奈良期の平均農家モデルの感想

歴史的人口推測を幾人もの専門家が行われているのですが、どうも専門家にはある常識があるようです。あまりに常識らしくその事に解説が添えられていないので感想になってしまうのですが、公地公民制による班田収授はかなり機械的に行われていたとしか考え様がありません。条里制とは区画整理になりますから、割り当てられる口分田の面積もそうですが、当然ですが住宅地も同時に供給されていたとするのが良いようです。貴族だって宅地は指定ですから、まあ、そこまでは「そうなんだ」ぐらいで良いとは思います。

農民(良民)も当たり前ですが結婚して家族を作ります。多世代同居が当然だったとはいえ1軒当たりの人数はどうしたってムラが出ます。子沢山の夫婦もいれば、そうでない夫婦も当然いるからです。これが何代か重なれば1軒の人数は大きな差が出ます。人数の少ない家族ならまだ良いとしても、人数が多い家族なら最初の計画住宅に物理的に収容できなくなって増築するなり、新たに家を建てるなりが必要になります。それと問題として家族の人数の差は口分田の面積に直結します。大人数の家族であれば大きな面積を有しますし、家族が少ないと小さくなります。

実務的にどうしていたかの知見はないのですが、家族の増減による口分田の割り振りはどうしていたんだろうは素直な疑問です。一番最初はなるべく家族単位で固めてあったとは思っているのですが、代を重ねれば増減があちこちで起こる事になります。そのたびに口分田の割り振り変更をしていたかどうかですが、さあどうだったんでしょうね。と言うのも古代だって農作業には共同作業の要素が少なからずあったはず(つうか稲作とはそんなもの)で、あんまり細切れにあちこちに口分田が散在すると不便そうと思ったぐらいです。


さらにがありまして、私も長い間誤解していましたが、延喜式にも「戸」と言う単位がよく出てきます。「戸」時代は現在でも使われる言葉で通常は家の軒数を数える時に使われます。ただ律令期の戸は家の軒数の数え方とはまったく違う単位であると考えなければならないようです。戸は納税単位でもあり、延喜式を読む限り、どの戸もほぼ同じでないと非常に都合が悪い事になります。つまりは家族が住む家の軒数と戸数は基本的に関係がなく、行政の最小単位みたいなものであると言う事です。現在であえて喩えれば隣保とか隣組みたいなものでしょうか。

どうもですが何軒かの家を束ねて戸と言う行政単位を形成していたぐらいです。それも構成員の増減によりかなり機械的に割り振りしていた感触があります。極論すれば帳簿上でそうしていたの見方も可能な気がします。もちろんそれなりの地域事情ぐらいは配慮していたとは思いますし、最低限家族を2つとか3つに切り裂くまではしていないと思っていますが、優先されたのは戸の構成人数、とくに正丁の人数で文字通りの帳尻合わせをやっていた「らしい」です。まあ、そうでもしないと戸の均一性は保てませんし、税金の徴収にも不都合が生じるぐらいです。


この戸の均一性を保つための帳尻合わせは当時の人間に取って不便な面もあったかもしれませんが、後世の研究者にとっては逆に便利な面があります。後世の研究者が古代を推測する時には文献資料に頼らざるを得なくなります。その時に戸がそういう行政単位である事が判れば、様々な推測が可能になります。前に古代の軍団をムックしましたが、戸当たり3人の正丁がおり、奈良期の戸数が20万戸なら理論上は20万人の軍団が出来ると言うのもそうです。

歴史的人口推測でよく用いさせて頂く専門家に鬼頭宏氏がいますが、鬼頭氏の推測人数は下手すりゃ端数まで算出されます。それが可能なのは帳簿管理上の戸の人数の均一性があるからだと見ています。たぶん専門家の間で問題なのは戸数は文献で確認できるとして、1戸あたりの人数を何人にするかの差なんだろうと思っています。これは高島氏の論文を読んでいて、戸の人数の計算根拠の考察にもありました。鬼頭氏が当初唱えていた奈良期の人口が平安初期の方が適切だとしたのは、鬼頭氏が出挙から戸の人数を算出していたようですが、なんらかの根拠により「そうでないらしい」が現在の考古学の見解らしいぐらいはおぼろげに判った次第です。


その程度も知らなかったのかと言われればお恥しい次第ですが、遅ればせながらでも知る事が出来たのは嬉しかったぐらいが感想です。