源平時代の戦法 つづき

乗馬を射ない常識

wikipedia

  • 馬を射殺しないといった大前提に、鎧の重量が重くなり、堅固となっていった。
  • 源平盛衰記』の老兵の昔を振り返るセリフの中にあり、昔は馬を射て落としたところを討ち取る戦法がなかったと語っている。

これは強化された(重くなった)大鎧を着装しての騎射戦法に特化していった理由となっています。たしかにそうで、馬を射るもしくは下人なりが薙刀とかで馬を襲う戦法が常識であれば、騎射特化などしていれば馬から下りた後が大変になります。馬を襲う戦法が広まった事で徒歩戦の可能性が重視されるようになり、それに伴って大鎧からより軽量で軽快に動ける胴丸系の鎧に変化していったとする説明も筋が通ります。では何故に馬を襲わない常識が出来上がったのだろうかです。

当時の合戦(もっと時代が下っても)の目的の一つに功名手柄を立てて褒賞を貰うと言うのがあります。また軍団の構成はいくら規模が大きくなっても、基本は領主が自領から引き連れて来た騎単位の小隊同士の戦いになります。領主プラス下人部隊同士が戦うぐらいです。その時に騎射で相手を撃ち落としたとします。戦国期なら下人ならぬ配下の家臣が寄って集って首を挙げますが、源平期ないしそれ以前はそうではなかった様な気配があります。射落とした武者も自分が馬から下りて止めを刺し、自分で首を挙げるってところでしょうか。だから一騎打ちが基本と言われていたんじゃなかろうかです。

それでも馬を射る戦法は有効そうに思いますが、馬を射ても一撃で馬を仕留めるのは容易ではないと思います。いくら日本の馬でも、矢一本で即死はそうは多くないだろうです。馬には馬鎧こそ着せていませんが、鞍とか付属品もあって、致命傷になるところにピンポイントで当たるとは限らないからです。たとえば殿部に刺さったぐらいでは馬は死なず、その運動能力も大きくは変わらない可能性があります。それにより中途半端に傷を与ええると、馬は驚いて暴走します。

暴走した時に武者が落馬してくれれば良いですが、そのまま馬と共に相手の武者も遠くに行ってしまう可能性もあります。そうなっても構わないようなものですが、合戦に参加する目的が恩賞首なら見方が少し変わります。合戦全体の戦略的価値から見れば討ち取るのと蹴散らすとの差はそれほど大きくないと思います。しかし武者にとっては恩賞の有無に直結する問題になります。馬を射て追い散らしても恩賞は無いと思います。討ち取って首を持って帰って初めて恩賞が与えられるぐらいでしょうか。つまり

    馬を射れば恩賞首に逃げられてしまうリスクがある
だから馬を射ることは控えられた可能性があります。これは武者を討ち取れば恩賞に与れると言っても、武者の首にも当然ランクがあります。当時の合戦は基本的に乱戦ですから、そこで上手い具合に恩賞首に巡り合うかどうかは運次第です。やっと巡りあえたランクの高い恩賞首を馬を射て逃げられてしまったら「もったいない」てなところでしょうか。


では馬を射る戦法が広まった理由ですが、武者と言っても鎮西八郎為朝とか、悪源太義平とか、熊谷次郎直実とか、平山武者所季重とか、梶原源太景季とか、佐々木高綱みたいな一騎当千の勇者ばかりではありません。小兵で非力な武者も当然いる訳です。小兵で非力となると、

  1. 鎧は軽いものになる(防御力に劣る)
  2. 強弓は使えない(攻撃力に劣る)
  3. 組打ちになったら勝ち目はない(体格、体力に劣る)
とは言え陣触れに応じない訳にはいきませんし、合戦に参加しないわけにもいきません。彼らが合戦で生き残るためには、馬を射て相手を追い散らす、また落馬したら一騎打ちではなく下人が寄って集って仕留める現実的な戦法を使いだしたと考えています。義経が壇ノ浦で漕ぎ手の射殺を命じたのは、小柄な義経の戦法が「馬を射る」であったからかもしれません。馬を射る戦法は12世紀に広まりだしたとされていますが、源平期には勇者の誉れを得たい者は馬を射る事を避け、そうでない現実主義者は馬を射ていたぐらいの状態を考えます。


矢戦

当時の合戦手順は矢合わせがまずあり、それから矢戦があり、そこから突撃ってな手順ですが、源平合戦では抜け駆け先陣争いがあって乱戦に雪崩込んだ様相が多いようです。それはともかく本来は、まず矢合わせを行います。矢合わせとはお互いの御大将(ないし弓の上手の勇者)が大鏑矢を一本ずつ撃ち合うものとされています。その音に合わせて双方が鯨波をあげるぐらいでしょうか。もちろん矢を射る前には大音声での自己紹介と、相手への罵声を浴びせるぐらいです。そこは良いのですが次にあったとされる矢戦です。これは誰が射ったのかが問題です。武者は騎射特化ですから弓は当然持っています。では下人はどうかです。JSJ様から、

>下人の弓隊はあったのだろうか
絵巻物をいくつか検索してみました。
平治物語絵巻ー三条殿焼打巻 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287476?tocOpened=1
の冒頭部分に胴丸を着し弓矢を帯した兵が一名描かれているのを見つけました。
これだけだと、絵巻の成立が13世紀後半とされていますので、平安末期の軍装ではなく鎌倉後期の軍装を描いている可能性は否定できませんが。

私も探してみました。絵は躍動的で良く描けているのですが、登場人物(と言うより騎馬武者が多くて)「弓を持つ下人」を確実に特定するのは難儀しましたが私もとりあえず2人見つけました。

これが絶対的な証拠にならないのはJSJ様の御指摘通りでwikipediaには、

平治物語』については、成立・作者に関しては、確かな資料は多くない。ただし、成立に関していえば、第1類本である学習院大学図書館蔵本が源頼朝の死(正治元年・1199)に関する記事を含んでいるので、これ以降であることは確実。この頼朝の死を含まない本文もあるが、永積安明の説によって、第1類本がもっとも古態本文であることがほぼ承認されている。また、石井行雄によって『春華秋月抄草』(宗性作)の寛元4年(1246)の執筆箇所に、物語古態本の断片が存在することが確認されており、少なくともこの年以前には成立していたと目される。これは絵巻である『平治物語絵詞』の書風を、藤原教家の晩年、建長年間(1249-1255)のものであると認定した松原茂の説とも合致しており、以上の説によれば13世紀半ばには成立していたという点は動かないと思われる。

平治の乱が1160年ですから、おおよそ100年弱ぐらい後に描かれていた事になります。現在ですらそうですが、時代考証と言うのは難しいもので、当時は尚更だったと思います。作者は当たり前ですが平治物語絵巻を描いた時期の武者の様子を参考にしているはずです。つまりは描かれているのは源平期から100年後の鎌倉期の武者姿になります。問題は100年程でどれほどの変化があったかどうかです。これが判らないとして良いかと思います。承久の乱ぐらいを最後にして鎌倉幕府は安定期に入りますからあんまり変わっていないの見方も可能ですし、源平合戦を契機にかなり変わった部分があると見るのも一つです。

平治物語絵巻が描かれたのと近い時代の有名な絵巻物として思いつくものとして蒙古襲来絵詞があります。これが全編公開されているわけでないようですが、それでも幾つか画像は拾えます。ほいで下人の姿を探したのですが、私では3人しか見つけられませんでした。wikipediaより、

左は文永の役と考えられるもので旗指物持って走る下人です。右は弘安の役博多湾に築かれた石垣の前を歩く下人の姿で、一人は熊手、もう一人は薙刀を持っているのがわかります。他に船のシーンもあるのですが、人が密集していて誰が弓を持っているのか、誰が下人で武者なのか判然としなかったので割愛させて頂いています。


まあ弓を持つ下人がいても不思議はないのですが、たとえば戦国期の弓隊とはかなり様相が異なると思っています。戦国期には足軽部隊が成立しており、独立した槍隊、鉄砲隊、弓隊がいます。一方で源平期もしくはそれ以前では下人と言っても騎と言う小隊(直属部隊)の中で、たまたま弓が上手い奴がいたら弓を持たせていたぐらいの気がします。小隊規模は領主の領土の大きさによりますが、平均すれば10人前後じゃないかと推測しており、100人もいればかなりの規模の領主って感じです。とはいえ、戦国期の足軽の様に弓の訓練に専念している訳ではありませんから、農民と言うより猟師をスカウトして連れて行ったぐらいは想像の範囲です。弓もまた修練が必要な武器ですからねぇ。

これは憶測に過ぎませんが、騎射特化の武者たちにとって弓矢は別格の武器として扱われた可能性はないだろうかと思ったりしています。そういう武器は武者の専売特許で下人には余り持たせたがらなかったぐらいはどうだろうです。画像資料は多いとは言えませんからムックはこの程度が限界の様です。


為朝の矢

平治物語は悪源太義平の武勇を、保元物語では鎮西八郎為朝の武勇を称えた物語とされます。この為朝の矢の物凄さは保元物語でも活写されています。物語には誇張もあるとは思いますが、やはり絶大な威力があったと思っています。とりあえず小勢の崇徳側は昼間の後白河側の攻撃を凌いでいるからです。これを騎射と言うか、矢戦の観点から見ると少し面白味が出ます。

崇徳側は建物の中におり、門の屋根なり、塀によじ登って弓矢を射ていたと想像します。つまりは打ち下ろしの射撃です。寄せ手は逆になり不利です。また守る方は矢の補給に融通が利きます。携行している矢に限定される寄せ手より有利です。為朝の矢は大鎧を貫く威力を見せていますが、為朝が射殺した武者は「マイナス・イチ」ではありません。武者が率いていた下人も戦場から逃げ散ってしまうと言う事です。10騎程度でも射殺されれば、100人ぐらいは寄せ手の兵力が減少してしまいす。20騎なら200人以上になります。

寄せ手は為朝を射殺したいところですが、射ち上げの不利と、強弓の差による有効射程距離の差に苦しむ事になります。為朝は相手の有効射程距離外から射てきます。さらに有利な条件として、為朝は騎射でない点も挙げても良いかもしれません。まあ徒歩で射ると大鎧の重量が肩にかかって来るのでその点は不利ですが、馬上でない分だけ狙いの精度はあがると考えられます。たとえは悪いですが、為朝がライフルでじゃんすか撃ってくるのに対して、後白河側は馬上からピストルで応戦している状態であったぐらいを想像します。為朝が門の屋根の上で頑張れば、わざわざ射殺されにいくのは寄せ手も躊躇われたのが昼間の合戦の様相であった気がします。

それとなんですが、当時の騎馬武者は城攻めは難しかった気がしています。城攻めの基本は、

  1. 掛け矢なりで門を打ち壊して侵入する
  2. 塀なりをよじ登って侵入する
戦国期になれば2.の手法がよく用いられていますが、大鎧の武者では難しかったぐらいです。城攻めの基本は徒歩戦ですから、徒歩戦を想定していない武者には相当無理があったんじゃなかろうかです。そうなれば下人が主力になりますが、これまた戦国期の様な足軽制度がありませんから、殺傷率が高い手法は嫌がったぐらいです。そういうシチュエーションで為朝の矢は絶大なる威力を発揮し、保元物語に書き残されたぐらいを思っています。