天ぷらムック

天ぷらのルーツ

前に油のお話をやった続編です。天ぷらは非常にポピュラーな料理なのですが、起源はちょっと曖昧模糊としているようです。あれこれ調べたのですがとりあえずwikipediaです。

奈良時代 - 平安時代に伝来したものは米の粉などを衣にしたものであり、その後16 - 17世紀には西洋のフリッター(洋風天ぷら)が伝来している

フリッターは直感的にわかるのですが、奈良時代に伝来した物とは何かになります。これは日本辞典から引用します。

日本の揚物料理の歴史は古く、630年に遣唐使渡航が始まって以来、奈良・平安期の頃、仏教・政治・文化と共に大陸(中国)から伝えられて宮中で広まった「唐菓子(からがし)」が最初ではないかとされている。これは穀物の粉を練って油で揚げたものであったと推測されており、伝来当時は宮廷行事や大寺・大社の供物として用いられ、庶民には縁遠い存在だったようだが、粉を捏ねたり、油で揚げたりする唐菓子の技術は後の饅頭や煎餅などの菓子の誕生を促したと言われている。宮中や神社仏閣の儀式に神饌菓子として用いられることで継承され、現在も下鴨神社春日大社祇園神社などに製法が伝わっている。

これは天ぷらと言うより揚げ物のルーツみたいなものですが、この中にwikipediaに言う、米粉を衣にした現在の天ぷら類似のものがあったぐらいの理解で良いかもしれません。ただ揚げ物に必要な油が非常に高価であったため、それこそ神に捧げる特別食みたいな扱いであったとしてよさそうです。油の話にどうしても戻るのですが、仏教伝来は日本の獣肉食を封じます。結構食べていたの話もありますが、西洋や中国のように畜産業が発達せず、ラードを安価に手に入れる手段もなかったぐらいに考えています。そのために油となれば植物油か魚油になります。魚油は干鰯からそれなりの量の採取は可能でしたが、その特性から悪臭を発しやすく、照明用ならまだしも、揚げ物料理への使用は難しかったぐらいに考えています。そうなると植物油になるのですが、このルーツらしき事がwikipedia大山崎油座にあります。

胡麻は古代には主に食用として用いられることが多かったが、種子から油を取る方法が開発されたのに伴い、製油を目的に栽培されるようになったものである。なお中世後期から近世にかけて油の原料として新たにゴマ、綿実、菜種などが加わり、油そのものの用途も多様化していく。

古代の植物油はやはり荏胡麻油で良さそうで、胡麻油の出現は中世後期まで待つ必要がありそうです。もちろん主要用途は照明です。揚げ物料理に使うのは余程の贅沢料理の理解で良いかと存じます。さて遣唐使船がもたらした揚げ物料理ですが、次の要素が加わります。これも日本辞典から、

鎌倉期(13世紀頃)には禅宗の精進料理が本格的に伝わり、一般民衆にもその教えと共に普及し、精進料理から発展して茶懐石も誕生した。料理法における一番大きな変化は、油をエネルギー源として捉え、食材をゴマ油で素揚げする方法が日本で始められたことである。下味を付けた植物性の食材を主に用い、ボリュームや食感を考えて衣揚げにしたり、豆腐や葛等をうまく利用して肉類の代用としていたようだ。

精進料理の日本の料理に与えた影響は大きかったとされます。これまたwikipediaからですが、

精進料理の特徴は、野菜・豆類など、植物性の食材を調理して食べることにある。サラダのように一品の料理として野菜を生のまま食べるという概念が中国や日本の食文化に定着するまでは、野菜・豆類は基本的に加熱調理する必要があった。これらを使う精進料理は、あく抜きや水煮といった時間と手間のかかる下処理を必要とすることが多いのが、特徴のひとつである。これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。

また、精進料理は極めて単純な食材を、多くの制約がある中で調理するため、さまざまな一次・二次加工が施されてきたことも特徴のひとつである。例として、大豆は栄養価が高く、菜食で不足しがちなタンパク質を豊富に持つこともあり、精進料理に積極的に取り入れられたが、生食は困難である。このため、風味を向上させ、長期保存し、食べる者を飽きさせないといった目的も含めて、ごま油、豆豉、味噌、醤油、豆乳、湯葉、豆腐、油揚げ、納豆などが生み出された、こうした技術は、精進料理を必要とする寺院と宮廷を含むその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。

精進料理は肉食を避けるだけでなく、当時の食事概念として野菜を生食する習慣がなかったため、美味しく食べるためには高度の調理技術を必要としたぐらいで良いようです。懐石料理も本膳料理も大元をたどれば、精進料理から派生したとなっています。これで個人的には日本料理の謎の一つが解けた気がしています。世界の高度の調理技術は栄華を極めた宮廷料理をルーツにしているところが多いと思っています。各地から集めた豪華食材を贅沢に料理する必要性です。しかし残念ながら日本にはそこまで豪華な宮廷料理が花咲いた時期が案外ないのです。強いて言えば平安期になりますが、その当時の料理はたぶん系譜として残っていないと考えています。

禅寺の精進料理は、調理法は高度でも食材自体は豪華宮廷料理に較べれば野菜ですからずっと安価です。また禅寺も戦乱の影響はあったでしょうが、それなりに生き残り技術の伝承が現在に至るまで続いていると見る事が出来ます。どうも寄り道ばっかりで天ぷらに行き着かないのですが、3つ目のエッセンスが日本に伝来します。西洋のフリッターです。日本辞典より

戦国・江戸の世の16〜17世紀には、長崎に渡来した中国人や南蛮人を通じ、小麦粉などを衣にした魚菜などの揚げ物、言わば西洋料理のフリッターに近い揚げ物料理がもたらされ、長崎を代表する料理「卓袱(しっぽく)料理」の一部として定着した。このように揚げ物は日本古来の調理法ではなく海外伝来の調理法であったが、貴重品である油を大量に使うことから庶民の口にはなかなか入らない、特別な料理であった。

これが具体的にはどんなものかですがwikipediaより、

16世紀には、南蛮料理を祖とする「長崎天ぷら」が誕生している。これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。

つまり天ぷらには3つの伝来食品の系譜があり、

  1. 奈良期の唐菓子
  2. 鎌倉期の精進料理
  3. 戦国期のフリッター
ただなんですが私が思うにこれらは揚げ物であって、天ぷらではありません。衣をつけて油で揚げると言う点ではルーツですが、これを天ぷらとするには違和感がバリバリとあります。現代の感覚で言えば、揚げ菓子であり、油揚げの類であり、フライ料理です。これが天ぷらにかわるためには新たな変化が必要です。wikipediaより、

17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展する

16世紀に伝来したとされるフリッターはしっかりとした衣を付けたラードの揚げ物ですが、関西に来て変化したようです。変化したのは、

  1. ラードは日本で手軽に手に入らないため、まだしも入手が容易であった植物油に置き換えられた
  2. 衣はフリッターでは厚いものであったが、タネが野菜になったため薄くなった
こういう変化が起こったのはやはり精進料理の影響はありそうです。つうか、フリッターを精進料理に取り入れようとして化学変化を起こした結果かもしれません。精進料理との違いは「たぶん」ですが、精進料理の揚げ物は練ったものを中心に揚げ物にしたのに対し、つけ揚げはは野菜そのものを使う点ぐらいでしょうか。傍証として関西では今でも野菜の天ぷらの事を「精進揚げ」と呼びます。これは精進料理として取り入れられ、改良された名残かもしれません。個人的にはこれが天ぷらの元祖の気がしています。


江戸の天ぷら

江戸は新興都市です。家康以来、着々と整備拡大されていますが、その工事のためにたくさんの人々が流れ込んでいます。こういう大量の流入者が大きな都市を作ったのが江戸の気風の源流の一つのように思っています。それはともかく、同時に江戸は何度も大火に見舞われています。そのたびに大規模な復旧工事も行われるのですが、そういう職人相手の屋台料理が発達します。天ぷらもまたその一つですが、天ぷらは当初、純屋台料理として江戸で成立したとなっています。理由は高温の油料理ですから火事の危険性が高く、屋内での調理が禁じられたためとなっています。

江戸の天ぷらの元は関西からの野菜揚げで良いかと思いますが、江戸ではネタに海鮮を取り入れる点で新たな進展を見せます。天ぷらの定番中の定番であるエビ天は江戸で出来たで良いかと思われます。また天つゆに大根おろしのスタイルも江戸で確立したようです。江戸の天ぷら屋台がとくに広く定着したのは明暦の大火ぐらいの説もありますが、当時の屋台の天ぷらはネタに串を刺して挙げ、これを天つゆに突っ込んでから食べるスタイルであったようです。現在の串カツを彷彿とさせますが、案外串カツのルーツもそんなところかもしれません。説によるとほぼ現在の天ぷらに近いものだったであろうとされています。


前から疑問だったのですが、江戸前の天ぷらは胡麻油を使いキツネ色になったものであり、関西の天ぷらは菜種油を使った白いものです。なぜにこういう差が生じたかですが、これは江戸の天ぷらが海戦素材を取り入れたためであったの説明がありました。いくら江戸前の新鮮な魚介類と言っても、当時に有効な保冷技術はなく、どうしても生臭くなります。この生臭さを抑えるために香り高い胡麻油を江戸では使ったです。それとこれは私の推測ですが、当時の食習慣から、関西の野菜揚げの野菜は下ごしらえ段階でそのままでも食べれる状態にあった気がしています。つまり関西の野菜揚げは調理の最終段階で衣をつけてサッと揚げれば完成であったのに対し、江戸前では生の魚介類を使いますから、火を通す時間も相対的に長くなったんじゃなかろうかです。値段的にも「胡麻油 > 菜種油」ですから関西のつけ揚げは菜種油に傾いたぐらいです。

これに派生する余談ですが、今はあんまり目にしなくなった様な気がしますが、かつては食用の植物油と言えば、サラダ油と、天ぷら油がありました。値段は「サラダ油 > 天ぷら油」です。お中元・お歳暮でセットになっていたものです。そうなっていた理由は他にもあるでしょうが、菜種油には有害なエルカ酸が含まれます。そのためアメリカでは食用が禁じられていたそうです。現在はエルカ酸を含まないキャノーラ種も普及していますが、サラダ油と、天ぷら油の区別もそこにあった気がしています。つまりエルカ酸を含まないのがサラダ油、含むのが天ぷら油です。もっともこれは個人的な推測にすぎません。


天麩羅の語源

これがまた諸説あるようで、まずは「てんぷら」の音の語源です。wikipediaから、

  • ポルトガル語の temperar (動詞:「調味料を加える」「油を使用して硬くする」の意。三人称単数で tempera) または tempero (調理あるいは調味料の意)であるとする説。
  • スペイン語・イタリア語の témporas (天上の日、斎日(en:Ember Days)の意)であるとする説
  • ポルトガル語の temporras (金曜日の祭り)であるとする説
  • ポルトガル語の templo (寺の精進料理)であるとする説
  • テンペラという絵具に由来するという説
  • ポルトガル語の temporal (一時的な・臨時の)から来たとする説
  • 油を「天麩羅」(あぶら)と書いていたものが後に音読されるようになったとする説
  • テンピユラリ(天火揺らり)を語源とするとの説

基本的にはスペイン語なり、ポルトガル語から由来したんじゃないかの説が有力のようです。私もそれを取りたいのですが、wikipediaにある天上の日、斎日、金曜日の祭り、寺の精進料理は基本的に同じものを意味すると解釈して良さそうです。具体的には日本辞典より、

キリスト教では金曜日の祭(キリストが処刑された日にちなむ)の行事を「テンポラ(天上の日の意味)」といい、この日には鳥・獣の肉は禁じられ、精進料理として魚の揚物を食す習慣があった。

キリスト教伝来時にテンポラの習慣もまた伝来したと考えます。宣教師は信者にテンポラを振る舞ったと考えても不思議ありません。このテンポラ料理を食べた信者が美味しいと感じ、「この料理はなんと言うか?」と質問したと思います。宣教師は「これはテンポラの料理である」と答えたぐらいの想像です。宣教師側はテンポラの日に食べる特別料理の意味のつもりだったのが、日本人信者は揚げ物をテンポラと解釈したぐらいでしょうか。当時の宣教師の発音が「テンポラ」だったのか「テンポーラ」だったのかは知る由もありませんが、どちらにしても「ポ」の発音は日本人には聞き取り難く転訛して「てんぷら」になったぐらいです。

「てんぷら」が仮に「テンポラ」が語源であったとして、これが天麩羅になった説もweikipediaにあります。

  • 揚げ油の上辺(天)にゆらゆらする小麦粉(麩)さらに羅の印象を寄せ集めた当て字であるとする説
  • 江戸時代の戯作者山東京伝による、「天竺浪人がふらりと江戸に出てきて始めた」ことを由来とする創出という説
  • 「天麩羅阿希(あぶらあげ)」といわれていたものの「阿希」が取れて読みが変わったものとの説

このうち山東京伝説が日本辞典にあったので紹介しておくと、

「天麩羅」という漢字の表記は、天保7年(1836年)ごろ鈴木牧之によって編纂された「北越雪譜」によると、天麩羅という漢字表記が生まれたのは江戸後期〜幕末のことで、当時、戯曲作家として著名だった山東京伝(さんとうきょうでん)が、上方(関西)から芸妓と駆け落ちしてきた浪人風の男が江戸で開店するにあたり、この漢字表記を与えたという。「大阪には魚を油で揚げた「つけあげ」というものがあるが江戸では見当たらないので夜店でこれをやってみたい。ついては、「魚の油揚げ」ではおもしろくないので、何か効果的な名前をつけてほしい」と依頼された京伝は、どこから来たとも知れぬ男(駆け落ちした者)だから天竺浪人だ、というところから「天」、「麩」は衣の小麦粉、「羅」は衣が羅(うすぎぬ)のようなところから「天麩羅」とシャレで付けたという。京伝はもちろん以前から「テンプラ」の名前を知っており、ふざけて名前を付けた話が面白いと評判になって世間に広まり、現在にも伝わったという。

この話は案外興味をそそられました。まず本当に山東京伝が「天麩羅」の当て字を作ったかどうかは今となっては確認しようがありません。ま、このエピソード自体にどれだけ信憑性が置けるかの話にもなってしまいますが、当時は関西では「つけ揚げ」、江戸では「てんぷら」と呼んでいたらしい事が判ります。仮にが一杯つく前提にはなりますが、「てんぷら」の語源が「テンポラ」であったとすれば、当然ですがフリッター料理は関西にも入っていたはずです。戦国期から安土桃山期には堺なりに普通に南蛮船は寄港していましたし、当時の堺の名物料理として南蛮料理(フォークとナイフも使っていたらしい)があったのも記録にあります。むしろ江戸まで遠征する南蛮船の方が少ない気がしないでもありません。

それでも関西ではつけ揚げと呼んでいたと言うことは、「てんぷら」と「つけ揚げ」は別の料理として認識されていた可能性があります。フリッターに近いものを「てんぷら」、そこから派生した野菜揚げを「つけ揚げ」です。これが江戸に流入した時にはオリジナルのフリッター料理は既に衰退(関西でもそうだったかもしれません)し、言葉だけ「てんぷら」として広まった可能性です。また、そこまで考えていたかどうかは不明ですが、オリジナルの「テンポラ」は魚の揚げ物です。これが関西のつけ揚げでは野菜になったのですが、江戸では魚介類が使われるようになります。これは揚げ物でも関西の「つけ揚げ」ではなく、オリジナルの魚介類を使ったものだから、「てんぷら」であるになった可能性もあるかもしれません。

江戸の天ぷらは関東大震災を期に衰え、関西の料理屋が東京に進出したとなっています。この時に関西風のつけ揚げが天ぷらの主流になったとも言われていますが、同時に江戸風の天ぷらを料理名として使ったんじゃないかと思っています。関西の「つけ揚げ」では東京人にはピンと来ず、やはり「天ぷらは天麩羅だ」てなところでしょうか。一方でフリッター料理にはフライ料理と言う新たなネーミングが普及し、つけ揚げは天ぷらに吸収されていったぐらいです。


天ぷら食いたい

天ぷらは江戸の三味(そば、すし、てんぷら)の一つになっています。このうち蕎麦はともかく寿司と天ぷらは高級料理に発展しています。しかし高級料理一辺倒かと言えばそうではありません。夕食を食べたら1万円以上する高級料理店がある一方で、街の惣菜屋でも売っているのが天ぷらです。もちろん家庭料理としてもポピュラーなものです。そうなったのは元が庶民の屋台料理から発達したもので、美味しいから高級店も取り込んだ歴史があるからで良いかと思います。

もう一つ、天ぷらの発展に欠かせない要素が油です。揚げ物料理の伝来が奈良期まで遡るのに対して、普及が江戸期まで広がらなかったのは、やはり油が高級品であったからで良いかと思います。料理用の油を安価に入手する手段がなく、菜種油の大量生産まで待たねばならなかったためで良いでしょう。そうそう、天ぷらと言えば家康の死因のエピソードとしても有名です。あんまり関係ないと言うのが今の定説ですが、ちょうど天ぷら(鯛と伝えられます)を食べた後に体調が一気に傾いたのだけは確かのようです。

でもって代々の将軍家では天ぷらが出なかったそうです。これは家康の故事に因んだ面はあるとは思いますが、それより揚げ物を屋内で行うことを禁じていたお触れによる方が大きいのではないかとされています。そりゃ、お触れを出した当人が屋内で天ぷらをあげて、さらに火事でも起こせば大失態になるからです。まあ、ここも揚げ物屋内禁止例も、家康の故事があるのでアッサリ出されたぐらいはありそうな気がします。全面禁止にしなかったのは・・・老中クラス以下は国許なりで実は食べていたのかな???