祝日歴史閑話

今日も古代史の知識整理ですが、待望の小山田遺跡です。なにせ限られた情報しかないので、いくらでも想像の翼が広げられるのが・・・嬉しい。


小山田遺跡と石舞台古墳のサイズ

奈良県立橿原考古学研究所 小山田遺跡第5・6次調査現地説明会資料からです。まずは、

検出した掘り割りの長さは、約48mになります。東西方向に直線で延びており、古墳にともなうものとなる可能性が高いと考えられます。北面に貼石、底面に敷石が施され、南面の板石積みは、古墳の墳丘下段北辺にあたると考えられます。

画像は現地説明会資料にあるのでリンク先を御参照下さい。ここの「約48m」は方形基壇の長さと見なして良さそうにと思われます。一つ判らないのは石舞台古墳を凌ぐ規模との報道がありましたが、石舞台古墳の方形基壇の長さはwikipediaより、

一辺51メートルの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83メートル、東西81メートル)をめぐらした

石舞台古墳の方が若干ですが大きい気がします。サイズの取り方の違いかなぁ? ここは大小を論じるよりも同じ程度の規模ぐらいで話を進めます。次に基壇を取り巻く堀のサイズですが、石舞台古墳は最近見て来たので覚えていますが、結構大きな空堀がありました。空堀の幅は5.9〜8.4mとwikipediaではなっているのですが、小山田遺跡の堀の幅は

貼石の基底から板石積み(南側)の基底までの幅は約3.9m

これもサイズの取り方の違いがあるかもしれませんが、石舞台古墳の方が堀も大きい気がします。小山田遺跡の築造年代について現地説明会資料は、

調査では、遺構がつくられた時期を直接的に示す遺物は出土していません。しかし、貼石にともなう造成土からは6世紀後半代の土器類、掘り割り埋没時に北側から流入した堆積土の上層からは7世紀後半代の土器が出土しています。また、板石積みに用いられた室生安山岩結晶片岩は、7世紀中頃の寺院や古墳に多用されています。これらのことから、今回検出した遺構も、7世紀中頃となる可能性が考えられます。

石舞台古墳と同じような時代ぐらいであろうしか判らないようです。



古墳の作成手順を考える

石舞台古墳も小山田遺跡も方形基壇は残っているのに、上部の墳丘の盛り土がなくなっているのは何故だろうはちょっとした疑問でした。工事途中で放棄された可能性もありますが、よく考えると墳丘は盛り土だから無くなったと考えるのもアリかと思っています。方形基壇とは古墳の土台の事ですが、これは本当の土台と考えて良さそうです。つまりは元の地面そのものであると言う事です。方形基壇の作成手順は地面に四角の空堀を作ったものとして良いだろうからです。でもって掘り出した土は墳丘の盛り土に使われたのだろうです。

そうなると石室はいつの段階で作ったのだろうになります。石舞台古墳には巨大な石材が使われていますが、あれもどこかから修羅で運び込んで組み合わせたぐらいは誰にもわかります。ここで前に石舞台古墳に行った時の写真があるので参考にして欲しいのですが、

石室は方形基壇に埋め込まれるように作られています。そうなると古墳築造場所にまず穴を掘って石室及び羨道を作ったと考えるのが妥当です。先に空堀を作ったのでは石材搬送の邪魔になる気がします。もっとも方形基壇は4面ありますから、石室を作るのに邪魔にならない面を並行して掘り始めていても良いでしょうが、優先順位的には石室が先と私は考えます。並行工事の可能性もアリとはしましたが、空堀から掘り出した土も、方形基壇の外側に一旦積み上げてから盛り土にするより、そのまま方形基壇の上に盛ってしまった方が作業手順的にも合理的な気がします。

その次なんですが、空堀及び方形基壇の葺石をどう考えるかです。これは古墳築造の最終段階での作業じゃないかと想像します。盛り土は空堀以外にも近くの山なりから掘り出した分もあるかもしれませんが、盛り土が足りなければ空堀を大きくしていくと言うのも十分に考えられるところです。そうするのが盛り土確保に一番合理的な気がします。そうやって墳丘が完成してから葺石を貼り付けていくのが作業手順的にも合理的な気がします。大雑把ですが私の仮説として小山田遺跡も石舞台古墳も類似の工法で作られたと見ますから作業手順として、

  1. まず地面に穴を掘って石室スペースを確保する
  2. 運び込んだ石材で石室及び羨道を作る
  3. 方形基壇の周囲から掘り出した土で墳丘を作る
  4. 最後に墳丘及び空堀内の葺石を貼り付けていく
こうじゃなかったかと仮定した上で次を考えます。


小山田遺跡の石室存在の可能性は?

石舞台古墳も小山田遺跡も方形基壇の葺石は確認されています。そうなると古墳はほぼ完成していた可能性が高い事になります。少なくとも石室から墳丘構築段階までは工事は進んでいた事になります。石舞台古墳の方はそれで説明可能なんですが、小山田遺跡にはネックが2つあります。

  1. 石室が見つかっていない
  2. 規模は同等であるのに盛り土用の空堀規模が小さい
盛り土については小山田遺跡は空堀以外の土のアテがあったのかもしれません。たとえば記紀にある庭の池(嶋の大臣のお話)を掘った時の土が大量にあったとかです。石室については「まだ見つかっていない」の考え方も出来ますが、石舞台並みの石室であってもおかしくない訳で、これが未だに見つかっていないと言うのは不思議です。石室が無かったのか後世に取り壊されたのかですが、現地説明会の資料を見てください。
赤の部分が今回の調査区で、ここが古墳の北面に当たるとなっています。もし石室があるとすれば奈良県立明日香養護学校の建物の下と言う事になります。明日香養護学校は1965年に用地買収が行われ、1966年には竣工して入学が始まっています。まあ何期かに分けての工事で、小山田遺跡の上に建物が出来た時期は判りませんが、わかるのは養護学校を建てる時には「気が付かなかった」と言う事です。これも時代が時代ですから、本当に気が付かなかったのか、それとも知っていて壊したのかはもう確認できないかもしれません。遺跡と言うのは見つかれば調査が終わるまで工事がストップするため工事関係者には喜ばれないそうです。そのために見つけても「無かった事にしてしまう」は可能性として十分にあります。

いずれにしても明日香養護学校の建物を壊さない限り石室部の確認は出来ない訳です。もし意図的に壊したにしても、石室の石材は巨大なものであろう事は想像できますから、全部を撤去できず、石室があった事を窺わせる遺構ぐらいは出て来るんじゃないかと期待しています。出てくれば私の仮説は破綻しません。


小山田遺跡と石舞台古墳の微妙な相違点

小山田遺跡は方形基壇の4面がほぼ東西南北を向いています。古代においても東西南北は意識されていますから、方形基壇を作るのなら普通はそうするだろうぐらいに考えます。エジプトを始めとする世界各地のピラミッド状の方形遺跡の多くはそうなっているんじゃないかと考えています。ところが石舞台古墳はそうではなく、方形基壇の頂点が東西南北を示しています。つまりは45度ほど振った形になっています。これに何か意味があるのか、それとも単に地形上の制約なのかは私には手に負えない世界になります。なにか当時に新しいトレンドでもあったのかもしれませんが、遺憾ながら知見を持ち合わせません。


さて、誰の墓か? その1

これを推測するために何回も前置きみたいな話を延々と積み重ねて来た訳ですが、現時点では舒明天皇蘇我蝦夷が候補に挙がっているようです。とりあえず舒明の埋葬の記述をwikipediaから

崩御翌年の皇極天皇元年12月13日(643年1月8日)に喪を起こし、同月21日まず滑谷岡(なめはさまのおか。伝承地は明日香村冬野字天野の「出鼻の岡」)に葬られたが、翌2年9月6日(643年10月23日)に滑谷岡より当陵に改葬された。

「当陵」とは押坂内陵で段の塚古墳とも呼ばれています。ここが舒明天皇陵になった理由はwikipediaより、

延喜式』には、陵内に田村皇女(糠手姫皇女)押坂墓、陵域内に大伴皇女押坂内墓と東南に鏡女王押坂墓があると記される。後に所伝を失ったが、元禄探陵の際に段ノ塚と呼ばれていた当陵に決定。

元禄時代の決定のようです。舒明説は滑谷岡は明日香村冬野字天野の「出鼻の岡」ではなく小山田遺跡であり、小山田遺跡から段の塚古墳に改葬されたの主張だった様に記憶しています。小山田遺跡周辺が甘樫丘の出鼻に見えるかどうかですが、

甘樫丘は南部で2つの尾根に分かれています。その二つの尾根の間ぐらいに小山田遺跡は存在する事になります。出鼻に見えんこともありません。参照してもらったのは明治時代の地図ですが、そこには地名として「出鼻の岡」とか「滑谷岡」も確認できませんでした。さて、ここで滑谷岡、小山田遺跡、押坂内陵の地図上の位置関係を示します。
滑谷岡は地図上で「1」のマークがついているところです。えらい山の中で談山神社をさらに深く入ったところです。正直なところ、こんな山奥に何故に葬られたのだろうの疑問符が一杯つきます。舒明説の根拠はおそらくですが、伝承の滑谷岡は幾らなんでも場所的に無理があるので、「出鼻の岡」は甘樫丘の出鼻であったの説を立てているのだと推測します。小山田遺跡なら飛鳥の中心地にも近く天皇陵として位置も場所も相応しいと言うところです。舒明説にはそれなりの説得力があるのですが、素直な疑問が2つあります。
  1. 完成していたと仮定できる小山田遺跡から押坂内陵に何故に改葬されたのか
  2. 飛鳥の一等地とも言うべき目立つ場所に古墳が何故作られたのか
記紀の舒明は推古後継の時に蘇我系の山背大兄皇子と争い、蘇我蝦夷の裁定で非蘇我系の舒明が即位したとなっています。蝦夷は馬子の子であり、馬子の代からの蘇我氏の権勢を揮っていたと考えられ、舒明に政治力は乏しかったであろうの説が有力です。ま、蝦夷に楯突かなかったから即位もでき、生き残れたと思ったりします。その程度の大王が明日香村冬野字天野(伝滑谷岡)に葬られるのも不自然ですし、蘇我氏の本拠間近と言って良い小山田遺跡に葬られるのも不自然な気がします。


さて、誰の墓か? その2

ここで気になったのが古墳の規模です。小山田遺跡も石舞台古墳も大きいですが、当時の大王墓基準からしてどうであろうです。比定の問題を言いだせばキリがないのですが、通説に従って比較してみます。

大王 古墳名 形式 規模
継体 今城塚古墳 前方後円墳 古墳総長約350m、前幅約340m
安閑 高屋築山古墳 前方後円墳 墳丘長122m
宣化 鳥屋ミサンザイ古墳 前方後円墳 墳丘長138m
欽明 平田梅山古墳 前方後円墳 墳丘長140m
敏達 太子西山古墳 前方後円墳 全長94m
用明 春日向山古墳 方墳 縦63m、横60m
崇峻
推古 山田高塚古墳 方墳 東西63m、南北56m
舒明 段の塚古墳 八角下方墳 方形基壇105m、八角対辺42m
こうやって並べると興味深いものがあります。古墳時代に全盛を誇った前方後円墳は用明の頃には方墳に置き換わったようです。さらに舒明は方墳を進化させたと言って良さそうな上八角下方墳形式を用いています。もっとビックリしたのは、舒明陵は小山田遺跡を遥かにしのぐ大古墳であることです。それなら引っ越してもおかしくないってなところです。もう一度、お断りしておきますが、大王名も、在位期間も議論の多いところです。また古墳の被葬者の比定、さらには築造時期の特定は考古学でも調査が出来ない故にまた議論も多いところです。

それでもある時期から前方後円墳から方墳に大王墳の形式が移行したんじゃないかぐらいの仮説は立てられそうです。これは現在ですらそうですが、厳粛な儀式の儀礼は保守的なものです。前方後円墳形式は当時であっても大昔から受け継がれてきたスタイルで、これをあえて変えるには何か理由がありそうな気がします。相当な権力者が

こうしないと変わるものとは思いにくいところがあります。当時最大の権力者は大王でしょう。


さて、誰の墓か? その3

古墳形式の変更を言いだすのは新興勢力の可能性がやはり高いと思います。旧来の勢力であるほど考え方が保守的になるのは世の常です。継体後に現れた新興勢力と言えば何を置いても蘇我氏です。蘇我氏は大陸の新知識を豊富にもっていた氏族と私は考えるようになっています。当時の大陸情勢は長かった南北朝時代が漸く終焉し、隋と言う統一国家が誕生する時代です。この流れは隋から唐に引き継がれていきます。中国史は統一王朝が成立すると外征を行いだす伝統があります。この伝統は今でさえ受け継がれている気がしています。

そういう大陸の気配を蘇我氏は察知していたんじゃないかと考えています。まあ、いかに隋や唐といえども、朝鮮半島経由で日本まで外征の手を伸ばす(元が一度やりましたが・・・)可能性は高くないと思いますが、そういう事も念頭に置く政治がこれからの日本には必要と考えたぐらいです。いわゆる近代化です。あえてたとえれば、明治維新による近代化政策みたいなものが日本に必要の政治意識です。ただそういう新政策は非常に抵抗が強いものであるのも歴史の常識です。とくに失敗したら「極悪非道」のレッテルを歴史書に貼られます。

蘇我氏が政治改革の象徴として作り上げたのが方墳形式じゃなかろうかです。権力者の墓と言えば猫も杓子も前方後円墳の時代に政治改革のシンボルとして方墳を作ったぐらいです。蘇我氏も孤立無援であった訳でなく、蘇我氏の政治理念、政策に賛同する勢力も確実にいたはずです。いわゆる「改革派 vs 保守派」の権力闘争です。その最終決戦が物部氏との抗争であるとの見方です。


ここからは私の仮説濃厚で話が飛躍しますが、記紀にあるように蘇我氏は臣下筆頭の権力者として政治改革を行ったのではなく、大王そのものになって政治改革を行ったと見る方が良い気がしています。大王の座は今の天皇とは全然違います。江戸期の将軍よりももっと権力があり、やはり中国皇帝のような独裁者であったと考えたいところです。大きな政治改革を行なうためにはそれぐらいの独裁権が必要であったと見ます。聖徳太子は伝説の聖人ですが、太子時代に行った政治改革は政府の形式を整えた事であったと見ます。太子の政策で有名なのは冠位十二階と十七条憲法です。冠位十二階にはいくつかの目的があったと見ます。

  1. それまでも何らかの階級制はあったはずだが、政治改革を行う時に旧来の呼称を変更するのは常套手段
  2. 旧来の階級は古い氏族の世襲的な階級になっており、これを新たに流動性があるものに変更した
  3. 上位階級は有力氏族が任命されるのは致し方ないが、中〜下位階級に有能な者を抜擢できる余地を作り出した
  4. とにかく階級が世襲から任命制に代わった事により、中央政府に求心力が集まるようになる
これだけでも一大改革であり、物部氏が滅んだとは言え旧来の氏族の反感は猛烈であったと容易に想像されます。これを断固として推進し、定着させたのが聖徳太子の業績と考えます。記紀ではこれだけの政治改革を聖徳太子、推古、馬子のトロイカ体制で行ったとなっていますが、この改革では馬子の蘇我氏だってデメリットが生じかねません。つうか聖徳太子はいかに有能であっても、太子自身に背景となる軍事力、とくに蘇我氏に対抗できるようなものはあるとはとても思えません。そう、私の仮説は、これは何度か可能性を検証していますが、今日はもう一歩飛躍したいところです。「推古 = 聖徳太子蘇我馬子」の父は記紀では用明天皇になっています。用明も事績がはっきりしないところがありますが、ひょっとして「用明 = 稲目」もありうる気がしています。墓所の比定がもし正しければ、用明から墳墓の形式が方墳に変化しているからです。整理すると、
    用明 = 稲目
    推古 = 馬子
    舒明 = 蝦夷
    皇極 = 入鹿
この延長線上で言えば「崇峻 = 物部守屋」になります。これまで大王継承権家なるものを想定していましたが、実際はもっと曖昧なものだったのかもしれません。継体王朝と言っても有力氏族の連合体程度で、大王位とは、そのまま「王の中の王」の意味合いです。新興氏族であっても勢いが強ければ王位程度への就任は比較的容易で、大王位の継承は王が集まって決めていたぐらいです。ここでなんですが、馬子の改革は大王位継承家の固定も含まれていた気がします。

応神・仁徳朝も記紀の記述だけでも血腥い大王位争いが繰り返されています。その最たるものが継体の乱入だったのかもしれません。大王位継承の度に政治的混乱が起こるのは政治改革を志す蘇我氏にとっても宜しくありません。安定する政治体制のモデルは大陸王朝になり、中国皇帝は世襲制の皇帝家が引き継いでいくスタイルです。これを蘇我氏が導入した可能性は十分にあると考えています。蘇我氏が大王家そのものになるのなら、旧来氏族の特権を損なうような政治改革をいくら行っても蘇我氏自身には問題は生じない訳です。


さて、誰の墓か? その4

乙巳の変の振り返りです。記紀と通説では傍若無人の権力を揮う蘇我氏に対する大王家のクーデターとされています。これも実情はもっと平凡で、蘇我大王家内の内輪もめじゃなかろうかです。つうのも入鹿は蝦夷の息子であるらしいですが、どうにも素性がはっきりしません。有能であった事はwikipediaに、

その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた

ただなんですが入鹿の治世は短く、642年に皇極天皇の即位と共に大臣になり、わずか3年後の645年に乙巳の変で横死します。ここで注目しておきたい点は、この後の政治路線も基本は馬子(= 推古 = 聖徳太子)の政治を引き継いでいる点です。中央集権による国家改革事業の推進(大化の改新)です。中大兄皇子大海人皇子も舒明の息子と記紀ではなっていますが、「舒明 = 蝦夷」説なら下手すりゃ3人とも兄弟(たぶん異母にはなると思います)です。蝦夷は入鹿の有能さを認めて大王位に就かせましたが、入鹿の母の出自は低く、それに対する不満が強かったぐらいが原因です。入鹿も母の出自が低い事をカバーするために、その才能をアピールする事に腐心したために余計に反感を買ったぐらいです。相続争いが血を見るものになるのは、これまた定番です。


蘇我氏乙巳の変で滅んだとは言いますが、クーデターに加担したメンバー蘇我倉山田石川麻呂がいます。また天武の奥さんは持統であり、持統の父は天智ですが母は蘇我氏です。もちろん持統も天皇になっていますし、奈良朝は持統の血統の維持を必死になってやってます。必ずしもとは言いませんが、蘇我氏が皇室の敵としてのクーデターであるなら蘇我系の血を引く者はその時点で冷遇・排除されそうなものです。だって記紀中大兄皇子大海人皇子蘇我系ではない舒明の息子の設定だからです。しかし記紀でさえ蘇我氏の血統が皇室に延々と伝えられている事を否定していません。

ここが書紀を編纂した不比等が一番苦労した部分じゃなかろうかです。既に蘇我世襲大王家は確立しており、不比等がタッグを組んだ持統も蘇我の血をひく人物です。乙巳の変から壬申の乱と続いた混乱も、蘇我大王家の中の相続争いに過ぎないと不比等は良く知っていたんじゃなかろうかです。乙巳の変蘇我宗家が滅んだと言っても、実態は兄貴の家を弟の家(中大兄皇子)が滅ぼしただけであり、壬申の乱もまた然りです。持統の方針は自分の血統を皇位に就かせたいもあったでしょうが、兄弟による大王位争いを目の前で見ているので、皇位の継承は嫡々で平穏に行いたいの意図も含まれていた気がします。

嫡々継承のための根拠書の政治的性格があるために不比等と持統が編み出したのが万世一系論ですが、そのためには、

  1. 稲目以来の蘇我大王家を、それ以前の大王に連結させ架空の大王家を創出する
  2. 乙巳の変壬申の乱の騒ぎの原因を入鹿に被せる事を持統に了承させる
  3. 入鹿に被せるために蘇我大王家自体も歴史から消す事を持統に了承させる
現在の天皇家には姓がありませんが、持統の時代まではあった可能性があります。つうか大王は地位の名称であり、それこそ蘇我馬子大王ってな感じです。まあ、大王位に就いたら特殊な名称を名乗るぐらいの慣習はあったかもしれません。相撲のしこ名みたいなものです。それを万世一系の大王家にする必要性から姓自体を消滅させる事にしたのだと考えています。蘇我の血を引く持統にしては苦渋の決断であったかもしれませんが、実質は蘇我大王家あるのに変わりはありませんから、そこは妥協したんじゃなかろうかです。もう一つの妥協は稲目以来の蘇我大王も歴史に残さない点です。どうしても孫の文武に皇位を継がせたい持統は、これも了解して書紀が成立したぐらいの想像です。


さて、誰の墓か? その5

とりあえず「稲目 = 用明」なら春日向山古墳(伝用明陵)でも良い気がします。馬子は通説通り石舞台古墳です。馬子が聖徳太子なら様々な政治改革を行った巨人ですから、自分の成果と蘇我世襲大王家の確立をアピールするために、飛鳥を見下ろす地に巨大なモニュメントを築いても不思議とは思いません。問題は次の蝦夷です。「蝦夷 = 舒明」なら小山田遺跡を築いたのは蝦夷になります。小山田遺跡の工事はかなりの段階まで進んでいた推測は上でしましたが、蝦夷は途中で気が変わった可能性が残ります。完成間近の小山田遺跡の工事を中止して段の塚古墳(伝舒明陵)の新たな着工を命じたんじゃなかろうかです。いくら父であっても見下ろされる場所に墳墓を作るのは気に入らないぐらいの理由です。段の塚古墳は石舞台古墳、小山田遺跡に較べてもはるかに巨大です。延喜式にあるとされる改葬は段の塚古墳の工事が間に合わず、蝦夷大王死亡時に一旦仮埋葬を行った話じゃなかろうかです。

勝手に妄想を広げていますが、蝦夷が小山田遺跡、段の塚古墳の2つを手掛けたと仮定すると、乙巳の変の遠因はその辺にあった可能性もあります。いくら大王であるからと言って、2つも巨大な大王墓を作るのは「やりすぎ」の声です。大王墓は国家事業ですから、それだけ国家財政を圧迫します。そういう怨嗟の声が入鹿に対する乙巳の変として噴出したのもあるかもしれません。そういう視点で考えると中大兄皇子は馬子以来の国家改革路線推進派であり、「蝦夷 − 入鹿」はやや逆戻り路線だったのかもしれません。

入鹿と中大兄皇子記紀と「蝦夷 = 舒明」仮説では同父異母兄弟の可能性も考えましたが、そうでなくて本家分家関係だったかもしれません。大海人皇子家もまた別の分家です。分家と言っても江戸期の御三家ぐらい格が高い家で、本家に怨嗟の声が集まったのを利用してクーデターを起こしたぐらいです。で、これを見ていた持統は嫡々継承のために有力な分家は不要の路線を奈良朝で行った可能性はあります。これもまた結果として正系が最後に尽きてしまう結末を迎えたのも歴史と云う所でしょうか。


あとがき

書きながら仮説がグラグラ揺れた部分があるのは御勘弁ください。3回ぐらいは書き直しているのですが、それでもあれこれ想像の翼ばかりが広がって収拾が着ききっていないぐらいです。原因としては証拠となる事実が乏しい点です。日本の考古学のネックで、記紀と言う一級資料が現存している一方で、天皇家が現在まで延々と残り、その墓が現役天皇家の祖先のものとして公式に認定され、研究者は手の出しようが無い点です。他国では巨大な王墓があろうとも、それを作った王家は遠の昔に滅び去っています。下手すりゃ王族どころか、王墓を作った民族さえ行方不明になっています。だからかなり自由に調査研究が出来ます。

一方で新たな証拠がなかなか出て来ないので、私のような素人でもあれこれ推測して楽しむことが出来るのは嬉しい点だと思っています。全然足りていないジグソーパズルを、どこか怪しげなマニュアルを使って全体像を構築するようなものです。少々長いお話でしたが、ここまでお付き合い頂きありがとうございました。