平治の乱の合戦模様

比定したい場所

平治の乱の合戦に出てくる地名は

このあたりになります。陽明門、待賢門、郁芳門、六条河原は特定はほぼ比定可能ですが、残りとくに東三条院は恥ずかしながら私も知りませんでした。まず順番に比定してみます。


六波羅館についてはwikipedia

六波羅館と呼ばれる邸宅群の範囲は時代により異なるが、伊勢平氏が繁栄を謳歌した最盛期には、北側が平安京の五条大路を東に延長した通り(現在の松原通)、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと考えられている。南北はおよそ500メートル、東西はおよそ600メートル

東京極大路の東側を鴨川が流れていますが、それを渡ったあたりとして良さそうです。五条大路と六条大路の間隔は1920丈ですからおおよそ574mになりますから、そのあたりに六波羅館があったとしてよさそうです。大きさの実感が難しいかもしれませんが、平安京の碁盤の目の一つ(1町)は40丈四方で約4400坪ぐらいになります。下記に地図を示していますが、1町は小さそうに見えますが、1町だけでも相当広いと言う事です。

ちなみに平家はもう一つ大きな邸を持っています。東寺の北側に西八条第と呼ばれる邸があります。これがまた広いのですが、どうも延喜式や他の資料を見る限り清盛の妻の時子が住む西八条第がまずあり、その周囲に多数の平家の邸がある集合体であったようです。呼ぶ時は西八条第とその周囲の邸も含めてこれまた西八条第と呼んでいたようです。ちなみに東寺の面積もブレがあり、延喜式のものよりもう少し広い(もしくは広かった)ともされています。東西方向は同じようですが、南北が西八条第に隣接していた時代もあったようです。


東三条院は白河・鳥羽・後白河の三代に渡って院政を行ったところです。これは延喜式東三条院が場所が明記されており比定は容易なんですが、個人的に良くわからないのは何故「東三条院」と呼ぶのだろうです。東三条院は北側を二条大路に接しています。さらに言えば東三条院の3筋東側に二条殿ってのがあります。東三条院は9世紀初頭に藤原良房の家として記録に現れるそうですが、当時は右京に藤原良相の西三条院があり、どうもこれと区別するために東三条院と呼ばれたようです。

そこからあれこれと変遷があり白河法皇が院の御所として使うようになったぐらいの経緯で良いのは良いのですが、私の推測として東三条院自体も場所が変わった可能性があるんじゃないかと考えています。それこそ最初は三条大路に面するようにあったの考え方です。その邸の名前が非常にポピュラー(なにか吉例でもあったかのかもしれません)であったため、二条通りに面する場所に変わってもやはり東三条院と呼ばれた可能性です。もう少し突っ込めば東三条院が移転した時に既に二条殿があり、それと区別するために東三条院と呼んだのかもしれません。


堀川館

平安京探偵団の源氏館はいずこ?

左京六条二坊十二町(下の地図で「六条堀川邸」とした水色部分)にも、清和源氏の居館があっりました。この邸宅は「源氏累代」の館といわれています(『中古京師内外地図』)。保元の乱の時には源為義が、平治の乱の時には源義朝の邸宅でありました(『保元物語』『平治物語』)。源為義が六条判官と呼ばれたのもこの邸宅の位置に由来します。京都に入った源義経もまた、この邸宅を宿所としています。(『百練抄』文治元年10月17日条)。土佐坊昌俊が、源頼朝の命令で夜討ちをかけたのもこの邸宅です。

ここは少し微妙な気がしています。源氏累代の館は延喜式にある義家の邸で良いと思います。ところがこの邸は堀川小路に面さず2本東の西洞院大路と町尻小路の間にあります。堀河小路に面していない邸に堀川の名前を付けるのは無理があります。源氏館の比定にもう一つポイントは左女牛の地名です。源氏館には左女牛井と呼ばれる名水が湧き出ていたとされています。この「左女牛」ですが名前の由来は左女牛小路に由来するとして間違いないと考えます。延喜式の義家邸は六条大路と左女牛小路の間にありますから、そこに左女牛井があっても不思議有りません。ここで現在比定されている義朝の堀川館は六条大路の北側で堀河小路に面する位置になります。ちょっと較べると、

ポイント 延喜式義家邸 義朝の堀川館
堀川の名称 堀川小路に面していない 堀川小路に面している
左女牛井の名称 左女牛小路に面している 左女牛小路に面していない
この2つは別の邸と私は見ます。別のものである他の傍証として為義と義朝は同時期に京都に住んでいます。でもってこの2人が同じ屋敷に同居していたとは到底思えません。為義は父祖伝領の義家邸に住んでいたで良いとは思いますが、義朝は為義と別に邸を構えていたとした方が自然です。場所は近いですから、後世になって混同されている気がしています。


平家軍の進路

平治の乱の最終段階は二条天皇六波羅に取り返した清盛が、内裏にいる信頼−義朝を攻める段取りになります。平治物語ではこの時に二条天皇から、

    内裏を燃やさない
こう清盛は命じられたとなっています。これはwikipedia平重盛のところにある記載ですが、

保元2年(1157年)正月、重盛はその功績により19歳で従五位上に昇叙した。同年10月22日に大内裏が再建され、清盛は仁寿殿を造営した。父から造営の賞を譲られた重盛は、正五位下となった。

大内裏もしばしば火災にあっており、ようやく再建された大内裏を焼失しないように命じられたぐらいで良いかと思います。そのために清盛は大内裏に集結している信頼−義朝軍をおびき出す戦略を立てたとなっています。具体的にはまず大内裏に攻撃をかけ、そこから戦術的退却を行って信頼−義朝軍を誘い出して自らの本拠である六波羅近くで決戦を行う作戦です。そこで平家軍は近衛大路・中御門大路・大炊御門大路に分かれ、それぞれ陽明門・待賢門・郁芳門を目指したとなっています。

推測がいるのはどの時点で平家軍は三手に分かれたかです。平家軍の戦術としては3つの門にほぼ同時に攻めかかりたいところだと思います。平治物語には鴨川を渡り西の河原に勢ぞろいしたとなっていますから、鴨川の東の河原および東岸の道を六波羅から北上し、そこで鴨川を渡って軍勢を3つの道に分けたぐらいで良いように思えます。部署は平治物語wikipediaから推測すると

守備 攻撃
陽明門 源光保・光基 平教盛
待賢門 藤原信頼 平重盛
郁芳門 源義朝 平頼盛
こんな感じのようです。教盛についてははっきりしないのですが、ここはそうしておきます。六波羅への帰路も平治物語ではチイと解釈が必要なところで、
  • 陽明門担当の教盛は不明
  • 待賢門担当の重盛は大宮大路を南に下り、二条大路を東に抜ける
  • 郁芳門担当の頼盛は大宮大路を南に下り、三条大路を東に、さらに高倉小路を南に、最後は五条大路を東に向かっています
平家軍の戦術は攻撃をかけて呼び込む戦術なんですが、陽明門守備の源光保・光基はあっさり寝返ったとなっています。平家軍の戦術は大内裏攻略ではありませんから、教盛は源光保・光基が寝返ったのなら戦術目標は果たした事になり、そのまま来た道を引き返したと推測しています。

郁芳門担当の頼盛が相手にしたのは義朝です。ここは義朝が打って出たら速やかに退却行動を取ったと考えられます。これは重盛軍より早かったと見ます。なぜなら重盛は退却時に大宮大路を通っているからです。大宮大路を通って二条大路に出るためには郁芳門前を通る必要があり、ここで頼盛と義朝が合戦をやっていたら通れないからです。重盛が通る頃には既に「頼盛 vs 義朝」は二条大路から三条大路方面に戦場は移っていたと見ます。重盛が二条大路から引き返したのは「頼盛 vs 義朝」に巻き込まれないためだったかもしれません。

問題は重盛です。本当に左近の桜、右近の橘を義平とやったのかどうかです。ここまでの地図をとりあえず示します。

左近の桜、右近の橘伝説の検証

wikipediaには

平治物語』では重盛と義平が待賢門で一騎打ちを繰り広げ、御所の右近の橘・左近の桜の間を7度も義平が重盛を追い回した、頼盛が退却中に敵に追いつかれそうになり重代の名刀「抜丸」で辛くも撃退した、というエピソードが出てくるがこれらは話を盛り上げるための創作と思われる。

平家軍の基本戦略からして重盛が大内裏、ましてや内裏の中まで乱入する必要はありません。つうか逆に戦術ミスになりかねません。重盛に与えられた役割はあくまでも大内裏内の敵軍を門から誘い出す事にあります。簡単には待賢門の前で挑発していれば良いだけになります。だから無かったの解釈は説得力があるのですが、それじゃロマンがないので「あった」可能性を考えてみます。

待賢門の守備担当は藤原信頼です。信頼は天皇法皇を内裏から逃がしてしまう失敗で完全に戦意を喪失していたと伝えられています。大将がそんな状態では重盛がいくら挑発しても門から出てこなかった可能性はあります。それはそれで重盛は困る事になります。そこでやむなく待賢門に対して攻撃を仕掛けたぐらいにみます。ところが守備側に戦意が乏しいので、アッサリって感じで門は突破されてしまったぐらいの想像です。戦術的退却戦術は大将クラスは承知していますが、兵には知らされていませんから、適当に戦ってくれなかったぐらいでしょうか。

「こりゃいかん」と重盛が制止にかかったところに、隣の郁芳門守備担当の義平が援軍に駆けつけてしまったぐらいはありうると思います。そこで適当に戦って重盛軍は予定の戦術的退却を行ったぐらいです。そういう事をやっていたので頼盛より退却時期が遅れたぐらいです。ただこれじゃ、伝説になりません。つうか伝説が実現するためには重盛軍はかなり大内裏の中に踏み込む必要があります。大内裏の地図を延喜式から引用します。

ちょっと見にくいのですが待賢門を突破すると大膳職と東前坊の間を抜けて容易に内裏の前に到達するのは到達します。伝説のためには待賢門を守っていた信頼軍は門を突破されると一目散に逃げてしまったぐらいを考える必要があります。無人状態になったところを重盛軍は勢いに任せて内裏前ぐらいまで侵入してしまったは・・・ここはそうなったとします。さらに伝説のためにそれ以上の深追いを制止するために重盛も内裏前に進出したとします。それぐらいの時期に郁芳門から義平が駆けつけてきたぐらいです。

ここで義平が回り込んでくれて重盛の前(西側)に現れてくれたら重盛は退却するだけで良いのですが、義平が郁芳門から最短距離の宮内省と大炊寮の間を抜けて来れば重盛は退路を塞がれる格好になります。重盛にしても義平を打ち破らないと退却できない事になります。そこで一時的に乱戦状態が出現したと想像します。ただ内裏の前にいたからと言って、そこに左近の桜、右近の橘がある訳ではありません。左近の桜、右近の橘はさらに内裏に侵入する必要があります。そこで内裏の地図を延喜式から引用します。

見ればわかるように、内裏の前から建礼門、承明門の二つの門を突破する必要があります。もし閉じられていたら突破するだけで一苦労です。だって右近の桜、左近の橘伝説では重盛は義平に追い回されているからです。ここは門は開いていたと考えます。おそらく信頼は侵入した重盛軍に対して一目散の逃げの姿勢ですから、門が開いていた可能性は十分にあります。では門が開いていたら伝説は実現可能かと言えば疑問は残ります。重盛の官位は平治の乱当時で正五位下です。正五位下で内裏の内まで入れたかどうかは自信がないのですが、重盛は大内裏及び内裏の中がどうなっていたかは知っていたと考えます。

伝説では騎馬の一騎打ちですから、こんな逃げ場のないところに重盛は逃げ込むだろうかです。乱戦状態だったので戦場の流れから入り込んだぐらいは無理やりなら言えますが、そこまでの乱戦なら門の外にいる重盛軍も続々と入ってくるわけですから、かなりの規模の合戦になってしまいます。


う〜ん、偶発的な可能性はわずかに残りますが、重盛が待賢門を仮に突破しても伝説までは少々距離があるように思います。どうもなんですがたとえ門を突破しても、それぐらいのタイミングで義平が駆けつけ、小競り合いぐらいをして重盛は退却、義平は頼盛を追う義朝に合流するために離脱したぐらいが妥当そうな気がします。もうちょっと言えば、待賢門を突破した時点で信頼軍が逃げ散ってしまったのを確認できたので、重盛はあっさり退却しただけかもしれません。さて真実はどうなんでしょうか。