何度もやった一の谷ですが今回は総集編的なものです。狙いは一の谷丸山説の補強です。これは今のところ新説みたいですから嬉しそうに頑張ってみます。
須磨浦公園は現在でも一の谷の最有力候補です。そりゃロープーウェイからカーレーター、さらにリフトまである立派な公園として整備されたところだからです。一の谷丸山説を否定するには須磨浦公園一の谷を否定しないと先に進みません。まず須磨浦公園一の谷のgoogle earth画像です。
これだけでは否定になりにくいので、戦術上の問題点を挙げたいと思います。
屋島から大和田の泊に再進出した平家一門の発想も、大和田の泊・福原を中心に防衛戦術を練るのが当たり前の発想になると見ます。東の防衛線は旧生田川を利用して、現在の税関線(フラワーロード)あたりに築かれています。では西側になります。須磨浦公園一の谷とすれば、明石方面からの攻撃には塩屋が地形上有利そうですが、大和田の泊・福原との間に距離がありすぎます。
わざわざ退却路からこんなに離れた山中に本営を築く必要性がありません。さらにポイントは白川道の存在です。これは当時も健在で、白川道の途中にある妙法寺に清盛は寄進までしています。須磨浦公園一の谷の防衛のためには白川道を遮断するような防御施設を築く必要があります。そうしないと本拠である須磨浦公園一の谷の本営と大和田の泊・福原の間に源氏軍が進出されると連絡が容易に遮断されます。
ところがそんな話はどこにも出てきません。またそんな防御施設の存在の話も私の知る限りどこにも残っていません。そうなると白川道の防衛は平家は放棄したと考えるのが妥当です。白川道が通行可能であるのなら、須磨浦公園一の谷に本拠を置く意味がなくなると言う事です。以上の理由をもって須磨浦公園一の谷は否定します。
一の谷合戦で東の木戸(生田の森)の攻防戦はかなり詳しく描写されています。山から海までに至る延々たる防柵と、それに対する源氏大手軍の攻撃の様子です。しかし西の木戸については曖昧至極です。これは神戸文書館にある平家物語の「一二の懸」からですが、
六日の夜半ほどまでは、熊谷と平山は(義経率いる)搦め手軍にいた。熊谷は息子の小次郎を呼んで言うには「この方面は難路であるから誰が先陣だと争うどころではないだろう。さあ、土肥が向かった西の方へ行って一の谷への先陣を駆けよう。」小次郎は「最もなことでございます。誰もそう申したく思うでしょう。ならば早く攻めかかりましょう。」と答える。熊谷は「そうだ、平山もこちらにおったな。あやつも(先陣を切れない)乱戦は好まない者だ。平山の様子を見て参れ。」と言って下人を見にやらせた。思ったとおり平山は熊谷より先に出立の用意をして「人はいざ知らず、この季重は一歩も遅れはとるまいものを、とるまいものを。」などと独り言を言っていた。馬に飼葉を食わせていた平山の下人が「この馬め、いつまで食っているのだ。」と鞭で打ったのを平山は「そのような乱暴をするな。この馬とも今宵限りの別れだぞ。」と言って出立していった。様子を見ていた熊谷の下人は走り返って主人にこの様子を告げたので、それならばと熊谷親子も打って出た。
主従三騎が連れ立って、降りようとする谷を左手に見て、右手へと歩み行くうちに、永年人も通わなかった田井畑という古道を経て一の谷の波打ち際へ出た。一の谷の近くに塩屋という所がある。未だ夜は深いので土肥次郎實平は七千余騎で控えている。熊谷は夜に紛れて波打ち際からそこを一気に駆け抜けて一の谷の西の木戸口に攻めかかった。その時もまだ夜は深かったので、砦の中は静まり返って音もしなかった。熊谷が息子の小次郎に「搦め手は難所であるから(自分たちのように)我も我もと先陣を切りたがっているものは大勢いるだろう。既にここに来てはいるが、夜の明けるのを待ってこの辺に控えている者がいるかもしれないぞ。直実一人が心細く居るとは思うまい。いざ名乗ろう。」と並べてある盾の際まで歩み寄って鐙に踏ん張って立ち上がり、大音声で「武蔵の国の住人熊谷次郎直実、子息小次郎直家、一の谷の先陣ぞ。」と名乗りをあげる。砦の中ではこれを聞いて、「いいから音をたてるな。敵の馬の足を疲れさせ、矢種を射尽くさせておけ。」といって相手になるものも居なかった。
ここで確認しておきたいのは、
もう一つ何気ない記述ですが、-
一の谷の波打ち際へ出た
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一の谷の西の木戸口に攻めかかった
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砦の中ではこれを聞いて、「いいから音をたてるな。敵の馬の足を疲れさせ、矢種を射尽くさせておけ。」といって相手になるものも居なかった。
- 土肥次郎実平率いる搦手軍は塩屋の西側に布陣
- 熊谷親子ら3騎は塩屋の源氏搦手軍をすり抜けている
- 「田井畑という古道」は鵯越から塩屋付近に出る道になる
それよりも熊谷親子らは素直に白川道から板宿方面に出て行ったと考える方が地理的には無難です。でもって向かったのはそこからさらに東側にある平家の一の谷の西の木戸であったです。土肥次郎実平率いる搦手軍は塩屋付近まで進出はしていましたが、その鼻先を掠めるように西の木戸に先駆けを行ったと考えます。熊谷親子・平山の先駆けのあたりの吾妻鏡の描写は、
寅に刻、源九郎主先ず殊なる勇士七十余騎を引き分け、一谷の後山(鵯越と号す)に着す。爰に武蔵の国住人熊谷の次郎直實・平山武者所季重等、卯の刻一谷の前路に偸廻し、海辺より館際を競襲す。源氏の先陣たるの由、高声に名謁るの間、飛騨三郎左衛門の尉景綱・越中次郎兵衛の尉盛次・上総五郎兵衛の尉忠光・悪七兵衛の尉景清等、二十三騎を引き、木戸口を開きこれに相戦う。
義経は一の谷の後山(鵯越)に進出したとありますが、熊谷親子・平山はそこから先駆けを行い「一谷の前路に偸廻」したとなっています。時刻関係は、
ここで時間の読み方ですが、不定時法によるのでズレはありますが、春分・秋分の頃で言えば寅の刻とは午前3時から5時を指します。さらに「に刻」は午前3時半から4時の間になります。卯の刻とは午前5時から7時になります。そうなると熊谷親子らは鵯越から一の谷の木戸に2〜3時間程度で到着した事になります。それも山道の夜間進軍です。さらにこの日の天気は「2月7日 丙寅 雪降る」となっています。解釈として義経がいた鵯越陣地から平家の西の木戸は近かったの推論が出てきます。これを鵯越陣地を現在の妙法寺付近とすれば、そのまま義経は長柄越で逆落としを行い、熊谷親子らは白川道を下って一の谷砦の木戸に先駆けしたと考える方が自然です。つまり平家方は白川道に守りを置かず、もっと西側に防衛線を築いていたんじゃないかです。塩屋付近から進んできた土肥次郎実平率いる搦手軍は少し遅れて戦いに参加したとする考え方は成立します。
大きな疑問として残るのは何故に源氏軍は一の谷を攻めたかです。そりゃ本営があるのですから攻めても不思議は無いと言えばそれまでですが、西側から塩屋を越えて攻め寄せたのなら一の谷より大きな戦略目標があります。言うまでもなく大和田の泊です。ここを源氏に取られると平家軍は完全に浮き足立ちます。しかし源氏軍はあんまり攻めた形跡がありません。吾妻鏡からですが、熊谷親子らの先駆けの後、
その後、蒲の冠者並びに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競い来たる。源平の軍士等互いに混乱す。白旗赤旗色を交え闘戦の躰たらく、山を響かし地を動かす。凡そ彼の樊會・張良と雖も、輙く敗績し難きの勢なり。しかのみならず城郭は石巖高く聳えて駒の蹄通い難く、澗谷深幽にして人跡すでに絶ゆ。
「蒲の冠者」は東側の大手軍の事ですから、東側でも先端が開かれたぐらいで良いかと思います。西側の描写は
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しかのみならず城郭は石巖高く聳えて駒の蹄通い難く、澗谷深幽にして人跡すでに絶ゆ
九郎主三浦の十郎義連已下の勇士を相具し、鵯越(此の山は猪・鹿・兎・狐の外、不通の険阻なり)より攻戦せらるの間、商量を失い敗走す。或いは馬に策ち一谷の館を出る。或いは船に棹さし四国の地に赴く。
これは平家物語の描写ですが、
村上判官代康国の手勢が火を放ち、平家の屋形や仮屋はあっという間に炎上した。黒煙に追われて平家の侍たちは何とか助かろうと眼前の海へ大挙して走り出した。渚に船はいくらもあったが、船一艘に鎧武者が四五百人、時には千人ばかりも乗り込もうとしたからたまらない。三艘の大船が渚から三町ばかり漕ぎ出した所で沈んでしまった。その後は上級武士だけを船に乗せて、雑兵どもは乗るなとばかりに、太刀や長刀で打ち払われた。
どうにも大和田の泊は健在であったとしか解釈しようがありません。攻めなかったのか、攻めても落ちなかったのかですが、攻めていたなら一の谷本営の敗走と共に壊滅してもおかしくありあせん。私の結論としては搦手の源氏軍は大和田の泊を攻めなかったんじゃないかです。理由は兵庫歴史研究会が参考にした一遍上人縁起にあると考えます。
鎌倉仏教の開祖一遍の『一遍上人縁起』には、正安四年(1302)津の国兵庫島へ着いた時の兵庫の情景が記され、そこには「銭塘(銭塘江と西湖)三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる」と語り、鵯越の麓には大きく美しい湖があったと伝えているが、これこそ大きさと美しさで「一の谷」の名をつけられた湖である。
一遍上人が見た風景は一の谷の合戦後約100年後ぐらいのものです。兵庫歴史研究会はこの記述から大和田の泊の北側に大きな湖(遊水地)があると考え、その遊水地こそが一の谷であるの仮説を提唱されています。兵庫歴史研究会の一の谷合戦頃の想像図を引用します。
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兵庫島
これは平家物語しかないので延慶本から引用しておくと、
山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり
まず一の谷の位置なんですが、とくに先陣で、
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先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り
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一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり
大和田の泊の西側が大きな水域であったろう傍証がもうひとつあります。これは神戸文書館にある江戸時代前期の主要道です。
それでもの異論反論は出てくるとは思っています。とにもかくにも「一の谷」は源平合戦後に消えた地名となり、消えたが故に比定地論争が未だにあります。私の「一の谷 = 丸山」説もこれぐらいでは「そうとも説明できる」の域に留まらざるを得ないものになります。もう一段補強するには、源平関係以外で一の谷を特定する文章があると望ましい事になります。
ここで先日やった湊川の戦いのおさらいをしておきます。wikipediaの布陣図を再掲しますが、
- 尊氏は海路
- 直義は陸路
- 海路
- 陸路
陸地の軍勢も同時に打ち立って、辰の終わり(午前9時頃)に一ノ谷を越えるところで兵庫島を見渡すと、敵は湊河の向こうの山から里のあたりまで、旗をなびかせ楯を並べて布陣していた。これは、楠大夫判官正成の軍勢ということであった。
これはどう読んでも高台から見下ろした風景の描写です。それは
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一ノ谷を越えるところ
やがて巳の刻(午前10時頃)に、味方の三手の軍勢が、山の手、須磨口、浜手から馳せ向かった
つまりは攻撃の前に高台から見下ろしたものになります。さらにさらにこの3つの口ですが、大手の大将は直義であり、直義が越えたのは長柄越であるのは史実です。つまりこれが梅松論の須磨口です。そうなると朝廷軍の描写を行ったのは大手の大将である直義が妥当であり、同じ場所に立ったと考えられる義経もまた同じような描写を平家物語で行っています。
そうなると梅松論で「一ノ谷を越えるところ」とは長柄越の鹿松峠であり、越えたところは必然的に一の谷になります。ここで足利氏なんですがwikipediaより、
義国の次男・源義康(足利義康)は鳥羽上皇の北面武士となり、保元の乱においても平清盛、源義朝と共に戦う。藤原季範の娘(実は季範長男範忠の娘=源頼朝の母の姪)を妻にしている。その子足利義兼は治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に参加して、治承・寿永の乱、奥州合戦などに参加し、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を得、御門葉として源氏将軍家の一門的地位にあった。
尊氏の先祖である足利義兼は頼朝に味方して功績を挙げています。この足利義兼の一の谷合戦時の描写が吾妻鏡にあり、
蒲の冠者並びに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競い来たる
足利義兼は大手の範頼に属していたようですが、尊氏にしろ直義にしろ家系伝承としてどこが一の谷かは知っていた可能性があると思います。