産経の体罰容認記事

1/27付産経(Yahoo !版)より、

一定条件下の体罰は必要 殴るのにも技術がいる

 大阪市立桜宮高校のバスケットボール部の主将だった2年生が顧問教師の体罰後に自殺したことで、評論家やジャーナリストらの多くが体罰の全面禁止を主張している。大阪市橋下徹市長も「あらゆる体罰禁止」を打ち出している。国も各自治体も体罰の実態調査に乗り出している。

 生徒の自殺は痛ましい。顧問教師は、連日殴ったり、数十発殴ったり、唇を切ったり、「殴られてもええんやな」と発言していたという。これは明らかに教育の範囲を超えている。生徒はおびえ、教師と生徒の信頼関係は崩れていたとしか思えない。だから自殺してしまったのだろう。

 こうした事件が起きると、「それでも体罰は必要だ」と言うには勇気がいる。だが、私は、一定の条件下で体罰は必要だと言いたい。それはどのような条件か。

 まず、対象を故意行為に限るべきだということ。故意行為とはわざと行うことである。サボる、ズルをする、卑怯(ひきょう)な行為をする。責任を転嫁する、違法、不法行為をする−などである。みなが掃除をしているのにさぼったり、たばこをすったり、万引をしたり、といった行為に対して体罰を行うことは意味がある。ねじれた心を正すためである。

 もうひとつは暴力を振るう生徒に対しての体罰である。学校教育法では体罰が禁止されているため、生徒に暴力を振るわれても、教師は逃げるしか方法がなく、正当防衛行為すらできない。殴られた教師は泣き寝入りである。暴力生徒に対して、殴られる痛みを教えることは必要である。

 逆に、まじめに、一生懸命やっている者に体罰を加えることは何の意味ももたない。体罰を加えても、技能が向上したり、体力が充実したりしないからである。

 それと大事なことは、体罰は1発に限ることである。暴力を振るうと興奮して暴力をやめられなくなる人がいる。顧問教師はそのたぐいの人ではなかろうか。不法行為があったとしても、何発も殴っていいことはない。けがをさせてもならない。殴ってけがをさせるような者は殴る資格がない。殴るのにも技術がいる。

 こう考えると、かの顧問教師の体罰は、体罰ではなく単なる暴力であることが分かる。

 教師と生徒の間に信頼関係があれば、殴られても生徒は悪感情をもたない。その場合、体罰はむしろ有効である。だから、体罰の全否定には反対である。(編集委員 大野敏明)

ちょっとだけ注目したのは署名記事であることで、

編集委員が書かれた記事に注目するのもアレなんですが、今日はまあ良いとします。この記事に取り掛かる前に一つ予備知識をおきます。


学校教育法

まずですが、

第十一条

 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

これに関連して、

十三条

 第四条第一項各号に掲げる学校が次の各号のいずれかに該当する場合においては、それぞれ同項各号に定める者は、当該学校の閉鎖を命ずることができる。

 一  法令の規定に故意に違反したとき
 二  法令の規定によりその者がした命令に違反したとき
 三  六箇月以上授業を行わなかつたとき

2  前項の規定は、市町村の設置する幼稚園に準用する。この場合において、同項中「それぞれ同項各号に定める者」とあり、及び同項第二号中「その者」とあるのは、「都道府県の教育委員会」と読み替えるものとする。

あんまり自信が無いのですが、13条1号の「法令の規定に故意に違反したとき」には11条の体罰を行った者は入るはずです。ただしそれに対する処置は、同項各号に定める者(=教育委員会)が学校の閉鎖を命ずることができるに留まるようです。つうのも罰則規定には13条1号違反に対する罰則はありますが、11条に対する直接の罰則はない様だからです。

もっとも「体罰 = 暴行」であるのは明らかですから、これは明瞭な刑法の規定が存在しますから、学校教育法に定めていないぐらいの解釈でも良いかと存じます。私は法の素人ですからよく判りませんが、タダの暴行ないし傷害罪で留まるかにチョット疑問はあります。wikipediaで申し訳ありませんが、業務上過失致死傷罪の考え方に、

本罪にいう「業務」は、社会生活上の地位に基づき反復継続して行う行為であって、生命身体に危険を生じ得るものをいう(最判昭和33年4月18日刑集12巻6号1090頁)。

体罰を教育と称して日常的に繰り返す教師とか部活動の顧問は「社会生活上の地位」に基づいている気がしないでもありません。そりゃ、教師と生徒とか、顧問(監督)と部員みたいな関係でなければ、子供とは言え人を殴る行為が行えると思えないからです。もっとも、今回の体罰論争で浮上してこないところを見ると、教員の体罰が業務上に当たらないみたいなものが成立しているのかもしれません。


論説委員の主張を考える

まず注目したいのは、

    学校教育法では体罰が禁止されているため
学校教育法の規定がある事は論説委員氏もご存知である事がわかります。その上で限定された条件下での体罰容認論を展開されています。私が読む限り、体罰を禁止した学校教育法11条の改正を求めているようには読めません。論説委員氏が主張する限定的体罰容認の許可条件は、
  1. 教師と生徒の間に信頼関係
  2. 体罰は1発に限ることである

この2つの条件が成立する時には人を殴るという暴行を行っても構わないとしています。そういう条件での殴打であれば、
    殴られても生徒は悪感情をもたない
この論説委員の主張はある意味理屈です。学校とか部活動と言う閉鎖的な現場で、体罰が問題となるのは、体罰の事実が表面化したときです。そうならずに内に閉じこもりさえすれば「無かった事」になります。無かった事にするには、殴られた被害者が「お畏れながら」と事を表面化しない事が重要になり、そのためには上記のような条件が成立すれば
    だから、体罰の全否定には反対である
こうなるぐらいに解釈します。


信頼関係を考える

まあ世の中には、昔流行った青春熱血ドラマみたいな事を実地でやっているところもきっとあるんだと思っています。そういうところでは殴る側の教師が目を真っ赤に腫らしながら、

    お前のために殴るんだ! バシッ
こんな世界が展開し、殴った教師と生徒がヒシと抱き合って、夕陽をバックに大泣きするなんてのがあるのかもしれません。個人的にはあんまり見た事がありませんが、あるにはあるんでしょう。そういうところの体罰は殴られた方も美談にしかしませんから「勝手にやっとれ」とぐらいに思っておきます。そういう世界がある傍証ですがツイッター

@Yosyan2 自分は野球部でよく殴られたりはしてましたがその後、必ずその先生から精神的なフォローもしてくれていました。だから体罰とは感じたことはなかったです。

釣りかどうかは判定不能ですが、体育会系の人々の中には「おられるらしいぐらい」は聞いたことがありますから、こんな意見もあるとして出しておきます。それとは違うシチュエーションを考えたいと思います。論説委員氏の前提条件が整わなかった時はどうなるのかです。つまり

  1. 教師と生徒の間に信頼関係は成立していない
  2. 体罰は幾度も繰り返される
こういう状態は論説委員氏も書かれているように、
    顧問教師は、連日殴ったり、数十発殴ったり、唇を切ったり、「殴られてもええんやな」と発言していたという。これは明らかに教育の範囲を超えている。生徒はおびえ、教師と生徒の信頼関係は崩れていたとしか思えない。だから自殺してしまったのだろう。
「だろう」にあえて絡むのはやめますが、この顧問教師はこの生徒にのみ暴力を振るっていたのでしょうか。確か10年以上も顧問を務め、実績も上げられていたはずです。誰でも容易に推測出来るように、常習的に殴打による体罰を指導方針にされていた「だろう」です。もしそうならば、これまでの歴代キャプテンはどうこの殴打を受け止めていたのだろうかです。考えられるのは、
  1. 信頼関係が成立し、殴打に愛情を感じていた
  2. キャプテン(レギュラー)の座を守るために耐え忍んでいた
愛情説に基づけば歴代キャプテンは顧問教師に対し深い信頼関係があり、いくら殴られてもひたすら愛情を深めるだけだったになります。見様によっては凄い世界ですが、殴りに殴られることにより深い絆を感じていた事になります。忍耐説になれば、この場限りの我慢と思いながら耐え忍んでた事になります。まあ、どちらのタイプのキャプテンもいたとは思いますが、少なくとも顧問教師の目からは殴る対象がどちらであるかは見分けることが出来なかったのは間違いありません。

この延長線上で言えば

    暴力生徒に対して、殴られる痛みを教えることは必要である
これは殆んど成立しないかと思えます。こういう生徒と教師の間に「信頼関係」なんてあるんでしょうか。絶対に無いとは言えないかもしれませんが、有る方が少なそうな気がします。そりゃそうで、教師と生徒は赤の他人です。赤の他人が信頼関係を醸成させるには日常の接触になります。殴られても愛情を感じるような信頼関係を得るような教師にそうそう暴力を振るうとは思いにくいです。もう少し言えば、そこまで信頼関係があるのなら、
    殴られた教師は泣き寝入りである
信頼関係があり、生徒側は殴られても愛情を感じるわけですから、そういう信頼関係にある教師も殴られれば愛情を感じるはずです。だいたい信頼関係にある生徒に殴られて「泣き寝入り」するはずもなく、殴られた事によりさらなる生徒への愛が深まって然るべしでしょう。殴られた事に対する殴打の返礼は、単なる報復しとしか普通は言わないと思います。そういう個人による報復行為は行わないのが法治社会の原則と存じます。


執拗ですがもう一つ付け加えておきます。体罰は学校教育法11条で禁止されています。法で禁止されているものを勝手に理屈をつけて許容してしまうのは教育として如何なものでしょうか。法は社会のルールであり、学校と言う場では遵守を教えるのが基本かと思います。どうしても体罰として殴りたいのなら、学校教育法はもちろんの事、関連する刑法も条件によって殴れるように改正することを提言するのが筋でしょう。

法で禁止されている事を前提としながら、脱法行為の便法とか、妙な解釈をつけて許容させる主張は子供の教育に相応しくないと感じてしまうところです。


ある体験談

ある旧友の体験談です。旧友は高校時代バリバリの体育会系である野球部に所属していました。強さは中の上ぐらいでしょうか。弱小ではないが、強豪校には及ばないぐらいの強さです。そんな野球部がコチコチの野球強豪校と戦った時のお話です。相手は強豪校ですから、毎回のように塁上を走者を賑わすのですが、ギリギリのところで旧友の野球部がしのいでしまいます。スポーツでは時にそういう事があります。旧友の野球部はタマタマのワンチャンスを活かして得点し、そのまま逃げ切ってしまったとの事です。

旧友の野球部にすれば一生の思い出にするような大金星ですが、試合後が凄かったのが話のメインです。強豪校にすれば負けてはならない相手ですから、監督の怒りは心頭と言うところです。記憶が怪しいのですが確か春大会ぐらいの話だったと思います。勝って嬉しい旧友の野球部が帰りかけると、ある音が響いてきたそうです。

    バシッ、バシッ、バシッ
ご想像の通り、部員全体へのビンタの体罰です。たぶん理由は「あんな学校に負けるなんて、たるんでる」ぐらいで宜しいかと思います。体罰推進派の表現を借りると「気合を入れるための愛のムチ」でしょうか。球場から強豪校まではかなりの距離があり、球場に来る時は強豪校らしく専用バスで来ていましたが、帰りは監督のみ(部長もかな?)がバスに乗り、部員は学校までランニングだったそうです。そのうえ、その時の格好は・・・控えておきます。

旧友曰く、「ありゃ学校に帰ってからも半殺しだろう」としていました。もちろん部員たちが学校に到着した後にどうなったかは知る由も在りません。どっちかと言わずとも文化会系の私は聞いただけで怖気を揮いました。これだって論説委員氏の

  1. 教師と生徒の間に信頼関係
  2. 体罰は1発に限ることである

この条件を満たすかもしれませんが、私の肌には合いません。


体罰肯定派

まあそれでも体罰推進派は頑張っておられます

子供のための体罰は教育

罰は子供を強くするため、
進歩させるために行われます。
「叱るよりほめろ」では子供は強く
なることができません。
人間は強い分だけ優しくなります。
いかに多くの罰を受けたかが
優しさを決めます。
人のことを思いやる力をつけるには、
体罰は最も有効です。

これは平成21年6月26日に東京で行われた「教育における体罰を考える」シンポジウムのスローガンです。ちなみに第一部の対談の出席者は櫻井よしこ氏と、当時の東京都知事、現在の日本維新の会共同代表の石原慎太郎氏です。シンポジウムの内容の記録も残されており、スローガンを裏付けするようなものであった事が確認できます。


子供への体罰が好きな人間が少なからずおられるのがわかります。産経の論説委員氏も含めてですが、体罰推進派の人々は、殴る事により愛情が深まると確信しておられる事だけは窺えます。シンポの人々に至ると殴られると人は優しくなるとさえ主張しています。しかしどうにも違和感を感じます。人は肉親からでさえ暴力を受ければ心に傷を残す事はあります。ましてや赤の他人であればなおさらだと思います。

人を従わせる時にもっとも安易な方法は暴力です。優位な立場、優位な力で持って相手に暴力を行使すれば、相手に屈服せざるを得なくなります。とくに逃げ場がないシチュエーションならそうです。江戸時代の牢名主に対する服従みたいな感じでしょうか。確かに安易で手っ取り早いですが、暴力による服従は心に愛を育むというより、屈折をもたらす事が多いと私は思います。

暴力を揮い服従を強いる相手が弱くなれば、これを暴力で打ち倒すのが正当化されるわけです。またそういう安易な服従法を早期から叩き込まれると、自分が誰かを従わせる時に思いつく方法はやはり暴力になります。それしか知らないわけですから、さらに目下の力の弱いものへの統制法に安易に暴力を行使します。いわゆる暴力の連鎖であり、成人社会では宜しくないとするのが一般的です。

成人でダメなものが子供であれば良くなる理屈が不可解です。だいたい子供とはいつまで子供であるのかの話さえあります。子供の成長と言うか、人間の成長は様々です。早い年齢から精神成長が早いものもいれば、エエ歳でもガキそのものもいるのが人間です。それを外見から判別できるというのでしょうか。私の好きな言葉を一つ出しておきます。

    暴力は無能者の最後の拠り所である
出典は知っている人が多いので省略しますが、「拠り所」を「隠れ家」にする方が有名かもしれません。とりあえず、あるシチュエーションで地位の上位者に殴られれば殴られるほど愛を感じるとか、喜びになると聞いて思いつくタイプの人間はマゾヒストぐらいしか私は思いつきません。また殴る事で喜びを感じる人間はサディストを思い浮かべます。

マゾの快感原理を教育現場、少年スポーツの現場に持ち込む論理は好きじゃありませんねぇ。