かけていたから昨日は「不参」だったと受け取れない事はありません。つまり10/22は頼朝が黄瀬川に戻ってきたので報告に来れたぐらいの解釈です。そうなると10/22も頼朝は黄瀬川に居たとしたいところですが、

10月23日 壬寅

相模の国府に着き給う。始めて勲功の賞を行わる。

あくまでも常識的なお話になります。相模国府で論功褒賞を行ったのはわかりますが、この論功褒賞は猛烈に急ぐものでは無いと考えます。何が言いたいかですが、相模国府に夜中に到着してやらんだろうと言う事です。やるならせめて日があるうちにやるんじゃなかろうかです。ここで、もし10/22も頼朝が黄瀬川にいたら相模国府まで約80kmぐらいを昼間の内に駆け抜けた事になります。幾らなんでも無理がある気がします。ほいじゃ10/22に黄瀬川から帰路についていたら、今度は飯田の五郎家能はどうやって追いついたんだろうの疑問が出て来るところです。


問題の10/20の賀島もそうで

10月20日 己亥

武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。・・・(中略)・・・而るに半更に及び

賀島がたとえば平家越史跡あたりならば、黄瀬川から約30kmです。さらにその日は賀島に確実に宿泊しています。そいでもって翌日は義経との面会はともかく、三島神社参拝までやっています。そこそこでも軍勢を引き連れての行軍で1日30kmは相当なものと思います。だから賀島は富士川に近いところではなく、黄瀬川に近いところと私は判断しています。


頼朝の真の意図は

頼朝の移動記録で滞在日が長いのは言うまでもなく黄瀬川です。そこを拠点に何かしようと考えていたとするのが自然です。平家物語は頼朝が対平家戦のために出陣したのストーリーを取っていますが、それならば黄瀬川は単なる通過点に過ぎないはずです。頼朝軍の行軍速度なら10/19中に平家越史跡まで到着してもおかしくないってところです。ところが黄瀬川まで猛烈なペースで進んだ後は動きが鈍くなります。これは最初から黄瀬川から西に進む意図がなかっためじゃないかと考えます。

吾妻鏡では10/13に平家軍が手越駅に到着した情報に基づいて鎌倉を出陣したとなっています。10/13の情報が10/16に鎌倉に届いてもおかしくはないのですが、頼朝は別の情報に基づいて駿河侵入を決めた気がしています。頼朝の当時の課題は西相模に残っている親平家勢力である波多野氏・大庭氏の掃討です。これが残っていたのは、日数の問題(頼朝が鎌倉に入ったのは10/6)もあるでしょうが、駿河からの援軍が来る懸念を抱いていたからと見ています。平家軍は吾妻鏡でも玉葉でも、

  • 維盛率いる本隊
  • 駿河
こうなっていますが、駿河勢は駿府にまず集結したの理解で良い気がします。でもって本隊に先行して進んでいたです。吾妻鏡にある

また今日駿河の国に進発せしめ給う。平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。

これは維盛の本隊ではなく、先行する駿河勢であった可能性は十分あると見ます。ここでポイントですが、この駿河勢は相模に向う訳ではなく甲斐に攻め寄せるの情報も入手していた可能性です。つまりは、

  • 西相模の波多野氏、大庭氏に駿河からの援軍は来ない
  • 今なら駿河に侵入しても安全だ
この判断に従ってまず波多野氏・大庭氏を粉砕し、黄瀬川まで大急ぎで進出です。黄瀬川に進出した目的は
    伊豆征服
舅の時政の所領奪還もあるでしょうが、南伊豆の親平家勢力である伊東祐親の制圧が真の狙いであったと見ます。伊藤祐親も頼朝の相模での復活を知っていたでしょうし、その手が伸びるのも十分予期していたと思います。また祐親が頼りにしていたのは駿河勢と維盛の遠征軍であったとしても自然です。黄瀬川にわざわざ頼朝が急行したのは伊東祐親の退路を断つためではないだろうかです。

10月19日 戊戌

伊東の次郎祐親法師、小松羽林に属かんが為、船を伊豆の国鯉名の泊に浮べ、海上を廻らんと擬すの間、天野の籐内遠景窺かにこれを得て、生虜らしむ。今日相具し黄瀬河の御旅亭に参る。

頼朝が黄瀬川に着いたのは10/18夜ですが、10/19朝から頼朝軍は北伊豆に侵入していたと私は見ます。北伊豆は石橋山で頼朝が敗れた後は伊東祐親の支配下に置かれていた可能性が高いからです。この動きに祐親は伊豆での抵抗が難しいと判断し、舟での脱出を試みたと見ますが、残念ながら見つかり生捕りにされてしまったぐらいです。そう考えると祐親が頼朝の前に引き出されたのは10/19の午後以降の可能性が高い事になります。

つうか「鯉名の泊」とは南伊豆町湊、つまり伊豆半島の南端に近いところですから、そんなところから黄瀬川の頼朝のところに連れて行くだけでも1日仕事になります・・・と思ったのですがよく読まないといけません。吾妻鏡の表現が微妙で「海上を廻らんと擬すの間、天野の籐内遠景窺かにこれを得て」と書いてあるのは、海に出ようとしているところを捕まえたようにも読めます。それとも天野で海にいた祐親を捕まえたのでしょうか。結構な差で、

鯉名の泊なんかで捕まえたら黄瀬川まで1日で到着するかどうも疑問です。つうか天野に住んでいるはずの籐内遠景が「なんで」鯉名の泊にいるんだ的な話になります。一方で天野で捕まえるためには海岸に出る必要があり、これまた「なんで」そんなところにいたんだになります。天野の近くの海岸で捕まえたのなら黄瀬川まで10kmぐらいですから、3時間もあれば着くでしょうか。どっちにしても10/19の頼朝は黄瀬川にいざるを得ません。

そこはこれぐらいにして、これを平家軍との決戦のために後方の不安を断つ戦略であったと解釈できなくもありませんが、富士川の合戦後の頼朝軍の動きが不可解です。上述したように疾風のように相模国に舞い戻っています。これには2つの理由を考えます。

  1. 目的の伊東祐親を制圧できた
  2. 武田軍の動向への懸念
1.は単純で目的を達成したので再び相模の地盤固めに舞い戻ったとの見方です。これだけと見ても良いのですが、2.の理由も付加された可能性はあると思っています。富士川で勝った武田軍が平家軍を追って西に進むのか、それとも東の頼朝駆逐を考えるのかです。武田軍を考えると、富士川の勝利を次に活かしたいはずです。ごく簡単にはまず駿河を制圧したいの思惑です。駿河制圧のためには西に進む必要がありますが、その時に目障りなのが黄瀬川にいる頼朝軍になります。本当に武田軍がそう考えたかどうかはどこにも資料がありませんが、頼朝は自分の黄瀬川での存在が
    武田軍にそう思われている
こう判断した可能性はあると思っています。そうなると武田軍の戦術を頼朝は想像したかもしれません。素直に東海道を東に進んで来る可能性もありますが、もう一つ十里木道から御殿場方面に進出し頼朝軍の退路を断つ、もしくは挟み撃ちにする戦術です。この時点で武田軍と駿河争奪戦をやるのは得策でないと判断し、主目的であった伊豆征服の果実を手に相模に早々に脱出したぐらいを考えています。


賀島

比定に難儀させられた10/20の賀島ですが、

10月20日 己亥

武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。

こう書かれていますから、素直に読めば賀島は富士川東岸に比定されます。ここもずっと考えていたのですが、本当に頼朝は賀島なる地名の場所に移動したんでしょうか。それ以前に賀島なる地名の地域はあったんでしょうか。これは吾妻鏡の編集者の創作の気がしています。創作意図としては頼朝が

このために挿入した可能性です。吾妻鏡編集者にしたら、実際に記録を書いてみたら
月日 吾妻鏡記録 解釈 頼朝のいた場所
10/16 鎌倉出陣 たぶん幕府の公式記録にあった 鎌倉
10/17 松田 これも公式記録にあり 松田
10/18 黄瀬川着陣 これも公式記録にあり 黄瀬川
10/19 伊東祐親捕縛 捕縛されたのは鯉名の泊 or 天野から黄瀬川まで連行している 黄瀬川
10/20 平家軍退却 これも公式記録にあり 賀島
10/21 義経面会、三島神社参拝 これも公式記録にあり 黄瀬川
肝心の10/20前後は頼朝が黄瀬川にいないと困る記録ばかりが目白押しってなところです。残された選択は、
    頼朝は合戦に参加するために富士川にトンボ返りを行った
こうせざるを得なくなったぐらいです。でも冷静に考えると頼朝が10/20〜10/21に合戦参加のための強行軍を行ったと考えるより、ずっと黄瀬川に居た方が合理的です。それこそ
  • 10/20:祐親捕縛で伊豆征服に目途がついたので、ささやかでも戦勝祝いの酒宴
  • 10/21:戦勝に感謝して三島神社に参拝
この辺が実相で、だから「賀」島って書いたんじゃないかと想像しています。傍証としては吾妻鏡には玉葉の引用が多いのですが、富士川の合戦場面の引用は行っていない点を挙げておきたいと思います。


もう少しだけ。吾妻鏡の引用と言えば平家物語も引用されています。吾妻鏡の頼朝部分が書かれた時期がわからないのですが、それなりに年代が下れば編集者も富士川の合戦の真相は知らなかった可能性もあります。そう平家物語で頼朝が参加して勝ったはずだの先入観です。私も他人のことを言えません。一方で記録を書き始めると肝心の10/20前後は黄瀬川での活動記録がずらりと並び、

    どうやって頼朝は富士川に参戦したんだ???
こう思ったのかもしれません。