蘇我氏と日本書紀

日曜閑話65の続きです。今日の話の元はJSJ様の

ズバリ、蝦夷聖徳太子、入鹿=山背大兄王だ!

つまり、蝦夷聖徳太子は父馬子の補佐役(摂政)を務めていたのです。
馬子の死後、蝦夷聖徳太子は即位しました。「自らを大王に擬する行為があった。(直接の引用はWikipedia蘇我蝦夷の項)」とされる所以です。
山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。(直接の引用はWikipedia蘇我蝦夷の項)」というのも、入鹿=山背大兄王とすれば息子の部民を借りただけのことになります。
そして、聖徳太子が妻と同日に死んだとされていることから、自殺あるいは他殺説が出されています(井沢元彦氏の「逆説の日本史」)
蘇我蝦夷乙巳の変の時に自殺しました。
こう考えると井沢流の聖徳太子=怨霊説も、なぜ後の政権担当者によって聖徳太子が怨霊と考えられたのか、理由がはっきりします。

入鹿による山背大兄王殺害は、そのまま中大兄皇子による入鹿殺害のコピーです。

蘇我氏という、功績もあるが自らにとっては邪魔だった者を葬り去るために、蝦夷・入鹿という悪役と聖徳太子山背大兄王という偉人に分離した。
偉人を滅ぼしたという自らの罪を、なんと偉人本人に負わせてしまった。
というのが、日本書紀の構想であったのです。

この意見は非常に面白いのですが、ここからヒントを得て話を広げてみました。それと前回も今回もあくまでも推理遊戯です。どこにも証拠はありませんし、真実を確かめる術もありません。これもJSJ様の意見ですが、

聖徳太子前後の系図の再構成というのは、正解のあるパズルというよりも、木片を組み合わせて図柄を構成するゲームのようです(馬の形になったりペンギンの形になったり)。

色んな図柄を私も作っているぐらいに御解釈ください。


藤原不比等日本書紀で確立したかったものに万世一系説があります。裏を返して考えれば万世一系ではなかった事になります。大和王権は存在しても大王家は決して歴代連綿として続いていた訳ではないぐらいでしょうか。良く指摘されるのは継体天皇で、ここから大王家は交替しているとの見方は正統の日本書紀研究でもある程度確立しています。継体天皇の話は書紀でも隠し切れなかったと見ますが、継体天皇の話を残した点に注目します。日本書紀でも基本的に史実は辿っているです。事実は都合の良いように脚色しますが、事実は事実としてある程度反映しているです。そうしないと単なる創作物になってしまうからです。麻酔科医様の指摘も参考になります。

しかし、異母兄弟結婚が消滅していくのも面白いですね

日本書紀でも天智天皇時代までは異母兄弟結婚がゴロゴロ出現します。近親結婚がこれでもかと言うぐらい出てくるのですが、奈良朝に入るとほぼピタッと収まります。これは唐からの儒教感が取り入れられたからと説明するのは可能ですが、考えてみれば不自然です。近親結婚はあったかもしれませんが、これって万世一系説を創作するための結果ではないでしょうか。そうやって近親結婚で系図上でつなぎ合わせないと万世一系にならないぐらいの感じです。だからやたらと兄弟とかが異母異父兄弟で絡まりあいながらつながる結果となったぐらいの考え方です。

大王家の交替はあったとしましたが、大王家に取って代わるのは純外来の氏族でなかったとも見ています。有力氏族の奪い合いぐらいを想像しますが、狭い世界ですから有力氏族間の婚姻関係は蜘蛛の糸が絡み合うようにまたあったぐらいです。つまりは大王家の交替と言ってもどっかで血はつながっているぐらいです。それをつなぎ合わせると万世一系を創作可能ぐらいです。またそうやっての大王家交替ですから、大王家であった氏族も皆殺しになるような事は少なく、小さくなりながらも次の大王家政権下でも生き残っていたぐらいです。その中でかなり縁が薄かったのが継体天皇家であり、縁の薄さは日本書紀でも脚色でカバーしきれなかったぐらいです。

まあ、イメージとして親戚同士の内輪もめぐらいでしょうか。そういう実態を利用して架空の大王家本家みたいなものを藤原不比等は創作し万世一系説を紡ぎあげたぐらいです。異母異父兄弟が量産されたのは大王家本家の血の補強ぐらいの感じです。


蘇我大王家

蘇我氏も大王を狙う有力氏族であったと見ます。蘇我氏の力が決定的に伸びるのは物部氏との抗争に勝った事と見ます。この物部氏もまた大王家であったかどうかは微妙です。物部大王を打ち倒して蘇我大王が出現したとシンプルに取っても良いのですが、ここはそうではなくその時の大王家の有力支持氏族が物部氏であったと見ます。ちょっと喩えとして苦しいのですが豊臣家があり、秀吉死後に関ヶ原を戦った三成が物部氏、三成に勝った家康が蘇我氏みたいな関係です。

物部氏に勝った蘇我馬子は大王家を開いたと素直に見ます。書紀に従えば崇峻天皇を擁立していますが、これも政権簒奪のための便法で物部氏との抗争後の戦後処理のために一時的に擁立した後、不要になったから殺してしまったぐらいです。あえて喩えれば崇峻天皇は秀頼みたいな感じです。その後に馬子は大王になったです。ほいじゃ推古はどうなるかですが、小さくなった前大王家の当主として馬子が擁立したです。豊臣家は秀頼が死んで滅んでしまいしたが、前大王家は滅びずに小さくなりながらも生き残ったぐらいです。江戸期の織田家の末裔よりは大きな感じで有力大名ぐらいの地位は保ったぐらいの見方です。関ヶ原後の毛利とか上杉ぐらいに見ても良いかもしれません。

大王の地位になったと言っても馬子は前大王家への警戒はあり、わざわざ女性を当主として反対勢力の核になる事を防いだぐらいでしょうか。小さくなった前大王家は馬子の処分を受ける他なく、直接の支配を受け入れざるを得なかったぐらいです。たぶんここでややこしくなるのは、前大王家と蘇我大王家も姻戚関係があり、さらに蘇我大王家成立後もさらに重ねられたと考えています。もし豊臣家が大坂の陣をやらずに徳川体制に組み込まれていたら、そんな感じで支配下に置かれたと考えています。


この関係を藤原不比等はどう脚色したかです。結果として前大王家が乙巳の変を経て復活するのが事実とするならば、万世一系の成立のために実権を失った前大王家の政権が続いているとしたと考えます。後世で言えば南北朝時代が気持ち近い感じで、衰微しきった南朝を後世は正統として書いているのに類似しています。実態としては蘇我大王家の臣下として辛うじて生き残っていた前大王家の政権が、あたかも連綿と続いているかの様な書き方にしたんじゃなかろうかです。

そう考えると聖徳太子の位置づけがはっきりしてきます。架空の実態である前大王家政権は何もできません。言うまでもなく推古には何の実権もないわけです。実際の政治をやっていたのは馬子天皇であり蘇我大王家です。しかし万世一系説のために推古が政治を行わなければなりません。そのために摂政なる地位が突如出現し聖徳太子が現れたわけです。馬子天皇の政治を架空の実態である前大王家の朝廷で投影させるのが役割と言うわけです。馬子天皇の存在自体を抹消するのが理想ですが、馬子天皇憲法十七条、冠位十二階、遣隋使と隠し切れない政治的実績があるため、これを丸ごと抹消するのは不可能の判断です。

推古自身にやらせても良さそうなものですが、馬子天皇実績は「男がやった」を打ち消すのは難しい歴史感覚があったのかもしれません。


ここもややこしいのは山背大兄王の位置づけです。「馬子 = 聖徳太子」説なので聖徳太子の息子は馬子の息子であり、蘇我大王家を継いだのは蝦夷になります。では「蝦夷 = 山背大兄皇子」かと言えば無理がありそうな気がします。推古は前大王家の当主と仮定していますが、推古に蘇我氏の一族から旦那が来ていたはありそうな想像です。そこで生まれたのが山背大兄王てなところです。しかしこの想像も無理な部分はあり、蘇我氏から旦那が来たのなら旦那が前大王家を継ぐ方が蘇我大王家にとっては安全策になります。この辺の考察になりますが、山背大兄王は書紀では聖徳太子の息子とはなっていない点があります。山背大兄王聖徳太子の息子としているのは書紀ではなく上宮聖徳法王帝説が出典です。原文は、

又聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子 名刀自古郎女 生児山代大兄王

他にも聖徳太子の后として

  1. 聖徳法王娶膳部加多夫古臣女子
  2. 聖王娶尾治王女子

こう挙げられています。「馬子 = 聖徳太子」説が今日の前提なので馬子の娘が馬子に嫁ぐのは無理があります。そうなると逆じゃなかろうかです。前大王家の娘が馬子に嫁いだです。蘇我大王家と前大王家の関係からして十分にあり得る話です。そこで馬子の息子として山背大兄王は生まれたです。山背大兄王がクローズアップされるのはwikipediaより、

先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。

推古が後継を決められなかったのは蘇我朝廷内の意向が分かれていたからではないかと考えます。つまり蘇我大王家は馬子の息子である山背大兄王を後継にしたかったが、そこまで蘇我大王家が前大王家を取り込むのに異論が出たぐらいです。異論を斟酌した蝦夷天皇はあえて田村皇子を前大王家の後嗣にすることで格好の良いところを見せ信望を買ったぐらいです。そこまでして前大王家を取り込まなくても「もう」心配ないだろうぐらいの読みぐらいでしょうか。


入鹿と山背大兄王

蘇我入鹿はあれほどの有名人であるのに生母の名前が不詳です。これもあれこれ推測できるのですが、とりあえず蝦夷の息子であったのだろうです。さらに言えば優秀でもあったのだろうです。結果的には蘇我氏の最後の当主になりますから、実力もあったのだろうです。そんな入鹿の母の名前がないのは書紀的に「出せない名前」であったぐらいしか考えられません。出せない理由として思いつくのはまず出自が非常に低かったはありえます。もう一つ推測できるのは山背大兄王の母である「蘇我馬古叔尼大臣女子」の存在です。

この人物は上宮聖徳法王帝説では蘇我氏から嫁いだ事になっていますが、今日の推測では前大王家から蘇我大王家に嫁いだとしています。この嫁いだはずの蘇我馬古叔尼大臣女子が入鹿を産んだら無理があるの判断です。だから書紀では伏せてしまったです。つまりは入鹿と山背大兄王は兄弟だったです。おそらく兄が入鹿です。山背大兄王は一旦は前大王家の後継になる予定でしたが、これが異論があって潰れてしまった。ただ人物として信望があり、今度は入鹿の代わりに蘇我大王家を継がそうとする動きがあったぐらいです。

この動きに先手を打って動いたのが入鹿であり山背大兄王は殺されてしまったです。当時も入鹿は皇太子の地位にいたと思っていますが、皇太子であっても廃嫡があるのが権力闘争であり、そういう中で兄弟で殺し合いをするのも良くある話です。また晩年の蝦夷天皇の寵愛が山背大兄王に傾いていたのかもしれません。親が兄より弟を可愛がるのもまたよくあるお話です。二代将軍秀忠だって竹千代(家光)より弟の国千代(駿河大納言忠長)を可愛がって一悶着起こしています。


乙巳の変の舞台は必然的に蘇我大王家になります。天皇蝦夷であり、皇太子は入鹿である設定になります。そうなると入鹿の首が刎ねられた後に蝦夷が自宅で自殺するのは、その場で中大兄皇子に自殺を強要されたためと見る方が自然かもしれません。あるいは蝦夷もその場で殺されたのかもしれません。それだけでなく蝦夷や入鹿の子どもたちも次々に殺され、蘇我大王家は一時にして有力者を失ってしまった状態に陥ったぐらいを想像します。権力闘争はいつも凄惨なものです。

それでもって前大王家が復活するのですが、主役となった中大兄皇子は何者だろうです。さらに大海人皇子とは誰なんだろうです。書紀的には中大兄皇子大海人皇子舒明天皇斉明天皇の息子となっています。この斉明天皇も謎の人物で、舒明天皇の后になった時に書紀では38歳となっています。はっきり言って高齢です。今でも高齢ですが、当時の感覚からするとさらに高齢です。それとですが舒明が前大王家の後継になる時に山背大兄王と争った事になっていますが、舒明が前大王家の血筋のものなら后はやはり蘇我大王家から迎える事になりそうな気がします。つまり斉明天皇もまた蘇我氏の娘であるです。

斉明天皇斉明天皇の后になる前は高向王の妻であったとなっています。この高向王も斉明天皇の前夫であったぐらいしか記録が無く、さらに高向王との間に2人の子どもがいたとはなっていますがこの子供も行方知れずです。どうもですが蘇我氏の中でもそんなに地位が高いとは言えない人だった気がします。それと凄いのは38歳で舒明天皇の后になった後に中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子を生んだとなっています。当時であっても高齢出産で3人の子どもを産むことは無いとは言えませんが、やはり3人は多いんじゃなかろうかです。

書紀の基本的な謎の一つに大海人皇子の生年が不詳と言うのがあります。不詳な訳がありませんから、これはなんらかの理由で伏せられたとするのが妥当です。それと兄が中大兄皇子で弟が大海人皇子となっていますが、大海人皇子が年長であった説が根強く囁かれています。そうなると考えられるのは、

こういう関係ではなかったかと考えます。でもって大海人皇子はなかなか政界に進出できない地位に甘んじていたです。大海人皇子が台頭するのはそれこそ白村江の敗戦の後です。それまでは書紀でもどこにいたかわからない存在です。ここでなんですが、2人の皇子はどちらも蘇我氏の娘の子どもですが、中大兄皇子は意識として前大王家の血統を強く意識していたんだろうです。だからこそ乙巳の変の陰謀を巡らし蘇我大王家大虐殺を断行したです。一方の大海人皇子はもっと微妙ではなかったかです。

大海人皇子蘇我氏の娘の子ですが、父の高向王は二流以下の皇族だったかもしれません。つまり蘇我氏の一族だからと言ってチヤホヤされる様な存在ではなかったです。そのうえ母の斉明天皇は棚からぼた餅状態で前大王家の后になってしまい、そこで生まれた中大兄皇子に対しても低く扱われる経験です。前大王家にも、蘇我大王家にも思い入れが深くないぐらいでしょうか。それよりも何とかのし上がりたいアクの強い性格を想像します。


中大兄皇子乙巳の変から始まる大化の改新で辣腕を揮いましたが、白村江を境に強権政治に影が差すことになったと考えています。そういう情勢になると反中大兄皇子勢力が形成されるでしょうし、反中大兄皇子勢力には旧蘇我氏系勢力も多かったと見ます。そこでは大海人皇子は旧蘇我大王家の一族の顔を見せて支持を集めたんじゃなかろうかです。もちろん非蘇我系豪族には前大王家(天智大王家)の顔です。この勢力は膨れ上がり最終的には壬申の乱となり政権奪取に結びつく事になります。

そのまま蘇我大王家の復活にしなかったのは冷静な判断力も持ち合わせていたと考えています。蘇我大王家の復活は連動して天智天皇の敷いていた律令政治路線の否定にもなりかねません。そういう王政復古は政治路線としてやりたくないです。現在の情勢からすると政治姿勢は天智路線を踏襲するべきであるとの判断です。そのためには天智天皇を否定してしまってはかえって混乱しますから、広い意味の継承者と見なされる事に我慢できたです。つうよりも、天武の考え方として天智の律令路線は政治遺産として受け継ぐが、自分の家は蘇我大王家でも、前大王家でもなく天武大王家であるぐらいの自負だったとする方が適切かもしれません。


持統と不比等

ここで思い出して欲しいのですが、書紀は天武の意向で作られた訳ではありません。天武の死後に持統と不比等の意向で作られたものです。孫の文武への継承のために万世一系説を不比等が献策しこれを持統が容れたわけですが、当然「どうつなぐ」の話は出た気がします。持統にとっても蘇我大王家と前大王家(天智大王家)の関係は身近なものだからです。天武大王家は天武が既に亡くなっているのでどうとでも継げます。どうとでも言うか、単なる兄弟継承でそれ以上は工夫の余地がありません。兄弟でもここはOKとしないとこれは覆せません。あまりに近い歴史だからです。

問題は前大王家と蘇我大王家の繋ぎです。これが難題でどう飾っても簒奪です。ただ壬申の乱に較べる少々古い分だけ脚色の余地はあると考えたんじゃないかと思います。蘇我氏乙巳の変で弱体化していますから、ここの口さえ封じれば創作の余地が出てくるぐらいです。おそらく不比等万世一系案は架空の永世大王家を作る話が骨子だったはずです。当然現在の天武大王家もそうなんですが、天智が属していた前大王家に是非つなぎたいの意向が持統から出たんじゃなかろうかです。言うても持統は天智の娘だからです。

持統の意向は天皇の意向ですから不比等は前大王家の当主を天皇に据え、足らないところは斉明重祚でつなぎ合わせたぐらいを想像します。不要になった蘇我大王家は業績のみを仕方がないから聖徳太子を創作して担わせたぐらいです。天智も属した前大王家を永世天皇家にした関係上、蘇我大王家は抹殺され、存在は他の元大王家と同様に「昔からの臣下」として扱ったぐらいです。蘇我大王家問題さえクリアすれば後はもっと古いお話ですから、ペタペタと系図を切り貼りして神武まで遡って書紀の歴史は無事万世一系に落ち着いたぐらいです。

だからこの時代の系図は複雑になっているのだと思っています。強引に多系を一系につなぎ合わせるために兄弟とか叔父・甥関係を作る事が必要になり異母異父兄弟結婚を頻発させざるを得なくなったぐらいです。そうそう聖徳太子があれほど神格化され鄭重に扱われたのは蘇我氏の鎮魂のためだったは私もそう思います。表向きは逆賊扱いですから蘇我氏の霊を直接宥める事は出来ませんから、代わりに聖徳太子を祀る事によってそうしていたぐらいです。聖徳太子ならいくら祀っても問題ないぐらいのところです。ひょっとすると残存する蘇我氏への口封じのバーターだったかもしれません。

当時でも日本書紀に書かれた歴史は「おかしい」と感じる人はいたとは思います。ただ持統が関与した公式の歴史書ですから公言する事自体が罪にされる危険性が高かったと見ます。いや持統がそう宣言していた可能性もあります。持統に取っても日本書紀は趣味の歴史書ではなく、政治生命をかけた宣伝書であるからです。さらに朝廷内には藤原氏勢力が台頭し、他の氏族は次第に衰退していきます。藤原氏もまた日本書紀の歴史は氏族にとって絶対です。いつしか「ちがう」は完全に消え去り、日本書紀しか歴史は残らなかったのかもしれません。