郷土史ムック

なんとなくはまってしまって続けます。ローカルすぎて面白くもないと思いますが、個人ブログですから御容赦お願いします。


古代の三木と久留美

三木がどれぐらい歴史を遡れるかですが、地名の由来となった神功皇后伝説までありますが、他にも古い伝承は残っています。たとえば久留美にある皇垣内(おがち)ですが、これは日本武尊の叔母が住んでいた事に因むとなっています。日本武尊なんて出てくると神功皇后をさらにさかのぼります。wikipediaにある皇室系図ですが、

日本武尊景行天皇の子であり神功皇后の旦那である仲哀天皇の父です。つまりは神功皇后の義父にあたります。さらに皇子神という地名もあります。これは市辺押磐皇子が仮宮を構えていた事に由来するとなっていますが、市辺押磐皇子って誰じゃと言う話になります。これまたwikipediaの皇室系図を引用しますが、
恥ずかしながら今回調べるまで知らなかったのですが、この皇子は履中天皇の第1皇子だったとされ、皇位を大泊瀬皇子(雄略天皇)と争い殺されたとなっています。殺されたのが近江の蚊屋野となっていますから久留美とは関係ない気もするのですが、この皇子の子どもが志染の窟屋伝説につながります。父を殺された億計・弘計は難を逃れるために志染に潜伏し、後に宮中に迎え入れられて仁賢天皇顕宗天皇になった伝説です。もちろんこれが事実であるかどうかは不明です。記録は古事記ないし播磨風土記に依るものであり、第一級の資料ではありますが、史実としての信憑性はこの時代は怪しいからです。
私がこの二つの伝承から取り上げたのは、そういう伝承が残るぐらい古くから開けていた点です。無人の荒れ地でなかった点です。もう少しマシな事実を探すとコトバンクより、

播磨国美嚢(みなぎ)郡にあった荘園で,現在の兵庫県三木市留美を中心とする一帯に比定。具留美などとも書く。鎌倉〜南北朝期には九条家領,その後は奈良春日社領。14世紀初頭には定田75町3反余で,年貢82石余が海路九条家へ運ばれた。

この「海路九条家」が判りにくいのですが、別の記述には、

播磨国美囊郡にあった大乗院・春日社領荘園で,現在の兵庫県三木市留美を中心に長屋,跡部に及ぶ地域を占める。1305年(嘉元3)の領家方年貢米散用状によれば定田75町3反余で,真清名は地頭が年来押領し,長屋は地頭と中分,跡部は地頭請所になっており,定米82石7斗余の年貢は海路より奈良に運ばれたという。近行名は08年(延慶1)地頭と和与中分が行われており,33年(元弘3)には利松名の地頭の濫妨を止める後醍醐天皇綸旨(りんじ)が出されている。

海路とは奈良の春日社領荘園であった頃の事かと推測します。これもおそらくですが、美嚢川から加古川に下り、そのあたりから大阪方面に回航し、奈良まで運んだんじゃなかろうかと考えています。古くから開け、相当の古代から中央政権の支配下に置かれ、さらに有力貴族、有力社寺の荘園として発展したぐらいです。そのつながりで神功皇后の叔母が出てきたり、志染の窟屋伝説の舞台に自然に設定されるぐらいポピュラーな地域であったぐらいの見方です。

古代の繁栄の物的証拠としては古墳ですが、あるにはあります。ザッと調べて確認した範囲では、正法寺古墳群、愛宕山古墳、有安古墳などが保存されていますが、久留美との関係は不明です。これらの古墳は4-5世紀ぐらいの築造と類推されていますが、存在位置は三木の西方、つまり加古川流域に属すると見れます。加古川流域も古くから繁栄し、多くの古墳が存在します。しかし三木の東方には確認できる古墳がありません。強いて言えば大塚の地名の由来としてありますが、ブツが確認できません。これは元からなかったのか、破壊されて跡形も無くなってしまったのかは今となっては確認不可能です。個人的にはまず加古川流域が先に開け、新しい開拓集団が美嚢川を遡って新たな開墾地を作ったんじゃなかろうかぐらいの可能性も考えています。

さて久留美の地名は「胡桃」から来たのではなく、久米部からの転訛とされています。どう読んでも古代の稲作集団です。久留美荘に含まれる一角の地名に跡部と言うのがあります。これも以前から気になっていた地名で、なんの跡なんだろうです。これも便利な時代で手軽に調べられるようになっています。伝承では久米部の屋敷跡だそうです。屋敷跡は後に寺になり、三木合戦で焼失したそうですが、遥かなる伝承と言う他はありません。


古代の三木を想像するのは案外手間なんですが、美嚢川沿岸に沿って開かれた地域であるのは地理的に明白です。この美嚢川ですが、途中で志染川と合流します。合流した美嚢川はやがて加古川に合流するのですが、伝承の久米部は上で推測したように加古川流域からの開拓集団と見るのが妥当そうと思っています。この開拓者集団はどうも志染川の合流地点より上流に開墾地を選んだ気配があります。この傍証は芝町の町名由来の芝原の伝承です。川の近くの芝原は普通は残りません。そんなところはすべて田んぼになってしまうのが日本です。

これが芝原があったとの伝承が残っているのは田んぼにしようがない芝原であったと考えるのが妥当です。河川敷もしくは定期的な氾濫による荒蕪地みたいな感じです。この水害は志染川との合流地帯より下流はかなり強かったんじゃなかろうかです。治水が進んだ現代(昭和年代)でも美嚢川は水害を起こしていますから、古代はもっと頻繁であったのだろうの推測です。つまり古代の開拓集団であった久米部には手に負えない土地であったんじゃなかろうかです。

どれぐらいが芝原だったかは今となっては不明ですが、現在の地理から考えると、現在の東条町方面から東を見ると台地状の地形を呈しています。その台地の上が大雑把に大塚となるのですが、台地の下(西側部分)はすべて芝原じゃなかったろうかと想像しています。ここは久米部達に取っては手の付けられない芝原じゃなかったろうかです。そのため久米部達は合流地点から美嚢川志染川の上流に向かって開墾を進めていったと考えます。美嚢川上流は久留美から細川、さらに吉川方面に開墾が進み、志染川上流も山田方面に向かって広がっていったぐらいの想像です。

実はこの広がりを想定しないと大塚が久留美荘の一部であったが理解しくくなります。大塚は志染川の東岸から見て小さな丘を形成しています。小さいとは言え丘であるために古代では農耕地としては不適になります。水利がないためです。一方で居住地としては高燥地でなおかつさほどの高さもありません。そのために案外早い時点から、住宅地ないしは埋葬地として久米部達は進出した可能性は考えられます。この小さな丘の一角に岩壷神社があるのですがwikipediaより、

674年(天武天皇3年)に創建されたという。社伝によれば、神社裏を流れる志染川の中に岩があり、 その形が靫に似ていることから岩靫神社と称され、また、岩のあった場所が淵となり、壺の形に似ていることから岩壺神社と称されるようになったと伝えられている。

創建は674年ですが、志染川の中の磐座信仰はそれ以前からあり、これも合わせて神社創建前より神聖地として見られていた可能性もまたあると考えます。岩壷神社は大塚台地(とは地元の人間も呼ばないのですが・・・)の北側のやや下った一角にあります。大塚台地の一角と言うより、北側の麓とした方が正確なのですが、この地域の開墾は久留美村よりかなり遅かった気配があります。理由は現在は岩宮と呼ばれるこの地域が、江戸期には長屋村であり、久留美村とは別だった点です。つまり古代の久米部達は開墾しなかったんじゃなかろうかです。

長屋の地名の由来はここに三木城の武家長屋があった事に由来するとなっています。三木城に武家長屋が成立するのは秀吉時代以降であると考えるのが妥当で、ここに古代より入植者がおり村が先に成立していれば長屋村と呼ばれなかったと考えます。つまり元は岩壷神社も含む神聖地として手を付けられていなかった可能性です。そこに土地が空いていたので武家屋敷が作られ、武家屋敷が廃城で無くなった後に入植者が村を起こしたぐらいの想像です。三木は上述した通り、かなり古い地名が点在する地であり、わざわざ新興の武家長屋を村名にしたあたりに新興の村の気配を見ます。だから久留美村とは別に成立していたぐらいです。

留美に中世でも勢力があった事は播磨六箇郷と佐保社郷・福田保に見る事が出来ます。これは1294年に播磨国大部荘に同荘前雑掌垂水繁昌が多数の悪党を率いて乱入した事件の研究記録です。そこに

このとき繁昌と共に行動した近隣の悪党として、久留美荘地頭と六箇郷地頭代が知られている

この久留美荘は現在の久留美と比定するのが学会の見解となっています。ここからわかるのは、久留美荘は独立したそれなりに有力な勢力であったことです。どこかの従属勢力ではなく、独立した勢力もしくは地域であった事と見てよさそうです。


別所氏

別所氏は赤松の流れを汲んでいるのは確かなようで、苗字の起こりは三木の別所地域に勢力を持っていた事に由来するようです。別所の地名は現在もあり、上述した古墳の多くが別所地区にあります。この別所氏ですがwikipediaによると、

氏祖は平安時代、赤松氏の祖である赤松季房(すえふさ)の孫・赤松(別所)頼清(よりきよ)とされている。時を経て室町時代には、赤松敦光(あつみつ、赤松則村の弟・円光(の実名)またはその子)や赤松則祐の三男の赤松持則が別所氏の名跡を継いだ。

赤松氏自体が悪党出身みたいなところもありますが、中興の祖である円心の弟なりが本当に家を継いだかどうかは怪しい部分はあるんじゃないかと思っています。もっとも弟だから辺鄙な田舎の同族の家の跡継ぎに送り込まれてしまったぐらいは逆の意味で可能性はあるかもしれません。でもってその後の別所氏の消息は殆どないとして良さそうです。家伝は残されているようですが信憑性はどうかぐらいのお話です。そんな別所氏が台頭したのは則治の代になります。どこかの石碑に別所氏中興の祖と書いてありました。

この則治の台頭は本家の赤松氏が危急存亡の危機に立たされたためぐらいと解釈して良さそうです。播磨は赤松氏が守護ですが、北の但馬は山名氏が守護で両家の仲はあんまり良くなく、しばしば干戈を交えています。但馬播磨戦争は常に但馬側が優勢だったようで、1483年の時にも赤松側が大敗しています。この時の大敗は赤松守護の権威を失墜させるほどのものであったらしく、守護であった赤松政則は隠遁を余儀なくされただけでなく、播磨からも追われ和泉に亡命生活を送る羽目に陥ったとなっています。この亡命生活中に政則を支え側近として台頭したのが則治です。なんとなく名前も諱をもらった気がします。

この苦心はやがて実を結び6年後には山名氏を播磨からの駆逐に成功します。この功績は当然ですが復活した政則に大きく評価され、一挙に守護代まで取り立てられる事になります。それまで守護代は宇野氏でしたが、政則は宇野氏の勢力範囲を狭め西播守護代とし、則治は東播八郡の守護代になったぐらいです。この則治の出世は当時でも「突如」と評価されており、裏返せばそれまでの別所氏の家格はそんなものだったと言うことはできます。西播はその後、宇野氏の後退とともに、浦上氏、小寺氏、さらには本家であるはずの赤松氏が勢力争いをする構図になりましたが、則治は東播八郡に勢力を浸透させ、後継もそれを守り抜いて群雄割拠の播磨の中で有力な地位を占める事になります。ちなみに秀吉と戦った長治は則治の5代後になります。


三木城も則治が築いたとなっているのですが、それがいつかははっきりしない部分はあるようです。三木戦史に

明応元年(1492年)九月三木ノ釜山城ヲ築キテ之二拠リ

この時点の則治の動きは、1483年に赤松氏が山名氏に大敗し、1484年に赤松政則は和泉に隠遁となっています。この時の則治は所領は確保していたようで、政則復活の博打に賭けていたと見ます。それは、まあ良いとして政則の反攻は1485年から始まり、1489年には山名氏の播磨からの駆逐に成功しています。三木城に本拠を移したのはそのさらに3年後と言うことになります。それまでは君が峰に本拠地があったとされています。ここの解釈が難しいところで、いつから別所氏は君が峰に本拠地を構えていたのだろうかです。

別所氏はその苗字の通り、三木の別所地区を元々の本拠地としています。三木の地理をご存知の方なら判ると思うのですが、別所は三木の西の端で、加古川に近いところです。一方で君が峰は久留美の一角、かなり東側に寄ったところになります。久留美にも独立した勢力が存在したことは上述しましたが、この勢力と別所氏の関係はどうだったんだろうです。国人衆としてすんなり別所氏の配下になっていたと考えても良いですが、私の推理として両勢力は争ったんじゃなかろうかです。

旧市内の美濃川沿いは芝原の荒蕪地であったと、これも上で推測しましたが、時代が下ると治水技術も向上し開墾が進み、久留美と別所の勢力圏が接触するようになった事態を考えます。緩衝地帯の縮小による衝突はよくあるパターンです。でもって勝ったのは別所氏です。これもただ勝っただけなら、久留美を版図に組み込めば良いだけですが、本拠地を久留美にまで移したところに興味が出ます。理由として考えられるのは、

  1. 留美の残存勢力の警戒のために本拠地を移す必要があった
  2. 別所よりも久留美の方が栄えていた
どっちがと言うより、どっちもの可能性がありそうに思っています。それぐらい当時の久留美は栄えていたんじゃなかろうかです。別所氏としては家の興隆のためにどうしても久留美が欲しくて、これを併呑し本拠地ごと移転したぐらいの推理です。ただ君が峰の地は別所、久留美の領主ぐらいなら適当でも、東播八郡の守護代としては城池も狭小で、別所と久留美の中間点の現在の三木城の地に本拠地を移したんじゃなかろうかと考えています。こんな事はどこにも書かれていないので全部推測であることはお断りしておきます。