ルーツが醤(ひしお)である点は諸説が一致していますし、私も異存はありません。醤の歴史は文献的には周礼(紀元前8世紀)まで遡れるそうですが、当然ですがそれ以前から食料貯蔵法としてあったと見たいところです。醤は原料によって
- 魚醤
- 肉醤
- 草醤
- 穀醤
穀醤の記載が乏しいのは穀物は保存性が高いために、わざわざ塩漬けする必要がなかったからじゃないかと考えています。この辺も諸説はあるのですが、原初的には魚醤と肉醤が先に成立し、遅れて穀醤が出来たんじゃなかろうかと思っています。古代の大陸でも魚や肉はそれだけで高級食材ですから、これを醤にしたものは贅沢食材です。なんとかもう少し安上がりに醤が作れないかと試行錯誤して出来上がったのが穀醤と言う見方です。そんな穀醤がが広まったのは大豆を原料にした豆醤が普及したからとされ、さすが大陸で紀元前158年の豆醤が出土しているようです。ペースト状の醤が液体に変わったのはかなり時代が下るようですが、6世紀の斉民要術には清醤の製法が記載されています。清醤なんですが現在の大陸でも醤油のことを清醤と呼ぶそうです。これも想像ですが、もともとの醤がペースト状のものであったのに対し液体になったので清醤と呼ばれたんじゃないかと考えています。
日本の醤は縄文後期のものが出土しているそうです。これが縄文人が食糧貯蔵のために塩漬けしたものが自然発酵してそうなったのか、半島経由の醤製法で作られたかは議論はあるようです。個人的にはどっちもミックスしたものぐらいじゃないかと考えています。ただ縄文人が作っていた醤が現在の醤油の直接の先祖かと言えば微妙なようで、律令国家が製作した醤は斉民要術を参考にして作られたとするのが通説の様です。ならば斉民要術にどう書いてあるかを確かめたくなります。
斉民要術の醤の製法は向林八重日本古代における醤の製法についてで見つけたのですが、読んで(いや眺めただけの方が正確)みたら本当に詳細かつ具体的で、つまり引用するには長すぎて、なおかつ私の漢文能力では手強すぎるので引用は遺憾ですがあきらめます。そこでもう少しわかりやすく書いてある小栗朋之醤油製造技術の系統化調査の表を引用します。
延喜式には醤と未醤が分けて記載されています。
- 供御醬料,大豆三石,米一斗五升,【蘗料。】糯米四升三合三勺二撮,小麥、酒各一斗五升,鹽一石五斗,得一石五斗。用薪三百斤。但雜給料除糯米,添醬料、醬滓一石,鹽三斗五升,得六斗五升,用薪六十斤。
- 未醬料,醬大豆一石,米五升四合,【蘗料。】小麥五升四合,酒八升,鹽四斗,得一石。
醤が醤油の先祖になり、未醤が味噌の先祖とするのが通説です。ただなんですがかなり混沌としています。醤油製造技術の系統化調査には
醤油は中国の醤と鼓を基に、日本の豆醤、径山寺味噌の液汁等を経て、垂れ味噌や唐味噌、正木醤油のような醤油様液体調味料に進展し、18Cの後半頃には今日の本格的な醤油に近いものに育っていることである。
日本の醤油の歴史的には味噌の上澄み液を掬ったのが醤油の始まりとなっています。現在の溜醤油の元祖みたいなものです。つまり味噌から醤油への進化と見るのが良さそうな気がします。ほいじゃ斉民要術の技術を用いて作られた醤はどうなったのかになります。また醤と未醤の違いはどうなったかも気になります。そこについては議論が未だにテンコモリあるぐらいで「よくわからない」のだそうです。この「よくわからない」ってのが素人歴史好きにとっては大変うれしい点です。
律令期に斉民要術の技法が取り入れられたのは間違いないとまず見ています。醤が清醤であり未醤が鼓とみたいところです。ところが実際に作ってみるとどっちも味噌だったぐらいです。ま、醤の方がよりドロドロだったぐらいでしょうか。でもって朝廷で作られていた醤製造技術も、未醤製造技術も民間に流出し、どちらも味噌の製法として広がったんじゃないだろうかです。
醤や未醤の製造技術が早い時期に民間に流出した傍証に延喜式の東西の市に醤塵、未醤塵が存在する事です。これは民間で既に作られていた事の裏返しで良いかと思います。醤油はともかく、味噌の製造はやがて全国に広がり定着したのは史実です。その広がる時に醤技術系と未醤技術系に分かれたんじゃないかと思っています。主流は未醤系で、一部に醤系ぐらいです。それが本当の理由かどうか不明ですが、味噌はそれこそ全国各地で作られていますが、醤油の生産地は限定されます。
もちろん延喜式の醤が真っ直ぐに醤油につながったわけではありません。なんちゅうても現在の醤油に近いものが成立したのは18世紀になってからで、律令期から実に1000年の歳月を要しています。斉民要術以外にもその後の大陸の醤の技法なども取り入れられながら、醤が現在の醤油にやっとこさ進化したぐらいを想像しています。