真の学力ってなんだ???

とりあえず

ある方が「学習・勉強なんて面白いものではない」としていました。義務教育、いや高校教育、学部によっては大学教育でさえ基礎学力の養成時期にあたると私は考えています。スポーツで言えば競技に必要な基礎体力の鍛錬時期です。スポーツの基礎体力の鍛錬時期は辛気臭いものです。それこそ走ったり、腹筋運動をやったり、腕立て伏せを繰り返して行う時期です。この時期が面白いと思う人はそうそう多くないと思っています。しかし基礎体力を付けないと競技の入り口にさえ着けません。そりゃ、頭の中でいかに華麗な活躍を妄想しても、体が動かず、ついていけないからです。

基礎体力の付いてから初めて競技の基本手技が始まります。基本手技の習得はは基礎体力の鍛錬時期に応じてレベルが上がっていきますが、これまた初期のものは面白くない事が多いものです。ただ基本手技の習得も重要です。その競技の様々な発展手技も、すべて基本手技の土台の上に構築されているとして良いからです。そのため基本手技の練習も体に刻み込まれるまで果てしなく繰り返されます。

こうやって基礎体力がつき、基本手技を習得してから「やっと」次の応用手技の習得が始まります。応用手技については青天井に近いぐらい「上には上がある」世界ですが、その応用手技のどのレベルに達するかは基礎体力、基本手技をいかにしっかり身に付いているかで差は出ます。逆に言えば、基礎体力・基本手技が身に付いていれば、あるレベルまでは確実に達します。そこから先は悪いですが天賦の才の問題があり、世界レベルまで達するのか、日本レベルなのか、はたまた並レベルで終わるのかは本人の努力を越えたものになってしまいます。これがスポーツの厳しさの一面と思っています。


話は学力に戻しますが、学力も基礎体力・基本手技を覚えさせられている間は面白くないと思います。面白さを感じだすのはやはり応用手技にチャレンジする段階になってからでしょうか。スポーツと学力の違いは、学力では基礎体力養成・基本手技の反復練習期間が長いためと思っています。文字通り延々と続きます。それと基本学力が身に付いてから達して欲しい応用学力の水準は科学の進歩により水準が後になるほど高くなるのも一つの特性と思っています(競技によってはスポーツも似た面があります)。

ある新発見が行われ確立すれば、やがてそれは基礎学力の中に組み込まれていきます。学力において応用編はその次の段階に位置付けられるからです。私の小学校時代に算数に集合が取り入れられた時期がありましたが、集合論はある時期の数学ではノーベル賞級の最先端の高等数学理論です。ところが時代が下れば、初歩とは言え小学校の算数で覚えるものになると言うわけです。私が好きな歴史だってそういう事は多々あります。医学なんて猛烈な速度でそれが行われていきます。

その結果として、基礎学力を身に付けるだけで10年、15年、さらになんて事になっている面は確実にあります。そんだけ長い間、基礎学力の習得に費やせば「勉強は面白くない」と骨の髄まで染み込まされても不思議とは思えません。だって、そこからやっと楽しい応用編の勉強が始まるからです。ほいじゃ、楽しい応用編は実際のところいつから始まるかと言えば、これも現実的には社会人になってからと考えています。つまり社会人になるまで延々と基礎学力の養成が続いている事になります。でもって楽しいはずの応用編は実社会の厳しい競争にさらされますから、実感的に楽しいなんて思う余裕がなくなってしまうとも考えています。


そういう基礎学力を判定する手段が世の中では求められます。中学入試、高校入試、大学入試なんかもそうでしょうし、文科省が行う全国学力テストなんかもそうだと考えています。あれはあくまでも基礎学力を計るためのものです。現時点では一番優れた物差しと思っています。もちろん完璧な物差しではありませんが、これに代わるより優れた物差しが存在しないとして良いかと思っています。もちろん完璧でないが故に、ペーパーテストで計れない能力はあります。

その計れない点を非常に問題視される方がおられます。おられても構いませんし、問題視するのも構わないのですが、欠点を重大視するあまりペーパーテストの全否定に走る傾向があります。そのために単に基礎学力を計っている物差しに重いと言うか違った意味を持たそうとします。どう言えば良いのか難しいのですが、基礎学力を他のものに言い換える、または定義を拡大する、すり替えるです。いわゆる「総合力」とか「人間力」とかです。これは基礎学力とはチト違うと思っています。

そういう主張されるのも構わないとは思うのですが、常々疑問なのはそんな壮大なものをどういう物差しで計るのかです。あれだけペーパーテストの物差しを激しく攻撃されるのですから、もっと客観的な完璧な物差しをお持ちなんであろうかです。それがなければ空理空論と批判されても致し方ないところがあると思っています。個人的には総合力とか、人間力なんて恐ろしいものを物差しで計って欲しくありませんし、計れるはずもないと考えています。もし計れるとすれば、人生の結果論による判定ぐらいでしょうか。

社会で生きていくためには基礎学力が必要ですが、求められる分野によっては十全な基礎学力を必ずしも要しません。その分野に必要な基礎学力さえ満たしていたら十分な事は多々あります。そこから先は応用編です。この社会のどの分野に自分の適性があるかは誰にも判らないと言うことです。判らないから人生は複雑で、楽しいのだと思っています。ペーパーテストはそういう適性を計る事はできませんが、計れないからこそ人は希望を持てると思っています。それはデメリットではなくむしろメリットと私は考えさえしています。