ディベートみたいなお話

しがない研究医様より、

いつも拝読させて頂いています。
大学時代に競技ディベートやってたのでちょっと悲しいので補足です。
誰が見てくれているかは分かりませんが…

辞典見れば分かるんですが、ディベートって英英辞典などに載っている本来の意味としては、相手を論破するのが目的じゃなくて、第三者にその意見の合理性を納得させるために行うものを指すんですよね。

だから、裁判とか(対裁判官)、学術論争とか(対大勢の学会員や一般人)が「ディベートらしいディベート」ですし、ただの議論のふっかけや、自分の承認欲求をアピールしたいだけのや軽躁病っぽい人が仕掛けてくるようなものは、定義上はディベートではないのです。

この時代になっても、朝ナマとか上祐とかの悪いイメージはまだ残っているんですね。

これへのレスを考えていたら長くなりそうなのでエントリーにします。モヤっとした考えがあるのですが、ズバッとまとめにくいのでこの際調べておこうぐらいです。


広義と狭義

元ソースがwikipedia程度なので申し訳ないのですが、wikipediaの記述はある意味、ディベートの専門家でない者のディベート観も示しているとも考えてあえて引用させて頂きます。まず日本人にとって歴史の浅そうな言葉であるのはわかります。理由は単純で定着した日本語訳が見当らなそうだからです。それになりに歴史を持って使われていたものなら、大抵はなんらかの日本語訳が付けられるはずだからです。またこれも荒っぽい理解ですが、日本語訳が付くと日本語での定義がそれなりに行われます。必ずしもは一杯ありますが、ディベートの使われ方は異常に広い感じです。最広義になると、

ディベートは、厳密にはディスカッション(discussion)や単なる議論とは異なるものであるが、一般にはこれらの区別なく「ディベート」ないし「討論」と呼ばれることが多い(最広義のディベート)。この語法は既に定着している感すらあるが、誤った使い方であるとの見方も根強い。

一方で最狭義になると、

様々な教育目的のために行われる教育ディベート(academic debate)が、単に「ディベート」と呼ばれることもある(狭義のディベート)。特に、教育ディベート関係者の間では、「ディベート」といえば通常は教育ディベートを指す。

教育ディベートでは、その多くが説得力を競い合う競技の形で行われる。競技として行われるディベートを競技ディベート(competitive debate)という(最狭義のディベート)。

ここも言葉の綾なんでしょうが、教育ディベートは狭義ですが、最狭義とは教育ディベートの中(ほぼイコールの印象もありますが・・・)の競技ディベートだとwikipediaはしています。たぶんしがない研究医様が主張されたかったのは、広義として用いられているディベートは誤用であり、正しいディベートとは競技ディベートから教育ディベートぐらいであるとの趣旨だと考えます。これではたぶん足りないので次の項目で補足します。


専門家ののディベートの狭義・広義

しがない研究医様から御紹介いただいた矢野善郎中央大学准教授によるCoDAにおけるディベートでは違った分類をしています。

まず押さえておくべきなのは,「ディベート」には,広い意味「公的な議論・討論」と,狭い意味「広義のディベートを,練習・教育するための試合形式の討 論」の二つがあるということです。

教育ディベートにしろ競技ディベートにしろ「なんのためにやっているか」があります。純粋に趣味的なものか、他の目的のためのトレーニング方法の一つなのかです。これに対し矢野准教授は教育ディベートは広義のディベートを練習するためのものとしています。ではでは広義のディベートはどういう定義なのかと言うと、

広い意味で用いられる「ディベート」というのは,次の三つの要素を持つような議論のことだと考えられます。

  1. 公に関わる(公共の・私的でない)問題について,
  2. 対立する複数の立場の意見をまじえつつ,
  3. (例えば開かれた集会やなどで)中立の第三者に対しても説得的であることを目的として行われる議論

ストンと納得されましたか? なんとなく言いくるめられた様な気がしたのは私だけではないと思っています。あえて定義づければ教育(競技)ディベートでは勝敗をジャッジが行います。詳しくは存じませんが競技ディベートでは一定のルールの中で発言機会が競技者の双方にあり、それが終わった時点でジャッジが勝敗を下す形式と存じます。広義になると正式のジャッジが存在しない代わりに聴衆なりが判断を下すジャッジになるぐらいでしょうか。

思い出したのは弁論大会です。弁論大会もあるテーマに副って弁士が持ち時間の中で説得力を競うものです。弁士はテーマに対して賛同するのも良し、反対するのも良し、条件を付けながら一部賛成・一部反対の立場を取っても良いものです。ただ弁論大会がイコールでディベートであるかと言われればチト違う気がします。矢野准教授は、

ディベート」の代表例としては,政策論争英米の議会での論戦,米国の大統領選前のテレビ討論 Presidential Debateなど),裁判・司法論争,科学論争などです。

選挙で候補者が一同に会して立会演説会をやったらディベートなんでしょうか。もう少し言えば選挙の時にある政見放送ディベートに当たるのでしょうか。この辺の定義は詳しくは無いのですが、そうであるような、そうでないようなってところです。


ディベートの定義は拡大しやすい性質があるんじゃなかろうか

弁論大会なり政見放送ディベートとの違いはおそらくですが、弁士同士のやり取りの有無の様な気がします。これは北大ディベートクラブにある実際のディベートの形式(format)の一例です。

形式 時間
肯定側(立論) 4分
質疑(否定→肯定) 2分
準備時間 30秒
否定側(立論) 5分
質疑(肯定→否定) 2分
準備時間 1分
肯定側(第一反駁) 3分
準備時間 1分
否定側(反駁) 4分
準備時間 30秒
肯定側(第二反駁) 2分


あくまでもディベート形式の一例であって、他の形式もあるはずです。注目しておきたいのは相手の発言を受けての発言調整がある点と思っています。競技ディベートですから説得すべき対象はジャッジなんでしょうが、競技者同士で対戦相手の主張の問題点とか、それこそアラを突付く機会が確実にあるわけです。決して相手がどう思い、どう考えようが自分の信じるところのみをジャッジに訴えるだけの弁論大会とは性質がチト違う点があります。

競技ですから戦術として、対戦競技者の主張の矛盾点とか、根拠の曖昧さを指摘するのは十分に成立します。対戦相手の主張を崩す事はジャッジへの説得に関して非常に有効なポイントになると考えます。もちろんそういう攻撃もあくまでも論理で行うもので、揚げ足取りとか、感情論オンリーではジャッジへの説得効果が落ちるのは言うまでもないと思います。



ただなんですが、競技ではディベート・ルールを熟知した者がジャッジですが、矢野准教授が「広義」としたものではジャッジは不特定多数の一般大衆になります。どうもここがディベートの定義を混乱させている要因の気がします。ディベートの一つの定義は、

    ジャッジを説得する事
狭義ではプロのジャッジになりますが、広義ではアマチュアどころかディベートの「ディ」も知らないような者もジャッジになります。むしろ日本ではそういうジャッジの方が多い気がします。狭義では勝敗は「次は頑張ろう」程度ですが、矢野准教授の「広義」では勝ち負けはそれこそ社会生命を賭けてのものになりかねません。つまりは勝てば官軍です。

そのために競技ディベートでは有効どころか逆効果と考えられる揚げ足取り、感情論、さらには誹謗中傷まがいの手法も平然と駆使されるのだと思います。広義の世界になると、上品に狭義のディベート・ルールを守る事より、「汚い」と言われようがあらゆる戦術を駆使してジャッジの支持をかき集めたものが勝利するするわけです。別に狭義のディベート・ルールを冒してはならないルールも存在しませんし、ジャッジもそんな事は念頭にすらないからです。矢野准教授もその辺の説明が難しくなるようで、

それに対し,「交渉」negotiationや「取引」bargain,「口げんか」 quarrelは,議論や話し合いの一種ではあっても,どこかしら「ディベート」的でない議論と言えます。

矢野准教授自身の中では「ここまではディベート」「ここからはディベートでない」の概念を持たれていると思いますが、明瞭に一線を引いて定義するのはチト難しいのかもしれません。つか論証は出来るのでしょうが、かなりの文章量が必要であり、なおかつケース・バイ・ケースでの各論的な部分も膨大に必要になり、とても簡潔には書き示せないぐらいでしょうか。


勝手な感想

ディベートに詳しい方に怒られそうですが、

この定義が是か非かです。この定義がもし正しければジャッジの性質に応じて説得技法が変わるのは是になります。これは矢野准教授が主張されている、
    ディベート」には,広い意味「公的な議論・討論」と,狭い意味「広義のディベートを,練習・教育するための試合形式の討 論」の二つがあるということです
これに基き、ディベート技術は実社会への応用が広義の目的であれば、多様な不特定多数のジャッジを説得する事こそがディベートの目的になってしまうからです。wikipediaを読んでも、矢野准教授の主張を読んでも、ディベートは「論理的である必要がある」と繰り返し書かれていますが、ジャッジへの説得が目的であれば必ずしも論理的である必要さえないのではないかです。たとえば眩暈のしそうな論拠で、お涙頂戴の感情論であっても、これでジャッジの多数派を説得できれば成功じゃなかろうかです。


ちょっと違う事を考えていたのですが、格闘技のジャンルで「異種格闘技」てな路線があります。格闘技とはタダの喧嘩ではなく、それぞれの格闘技で様々なルールがあります。ルール無用であれば、それこそサブ・マシンガンなり火炎放射器を持って戦っても良い事になります。だからルールがあります。もっと言えば1対1で戦うのもある種のルールで、なければ完全武装の1個師団なりアメリカ第七艦隊をを助っ人にしても良いわけです。

ディベートもある種の言論格闘技術だと見れます。もう少し狭めれば他者説得術の一つのジャンルだと見れない事もありません。競技として成立させるために様々なルールを設定していますが、実社会で不特定多数のジャッジを説得するとなれば異種格闘技の様相になる気がします。対戦相手は勝つ(ジャッジを説得するのに)ためにディベート・ルールを守ってくれる訳ではありません。説得のためにはあらゆる戦術を平気で駆使してくるわけです。異種格闘技の喩えがもう一つなら、プロレスラーが総合格闘技に参戦するようなものだとすれば良いでしょうか。プロレスラーの代わりに力士でも構いません。

ディベートを学んだものの基本戦術はやはりディベート技術と思いますが、競技ディベート・ルールの枠内で戦っていたら勝てないと判断すれば、勝つためにあらゆる戦術を併用するのは当然の事となります。勝たなきゃオマンマの食い上げになりかねないからです。もう少し言えば、最初は競技ディベート・ルールに基づいて論戦が始まっても、実社会では「これでは不利」と判断した時点で、他の戦術でこれを崩しに来るのが日常と言うところでしょうか。


念のための補足

誤解はして欲しくないのですが、だからディベートは何でもありの説得術だと言う気はサラサラありません。たったこれだけのソースで何か物を言うのは本当は無理があるのですが、wikipediaにある最広義のディベートを定義から外したいのであれば、ディベート自体を狭く狭く定義した方が無難な気がしただけです。そうですねぇ、論理的にと言う土俵に限定したプロのジャッジが判定する競技みたいな感じです。これを実社会にそのまま持ち込もうとすると定義が混乱すると考えるからです。

実社会で狭義のディベートがそのまま通用するところは、ジャッジがそういう素養を持った時だけの気がします。諺にある「人を見て法を説け」そのままで、説得対象によっては有用な技術の一つぐらいでしょうか。説得術そのものとしてとらえると私が曲解したような屁理屈が成立してしまうので、対象によっては有効な説得術の一つぐらいととらえた方が説明とか定義として無難そうに思います。

そうそう、教育効果として論理的思考を身に付けるのはまた違うお話ですから、ここも誤解無い様にお願いします。あえて使うなら議論によって、「これはディベートに則ったものである」「これはディベートとして認められない」ぐらいで分類するのに使うぐらいの方がより無難な気さえします。



あれこれ考えてみましたが、日本でのディベートの問題点は定義云々よりイメージの気がします。しがない研究医様が指摘された、

    この時代になっても、朝ナマとか上祐とかの悪いイメージはまだ残っているんですね
どう言えば良いのでしょうか、私が誰かとある公の問題に対して誰かと討議し、その討議過程が、こういう風に評価されたら嬉しいかと言われれば必ずしもそうとは言い切れない気がします。かなり複雑と言うか、どちらかと言うとマイナス・イメージの印象の方が強くて、返す言葉としてこれぐらいになってしまう気がします。そういう印象の持ち方をする方が悪いとか、間違っているの指摘は論理的には理解出来ても感情的に同意しきれない感じです。なんとなくまだ日本ではディベートへの理解が薄いと言うか、言葉としての定着が浅いからぐらいかなっと思います。まあ、浅くて薄いかから周知された出来事の悪印象が今でも拭いきれず、あえて払拭したいモチベーションが薄いのかもしれません。

なにか中途半端な論旨でしたが、これぐらいで私のレスとさせて頂きます。