源平時代の戦法

騎の復習

源平時代の武者とは領主の事を指します。この領主が領内から調達した兵を率いて来るのが軍の単位(いわゆる騎単位)になります。ほいではどれぐらいの兵を率いる事が出来たかです。知っているのは3ヶ所だけで相模最大の荘園とされた大庭御厨で100町ぐらい、下野の足利荘が立券された時に200町、無茶苦茶ローカルで申し訳ありませんが故郷に近い久留美庄が90町ぐらいだっとされます。面積で言うとピンと来ないので石単位に換算してみます。

1町は10反で1反からは1石の米がとれます・・・と言いたいところですが、これは延喜式でも上田での事です。中田や下田、さらに下下田になるとそんなに取れません。延喜式の計算は前にやりましたが、七分法で計算すると4斗/反ぐらいになります。平安末期になっていますから、もう少し生産効率が上がっているとしても5〜6斗/反ぐらいの可能性もあります。また荘園もすべてが田であった訳でなく畠も含みますから、ここは大雑把に5斗/反ぐらいと考えます。そうなると1町で5石、100町で500石です。

領主の規模は100石〜1000石程度までの規模が多かったと見て良い気がします。そうであれば100石なら2〜3人、1000石でも20〜30人ぐらいでも過剰な見積もりになりそうです。平均すれば軍団の最低単位の騎は10人前後ぐらいとここはしておきます。当時の関東でも万石を越える所領をもつ領主なんてどれほどいたかってところでしょうか。

この騎も単独での参加もあるでしょうが、寄親に従っての参加もあったと思います。ここも単純化すると

  1. 騎は小隊
  2. 騎が寄親の下に集まった部隊が中隊
  3. 寄親が大寄親とも言える武家の棟梁の下に集まり、棟梁の命令により寄親部隊が出来れば大隊
こんな感じが源平軍の構成だと考えています。


騎射重視

古代の軍団は軽装歩兵が主力でしたが、装備される武器は大刀と弓矢でした。大刀については延喜式にそう書いてあるので「あった」としか言いようがないのですが、主武器は弓矢であったとして良さそうな気がします。さらに騎馬部隊の編成にも努力した形跡がありますが、ここも騎射を主武器にした「らしい」となっています。この影響がどれぐらいあったか不明なんですが、源平期の主武器も騎射です。弓の上手は遥か戦国期になっても武士の優秀さを喩える表現として残り「○○一の弓取り」なんて使われ方をしています。

騎射戦重視と言う事になれば、お互いが射程距離に入りながら矢を撃ち合う事にはなるのですが、当然の事ながら矢に対する防御を考えます。鎧の発達です。鎧の防御力が高まれば有効射程距離が変わって来ます。極端な例で言えば、鎧ありと鎧なしで戦った時に双方が相撃ち状態になっても、鎧のある方が生き残る確率が高くなります。源平時代は大鎧と言われる華麗な鎧が出現しますが、防御力を高めるためにドンドン重量化します。戦国期の鎧は徒歩戦も重視されて10kg未満になったとされますが、源平期の大鎧は20から30kgに達したとなっています。米半俵ぐらいの重さです。

騎射戦重視とそれによる鎧の重量化は源平武者の戦法を騎射戦に特化させていたように思われます。そんな重い鎧を着こんで俊敏に戦場を駆け回るなんて無理ですから、あくまでも馬に乗って戦うのが戦法が基本みたいなところです。ですから騎乗術も重要で、自分の思うところに馬を走らす事が出来ないと戦闘に置いて不利になります。これも具体的には弓を左手に持ちますから、相手の右側に回り込む方が有利になります。左後方あたりに回り込むのが騎射戦では一番有利な体勢じゃないかと想像します。そういう風に馬を巧みに操作する技術が合戦には必要ぐらいです。

でもって有効射程距離がどれぐらいだったかですが、流鏑馬が参考になりそうな気がします。流鏑馬も統一基準がある訳でありませんが、おおよそ5mぐらいのところに的があります。あの距離はそれぐらい近づいて射らないと鎧を貫通できなかったためではないかと考えます。もちろん強弓を駆使できれば有効射程距離が長くなって有利である事は言うまでもありません。相手の矢は貫けず、自分の矢は貫く事が出来ますからね。

そこまで騎射重視であるなら武者の足とも言える馬を射たら良いじゃないかの発想は出て来ます。西洋の騎士の馬はその点にも対策を施し、馬にまで鎧を着せていますが、日本では私は見た事がありません。まあ日本の馬に大鎧を着こんだ武者を乗せた上で馬鎧なんて着せたら「そもそも」動けなくなるの意見もありますがwikipediaより、

馬を射殺しないといった大前提に、鎧の重量が重くなり、堅固となっていった。

馬を射る戦法が広がったのは12世紀になってから「らしい」です。治承・寿永の乱が1180年から1185年ですから、ちょうど過渡期であったぐらいに思われます。馬を射る戦法の普及につれて馬から下りた後の徒歩戦が重視され、超重量級の大鎧の軽量化が進んでいったぐらいの理解で良いようです。少し脱線しますが、壇ノ浦で義経が漕ぎ手を射る下知を行った事に議論はあります。これは「どうやら」従来は漕ぎ手は馬同様に「射殺しない」の常識があり、一方で新戦法として「射殺するのもアリ」が広がっていたためと思ったりしています。まあ源平合戦時には

    馬を射る手はあるが、あまり誉められた戦法ではない
これぐらいであった気がしています。いずれにしても延喜式の駄馬で1頭につき3俵(≒ 56kg)ですから、20kg以上の大鎧を着、弓矢や太刀を携えた武者を乗せた馬が時代劇の様に疾走していたとは思いにくいところです。人が走る程度の速度がせいぜいで、本当の意味での足代わりであったと推測しています。もう少し言えば馬から落ちたら亀になるぐらいでしょうか。


歩兵

騎射重視と言っても馬に乗れるのは領主、家の子、郎党までになります。武者が乗り回すのに耐えられる馬や大鎧の調達維持はカネがかかりますから、騎(小隊)の中に零細領主なら領主のみ、中小領主でも数人ってところの気がします。人数として多いのは歩兵で良いと思われます。この時代なら下人と呼ばれていた兵です。歩兵の武装は古代軍団では鎧なしでしたが、源平時代は胴丸ぐらいは着せていたようです。下人は同時に農民であり、基幹産業である農業の貴重な働き手ですから、最低限の防御を施す発想が出ていたようです。

この兵の鎧ですが、基本は胴体周りだけの防御だったようです。今であえて喩えると剣道の胴の部分だけの鎧です。兜もあったらしいですが、全員が標準装備までは無理だったようで、どちらかと言うと兜無しの方が多かったとして良さそうです。そうなったのは下人全員に重防御を施すほどの予算がなかったのが大きいと思いますが、案外その程度で必要にして十分の部分があった気もしています。

合戦に武士が参加する目的の一つに功名手柄あげて褒賞をもらうと言うのはありますが、おそらく下人を何人殺しても大した手柄にならなかった気がします。倒して価値があるのは武者だけです。それと主武器の騎射ですが、当然のように数に限りがあります。どれぐらいかですが平治物語には、

井澤四郎宣景は廿四さしたる矢をもて今朝の矢合よりして敵十八騎射落ゑひらに矢六のこりたりける

この程度であった事がわかります。平治物語の井澤四郎宣景は一射必中の凄い戦果を挙げていますが、当然ですが全員がそうとはいかず、狙っても外れる事も多々あったと見ています。つまり、そうそうは下人相手に矢を向けなかったぐらいの見方です。どっちかと言うと外れ矢・流れ矢対策での防御であった可能性です。では下人同士はどうであったかですが、基本的に戦意は高くなかった気がしています。もちろん温度差はあったでしょうが、下人同士で殺し合いをしてもお互いのメリットは高くないぐらいの見方です。下人もまた標的は武者であったとしても良い気がします。武者なら領主からの御褒美は期待できると思います。もちろん領主を守るというのもあったと思います。

こういう想像をする根拠の一つに下人用の武器があります。源平期には古代の矛は衰え(槍となって復活するのは南北朝期のようです)、まず薙刀の全盛期だったようです。ただ下人全員が薙刀を標準装備していたかどうかは疑問で、熊手とか薙鎌も多かったと見ています。いずれも長柄武器です。ここでとりあえず薙刀ですが、もし下人同士の戦いが頻発していたら、すね当ては絶対必要です。薙刀の基本手法の一つに足元を薙ぐのは当時もあったはずです。素足のままでは足ごと切断されかねません。そういう事もあったかもしれませんが、むしろ少なかったと見ています。

下人が長柄武器を装備していたのは騎乗の武者を襲うためではないかと見ています。日本馬は小さいとはいえ、馬上の武者に刀で切りつけても届きにくいといったところでしょうか。そこで刀の柄を長くした薙刀で切りかかるって感じです。熊手とか薙鎌はもっと泥臭くて、それこそ騎馬武者を馬上から引きずり下ろすために使っていたぐらいです。もっともなんですがwikipeiaより、

源平盛衰記』の老兵の昔を振り返るセリフの中にあり、昔は馬を射て落としたところを討ち取る戦法がなかったと語っている。

下人の主たる役割は、主人の近くに相手の武者を近づけないようにするのが、もともとだったのかもしれません。いや荷物持ち(含む領主の身の回りの世話)がメインの可能性もあります。足軽が主要兵科になるのは応仁の乱以降ですからねぇ。