油のお話

本当は天ぷらの事を調べていたのですが、ついでのはずだった油のお話です。歴史ファンにとって油と言えば斎藤道三であり、司馬遼太郎の脚色もあるかもしれませんが、永楽通宝の穴に油を通して注ぎ辻売りするシーンは嫌でも思い浮かべます。「トゥトゥ、タラリ、トゥ、タラリ・・・」だったかな。現在の歴史学(と言うより歴史・時代小説)でも道三が油販売で財を成したらしいは否定されていない様で、道三の事を畏怖するときは「美濃の蝮」ですが、蔑む時には「油屋」とか「油商人」なんて使われています。

とにかくそれぐらい油は儲かったぐらいの理解で良いかと思います。この道三も商売した油ですが長い間「胡麻油」と思い込んでいました。今は様々な植物油がありますが、歴史的にはまず胡麻油があり、これが菜種油の台頭により取って代わられたぐらいの理解です。しかし調べてみるとチト違うようです。道三が扱い、日本で菜種油台頭前に使われたのは胡麻油ではなく、荏胡麻油だったとなっています。wikipediaからですが、

  • 日本においては、現在の京都府大山崎町周辺でエゴマから油をとったのが、搾油の最初であるとされるが、代替原料のひとつとしてごま油も作られていた。
  • 日本ではインド原産のゴマよりも古くから利用されている。考古学においてはエゴマをはじめとするシソ属種実の検出が縄文時代早期から確認されており、エゴマ種実は縄文中期の長野県荒神山遺跡で検出されている。また、クッキー状炭化物からも検出されていることから食用加工されていたと考えられており、栽培植物としての観点から縄文農耕論においても注目されている。中世から鎌倉時代ごろまで、搾油用に広く栽培され、荏原など、地名に「荏」が付く場所の多くは栽培地であったことに由来する。

植物学的には胡麻はゴマ科ゴマ属で、荏胡麻はシソ属になるそうです。もっとも元をたどれば同じだったようで、どこかで枝分かれしたらしいともなっています。ちなみに荏胡麻の変種が青紫蘇だそうです。どうもなんですが、日本で多く自生していたのは荏胡麻だったようで、これから誰かが油を搾る事を思いつき日本では主流となったぐらいの理解で良い気もしています。荏胡麻油が菜種油の台頭の前に姿を消したのはわかるとして、胡麻油はいつから出てきたんだろうです。wikipediaを信じれば、

    代替原料のひとつとしてごま油も作られていた
胡麻油の時代には「荏胡麻油 > 胡麻油」の扱いを受けていたらしい事は判ります。それと菜種油の台頭で荏胡麻油の時代は終わりましたが、荏胡麻油自体が滅んだわけではなく江戸時代でも番傘に塗っていたのは荏胡麻油だったとされます。もちろん現在も存在し販売されています。私も恥ずかしながら胡麻油と荏胡麻油が違うものと意識して来なかったので、味とか見た目にどれだけの違いがあるか判らないのですが、現在につながる胡麻油は江戸期になって普及した気配があります。これも怪しい傍証なんですが、胡麻油製造業者のHPで歴史を調べても、誇らしげに書いてある伝統製法が江戸期より前になかなか遡らないからです。

「どうも」ばかりで申し訳ないのですが、荏胡麻油にせよ、胡麻油にせよ、菜種油にせよ、料理にも用いられましたが、主要用途はむしろ照明であったの理解で良さそうです。荏胡麻油が菜種油に押されたのは純粋に価格で、照明用なら安い方が優位に立ちます。これが江戸期に入り平和な時代になると、照明用より食用の用途の需要が広がった気がします。食用になると菜種油と胡麻油は用途が違います。胡麻の香りが料理に珍重される時代がやってきたと考えます。これも良くわからないのですが、食用になった時には「荏胡麻油 < 胡麻油」になったんじゃなかろうかです。食用としての胡麻油のメリットはやはり香りです。荏胡麻油はその点で胡麻油に劣ったと言うか、代用品の地位になってしまったぐらいです。


ところで胡麻にしろ荏胡麻にしろ栽培は案外難しかったようです。栽培地もどこでも種まきゃ生えてくる訳ではなく適地があり、さらに年によって出来不出来がかなりあったようです。自然に高価になり、照明用の用途ではどこでも勝手に生えてくるに近い菜種に押しまくられたぐらいです。ところが食用、とくに高価な料理を提供する料理屋とかになると値段の評価が違います。高級料理とはそういう高価な食材を惜しみなく使うところに価値があったりするからです。

ここまで調べて江戸前の天ぷらと上方の天ぷらの話に進むはずだったのですが、残念ながら時間切れです。またの機会をお楽しみに。