ノアの方舟伝説

旧約聖書で有名なノアの方舟ですが、研究者の間ではギルガメシュ叙事詩に由来すると言われています。ほいじゃギルガメシュ叙事詩にはなんて書いてあるかですが、ギルガメシュ王は友であるエンキドゥの死を悲しみ、自分もまた死の宿命から逃れれないのではないかと考えるようになります。そこで不死を得たウトナピシュティムに会うために死の海を渡ります。そこでウトナピシュティムから聞かされるのが洪水と方舟のお話です。ちょっと長いですが一部引用します。

お前も知っているシュルッパクの町は、ユーフラテスの河辺にある町。その歴史は古く、そこには神々が住んでいた。
が、偉大な神々は洪水を起こそうとした。そこにいたのは彼らの父アヌ、彼らの顧問官・英雄エンリル、彼らの式部官ニヌルタ、彼らの運河監督官エンヌギ。
ニンシク・エアもそこにおり、彼らとともにいた。
しかし、彼は彼らの言葉を葦屋に向かって繰り返した。

    葦屋よ、葦屋よ。壁よ、壁よ。葦屋よ、聞け、壁よ、悟れ。
    シュルッパクの人、ウバラ・トゥトゥの子よ、家を打ち壊し、方舟を造れ。
    持ち物を棄て、生命を求めよ。
    生命あるもののあらゆる種を方舟に導き入れよ・・・
私は、エア神の仰せのとおりに町の長老や職人を丸め込んで方舟を造らせた。
そしてすべての銀を、すべての金を、すべての生き物の種を方舟に積み込んだ。
最後にわが家族、わが親族、すべての技術者を乗せた。
シャマシュ神は言った。
「朝にはクック(パンの一種)を、夕には小麦を雨と降らせよう。さあ、方舟に入り、戸を閉じよ」
シャマシュ神はそのとおりにした。私はそれから方舟の戸を閉じた。

その時がやってきた。
暁が輝き始めたとき、天の基から黒雲が立ち上った。
アダド神は雲の中から吼え、シャラト神とハニシュ神がその先駆けとなった。
エルラガル神が方舟の留め柱を引き抜き、ニヌルタ神が堰を切った。アヌンナキは松明を掲げ大地を燃やそうとした。
アダドの沈黙により全地が暗くなると、続く雄叫びで全地は壺のように破壊された。終日暴風が吹き荒れ、、大洪水が大地を覆った。
戦争のように、人々の上に破滅が走った。彼らは互いに見分けもつかなかった。
神々も大洪水を恐れ、アヌ神の天に昇ってしまった。神々はうずくまった。イシュタルは絶叫し、嘆いた。
「いにしえの日が、粘土と化してしまったとは!私が神々の集いで禍事を口にしたからか!どうして禍事を口にしてしまったのか!
人間を滅ぼすために戦争を命じてしまったのか!私が生んだ、わが人間たちが、稚魚のように海面を満たす・・・」
アヌンナキも彼女とともに泣いた。神々は嘆き、食物さえとらなかった。

六日七夜、大洪水と暴風が大地を拭った。
七日目、暴風と大洪水は戦いを終わらせた。大洋は静まり、悪風(イムフラ)は治まり、洪水は退いた。
光が地上に射した。
沈黙があたりを支配していた。
全人類は粘土に戻ってしまっていた。
私はそれを見て、泣いた。
あたりを見回すと、12ベールのところに土地が見えた。
方舟はニムシュ(あるいはニツィル、ニシル)の山に漂着し、止まった。
七日目になって、私は鳩を放した。鳩は飛んでいったが、戻ってきた。休み場所が見当たらなかったのだ。
私は燕を放した。燕は飛んでいったが、戻ってきた。休み場所が見当たらなかったのだ。
私は烏を放した。烏は飛んでゆき、水が退いたのを見てついばみ、身繕いし、引き返してこなかった。
そこですべての鳥を四方に放ち、山の頂を前にして供儀をささげた。

旧約聖書のノアの話を知っていれば、その類似性の高さに誰でも気が付くはずです。方舟伝説だけではなく、

    シャマシュ神は言った。
    「朝にはクック(パンの一種)を、夕には小麦を雨と降らせよう。さあ、方舟に入り、戸を閉じよ」
モーゼのマナの話を想起させます。他にもギルガメシュ叙事詩には七日と言う単位がしきりに出てきます。洪水の話もまた
    七日目、暴風と大洪水は戦いを終わらせた
この洪水の話をウトナピシュティムに聞いたギルガメシュは六夜を眠り七日目に起きたとなっています。友であるエンキドゥの死を嘆き悲しむのもまた七日です。七曜の起こりは旧約聖書天地創造の話から起こったの説がありますが、古代バビロニアでは既になんらかの理由で七日を単位として位置づけ、この習慣が旧約聖書成立時に影響を受けていたんじゃないかと推測させるものがあります。まあ、古代バビロニアも基本は太陰暦であったとされ、太陰暦ならこれまた1か月は28日が基本であり、これを2で割ると14日、さらに2で割ると7日です。カレンダーを作れば7日が基本になっていただけかもしれません。


方舟の実在性

聖書の方舟は作り話と見る一方で、実在したと考える人も昔からいました。聖書ではアララト山に漂着したとなっています。だからアララト山にあるはずだと探検隊まで送り出された事があります。たんだアララト山は小山ではなく5137mもあります。富士山よりさらに2000mぐらい高い堂々たる高山です。こんな山の山頂しか残されていない洪水なんて起これば、人類だけでなく陸棲生物の殆どが死滅してしまいます。ほいでも現在でもアララト山にあると信じている人はいるわけで、X51.orgには、

2003年、民間の商用画像衛星によって撮影されたアララト山(トルコ)の”ノアの箱船”の高解像度画像が、この度、一般公開されたとのこと。今回、公開された”箱船”と言われる物体の画像は、アララト山腹北西部、標高4,663mの地点で撮影されたものである。物体は氷河の中に埋没した状態で、その氷床下はまだ明かではない。しかし米ヴァージニア大学リッチモンド大学助教授、ポ−チャー・テイラー氏によれば、物体の形態は旧約聖書に描かれるノアの箱船とピタリと符号しているという。テイラー氏は、聖書に描かれるノアの箱船の縦横比率が6:1(300キュビット:50キュビット)とされていることを挙げ、衛星写真に映し出された物体がやはり6:1の比率を示していたことを指摘している

画像も出てまして、

個人的には記事にもある岩の影じゃあるまいかの指摘に首肯しますが、ロマンはロマンですから、今後の調査が待たれるぐらいにさせて頂きます。


ギルガメシュの方舟の実在性

一方でノアの方舟伝説の基になったギルガメシュ叙事詩の方舟の製法が粘土板から見つかったの話が出てきています。ABCニュースからなんですが、これが、まあ英文記事です。がんばってリンク先を読んでいただくようにお願いします。そこに紹介されているのが楔形文字が記された粘土板です。

記事によるとcoracleと呼ばれる船の製造法の拡大版のようです。coracleってなんじゃいと言うことになるのですが、画像を調べてみたらありました。
coracles - カーマーゼンシャー、Cenarthの写真
Cenarth
他にもメイキングの動画もありまして、
どうもなんですが一般的にはcoracleは小舟と訳される事が多いようで、基本は葦を編んで船体を作り、お椀のような小舟のようです。製法としてはギルガメシュ叙事詩にある
    葦屋よ、葦屋よ。壁よ、壁よ。葦屋よ、聞け、壁よ、悟れ。
    シュルッパクの人、ウバラ・トゥトゥの子よ、家を打ち壊し、方舟を造れ。
この記述に一致すると言えば一致します。通常のcoracleはお椀部分だけなんですが、粘土文字盤の方舟は屋根と言うか上まで完全に覆ってしまい、球形の水密構造にするようです。たしか津波用の救命ボートとして販売されているのもそんな形でしたから、理屈としては間違っていないようにも思います。ただ問題はこういう作りで大型化が可能なのだろうかです。一人乗りないしは、数人乗り程度の船なら葦を編んだ程度でも作れると思いますが、大型船になると葦じゃ無理じゃなかろうかです。やはり構造材が必要になると思われます。

この木材が古代であってもバビロニアでは入手が難しそうな気がします。ギルガメシュ叙事詩でもギルガメシュとエンキドゥはメソポタミアには存在しない大木を求めて冒険の旅に出ます。現実的にはレバノン杉を求めに行った可能性はありますが、それはともかく大きな船の構造材になりそうな巨木はギルガメシュの時代ですら無かったと受け取れるからです。記事によると粘土板に従って実際に作ってみるそうですから、続報を楽しみにしておきます。


洪水伝説の雑考

ギルガメシュ叙事詩を改めて読み直していたのですが、ギルガメシュ本人も洪水伝説を知らなかった構成になっています。ギルガメシュの冒険は長く、実際にどこに行ったのかの比定は意味があるかどうかはわかりませんが、ギルガメシュ叙事詩にはギルガメシュがウトナピシュティムに会うために大洋を渡る部分にこんな記述があります。

しかしギルガメシュは言った。

「私はエンキドゥゆえに苦しんでいるのだ。酌婦よ、あなたは海辺に住んでいる。私に道を示してくれ。そのしるべを私に与えてくれ。
そのほうがよければ、私は大洋をも渡ろう。よくないならば、私は荒野をさまようだろう」
シドゥリは言った。
ギルガメシュよ、この大洋を渡った者はいません。そこを行く者は誰も戻ってこれません。シャマシュ神のほか、誰も渡れません。
渡航は困難を極め、そこに至る道はさらに困難。その間には死の水があり、行く手を遮っています。あなたに何ができるというのです?
・・・ただ、ウトナピシュティムの舟師ウルシャナビがいます。彼は『石物』を持ち、森からひこばえを切り出しています。
さあ、行きなさい。彼のもとへ。もしその方がよいと思うならば、彼とともに海を渡りなさい。よくなければ、引き返しなさい」
ギルガメシュはウルシャナビのいる森に着くと、斧を振り上げて木を伐り始めた。ウルシャナビはその音を聞きつけ、ギルガメシュに気付いた。
ギルガメシュは彼を見つけると有無を言わせず捕らえ、縛り上げて樹に釘で固定すると、「石物」を奪い、これを船に積んで舟を漕ぎ出した。
しかしウルシャナビなしでは舟はまともに進まない。「石物」の重みで舟がなかなか進まないのに業を煮やしたギルガメシュは、それを打ち砕いてしまった。
大洋に漕ぎ出したギルガメシュは、「死の水」に出遭った。目の前に横たわる広大な「死の水」の恐ろしさに、ギルガメシュは舟を止めた。
そして引き返し、ウルシャナビの縛めを解き、彼に助けを乞うた。

ウルシャナビは言った。
「あなたは死の海を渡る護符であった『石物』を壊してしまいました。ですから、5ニンダ(30m)の櫂材を120本、伐り出してください。
皮をはぎ、水掻きをつけ、舟へ運び込んでください」

メソポタミアにはギルガメシュの時代でも大木がなかった訳ですから、ギルガメシュが船を作ろうとしたのはレバノンと言うか、地中海の東岸地域であり、渡った大洋は地中海じゃなかろうかです。渡った場所は・・・ロードス島とか、キプロス島ぐらいのイメージです。そこでとにかくギルガメシュはウトナピシュティムから洪水伝説を聞くわけですから、これはメソポタミアの洪水伝説ではなく、レバノンとかその地域の洪水伝説の気もなんとなくしています。ただあの地域で大洪水を起こす大河となるとナイル川ぐらいになってしまいます。

ナイルの伝説の可能性も十分にありますが、ちょっと違うことを考えています。サントリーニ島の事です。この島が古代に大爆発を起こしたのは知られていますが、これの関連はどうかです。つまりは洪水ではなく火山の爆発による津波じゃなかったんだろうかです。ちなみにサントリーニ島の最古の噴火記録はwikipediaより、

噴火 終了 備考
紀元前1610年 不明 ミノア噴火。前後14年のぶれがある。中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、火砕流、水蒸気爆発、ラハール、津波カルデラの崩壊、避難、犠牲者、大規模な物理的な損壊が発生。
紀元前197年 不明 パレア・カメニ島の誕生。中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火。
46年12月31日 47年2月1日 終了日には前後30日のぶれがある。中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、溶岩流、溶岩円頂丘、津波、新島の誕生。
726年7月25日 不明 前後45日のぶれがある。中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、溶岩流、溶岩円頂丘、被害の発生、新島の誕生。
1570年 1573年 中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、溶岩流、溶岩円頂丘、新島の誕生。
1650年9月27日 1650年12月6日 山腹噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、溶岩流、津波、新島の誕生。犠牲者、被害の発生。
1707年5月23日 1711年9月14日 ネア・カメニ島の誕生。中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、溶岩流、溶岩円頂丘、被害の発生。
1866年1月26日 1870年10月15日 中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、溶岩流、溶岩円頂丘、新島の誕生。犠牲者、被害、避難の発生。
1925年8月11日 1928年3月17日 中央部の噴火、割れ目噴火、爆発性噴火、水蒸気爆発、溶岩流、溶岩円頂丘。
1939年8月20日 1941年7月2日 終了日に前後1日のぶれがある。中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、水蒸気爆発、溶岩流、溶岩円頂丘。被害の発生。
1950年1月10日 1950年2月2日 中央部の噴火、割れ目噴火、海中噴火、爆発性噴火、水蒸気爆発、溶岩流、溶岩円頂丘。


最古の記録が紀元前1610年ですが、それ以前もあったと考えて良い気がします。紀元前1610年から始まったと考える方が無理があります。別にサントリーニ島でなくても良いのですが洪水ではなく火山の噴火による津波じゃないかと考えるのは、
  1. 広範囲が水没している
  2. 方舟を作り乗った人々はこれを予想している
予想は神のお告げにはなっていますが、お告げじゃなければ噴火もしくは大噴火の前兆をとらえていた可能性があります。だから予見できたぐらいの考え方です。もうひとつあえて言えば、ノアもギルガメシュ伝説の方舟も、洪水で漂流したことになっていますが、川の洪水なら多くは下流に流されます。津波も押し寄せた後に引く時にさらわれる可能性はありますが、大型船であれば押し寄せる津波で内陸に運ばれ、そこで取り残される事も多々あります。先の震災で漁船なりが内陸部に取り残されたのは見られたかと思います。

もっともなんですが、いくらあれこれ考えても証拠など見つかるはずもないのですから、それだけのお話です。