生活発表会のお芝居

YOMIURI ONLINE大手小町(の発言小町)は釣り師が跋扈するところで有名なので、釣りの可能性が高いかも知れませんが、

これを読んで教師に心から同情しました。この話は釣りとしても、あちこちで実際に起こっている事だからです。もちろん類似の話は昔からあります。古典的なパターンなら、町の有力者(議員とか)が自分の子弟を優遇せよと捻じ込んで、校内とか、部活の人間関係がギクシャクするお話です。その後の流れはおおよそ3通りで、
  1. 主人公の策略で赤恥をかいて退場
  2. 有力者子弟の方が善人で、土壇場寸前で丸く収まる
  3. 2.と似ていますが、有力者子弟にも実は才能があり、エピソードの末に改心して主人公を支える脇役に転化する
ここでポイントは、優遇せよと捻じ込むのは何らかの権力者であり、その他大勢はその横紙破りを一致団結して憎む構図です。ところが最近はチト変化があるようです。別に憚るような有力者とか権力者でなくとも捻じ込む者が増えた感じです。つまり古典的には例外的な存在でなければ出来なかった横紙破りが、誰でも出来ると言うか、起こるようになってきた感じです。


端的によく聞くのは保育所や幼稚園の生活発表会です。私は遺憾ながらこの手の学芸会的なものはなぜかトンと縁がなく、お芝居なんてやった事もないのですが、娘がいる関係で見た事はあります。最初に見た時に違和感を感じたのはすべてダブルキャストである事です。これについては、年齢的に風邪をひきやすく、また季節的にインフルエンザシーズンなので役の保険とも聞かされました。たしかにダブルキャストを組んでも2人ともお休みなんて事も起こってましたから、一応納得できる理由です。

ダブルキャストは現実的な理由として理解するとして、役の割り振りは嫌な噂をしばしば聞きました。先生は1年間見た子供の特性で役を割り振っていると考えています。たとえば主役となれば、セリフも多いし、お芝居の軸でもありますから、それなりに「しっかりした子」を選びます。ところが親によっては納得しない者も出てきます。

    なんでうちの子は「村の子供」なんだ!
最後は「?」言うより「!」の方が感じが出ていると思います。「なんで」と言われても返事に困るところで、1年間見てきた結果として、
    あんたの子供が出来るのはせいぜい「村の子供」でっせ
こうストレートに答える訳にもいかないので、回りくどく説明するわけです。この「回りくどく」は社交として必然なのですが、聞く方としてはあたりがマイルドなので「こりゃ、押せばなんとかなる」として、
    うちの子が主役でもエエですよね!
こういう理解の押し問答にしばしば発展するわけです。なんとなくダブルキャストの根源も、表向きの病欠に備えるだけでなく、少しでも大きな役を増やしてキャスティングのトラブルを防ごうもあった気がします。この親からの突き上げがダブルキャスト程度で収まらなくなると凄いお芝居が出来上がったりします。ある知人の目撃談を紹介しておきます。

お題は桃太郎。主役は桃太郎で、脇役はキジ、サル、イヌになり、敵役は鬼になります。キャストとして人気があるのは桃太郎、妥協してキジ、サル、イヌで鬼は「嫌だ」になるわけです。様々もめた末、鬼が島に向かう桃太郎御一行は

  • 桃太郎5人
  • キジ、サル、イヌは2人ずつの6人
  • 鬼1人(1人休んだらしい)
桃太郎御一行と言うより桃太郎軍団に膨れ上がり、これが集団で1人の鬼を袋叩きにする様相になったそうで。そりゃ、あまりに多勢に無勢です。


それとこれも聞いた話ですが、白雪姫をやったそうです。誰もがやりたがったのは女の子なら白雪姫、男の子なら王子様、妥協して7人の小人です。魔女(王妃)は嫌がられ誰もならず鏡のシーンからリンゴを食べるシーンまでナレーションで進行です。クライマックスは白雪姫が目覚めるシーンになるのですが、

    7人の白雪姫に7人の王子様、それに3人の「七人の小人」
主役を奪い合った末に脇役が欠員になり、なんの劇かわからなくなったそうです。そりゃ14人も主役が舞台を占拠すれば大変です。

どうもこの手の騒動は年を追う毎にエスカレートしているようで、これも知人から聞いた話ですが、思い切ってリレー方式にしたところもあるそうです。つまりシーン毎に主役や脇役が入れ替わり、誰もが一応ですが公平にしたって感じみたいです。衣装はどうしたんだろうと思わないでもありませんが、きっと何とかしたんでしょう。ただこれは案外好評だったらしく、どっちみち親は自分の子供しか見ていませんから、自分の子供が主役の時のシーンがどこかにあれば満足みたいな感じです。


私は良く存じませんが、生活発表会でお芝居をするのは、子供に役割分担を教え、役割分担をしながら一つのものを作り上げる事を教育していると勝手に思っています。商業演劇ではありませんから、どんなに端役であっても心の中では「みんなが主役」であり、誰が欠けてもお芝居は出来ない事を自然に覚えるためのものと言ったら格好良すぎるでしょうか。

もう一つ重要なのは、お芝居の役割分担はあくまでもお芝居に限定される事です。シチュエーションが代われば、お芝居では端役だったのが今度は主役になることも同時に覚えて欲しいとは思ってはいます。それは難しいかもしれませんが、万能の人間など滅多にいませんが、すべからく無能な人間も珍しく、なんらかの才能を持っている(子供にはとくにそう期待する)からです。

子供だって劣等感を抱きはしますが、親が思うよりドライなものだと思っています。もちろんキャラにもよりますが、子供同士の付き合いで「アイツはできる」はある程度肌で感じています。だからこそ芝居で譲ってもお絵かきでは負けないとか、かけっこなら私が上とか、歌は私の方が上手いなんて差引勘定を内心でやってるわけです。

学校の勉強が始まれば学業成績が歳を重ねるごとに巨大な物指しになってはしまいますが、幼稚園・保育所段階ではまださほどのものになっていませんから、様々な方向の才能を評価するのが本道だと思ったりしています。そう考えるのがとっくに時代遅れなのかもしれませんけどねぇ。

それでもです。生活発表会は子供の成長を親に見せるのが目的ではありますが、親を満足させるとか、ましてや親に不満を抱かせないのが目的では無いと思っています。あえて親に不満を抱かせる必要はありませんし、できれば満足して貰う方が望ましいですが、親の満足を最優先に考えると歪んでいくような気はしています。


そうそう完全に余談なのですが、うちにも娘の生活発表会のビデオがあります。私は仕事で行けなかったのですが、その代わりビデオ編集をやらせて頂きました。撮影は当然奥様です。この最初のビデオがある意味凄い代物で、途中で編集のサジを何度投げようかと思ったものです。とにかくドアップでうちの子供が撮影されているわけです。

気持ちはわからないでもありませんが、全体像が編集する側としてわからないのが非常に困ったです。お芝居ですから、それなりにストーリーを追いたいのですが、主役やストーリーと関係なく娘のドアップが出てくるわけです。ありゃ、悪戦苦闘させられました。どんだけ細かくカットしたことやらです。

でもって編集が出来たものを見せたら「アップばかりで見にくい」が子供の評価でした。子供は自分よりお芝居全体がどうなっているのかに非常に興味があったようで(そりゃ、自分では見れないですし・・・)、私も内心奥様に悪いと思いながらソッとオリジナルを見せたら「頑張ったんや」とお褒めの言葉を頂いたのが嬉しい記憶です。娘は覚えていないだろうなぁ。