ふと感じた違和感

なんだかんだと言いながら地元紙を購読しています。連載小説を読むのが楽しみと言うのもありますが、まあなんとなく購読しています。で、最近どうも妙な違和感に囚われています。どうにも物足らないです。記事の質とかの問題ではなく、何かセットであるものが抜けている感じです。それが何であるかがなかなか気が付かなかったのですが、ある時にヒョイと判明しました。

足りなくて抜けているものは、記事に対する批評です。ベタ記事はともかく、少しでもクセのある記事を読んだ時は、その事件なりにどういう反応が起こっているのだろうです。賛同意見が多いのか、それとも反対意見が多いのか、はたまた記事自体の見方が浅いのか、深いのか。さらには、もっと違う角度から見た論評や情報は無いのかです。

また賛同意見や、反対意見にしても、それがどういう理由なのか、自分が抱いた感想や意見と較べてどうなのかです。そういうものが当たり前ですが紙媒体の新聞には存在しません。それらの情報を得るためにネットを見るのですが、記事を読んだ続きでそれを読めないもどかしさです。言い換えれば、記事を読んだだけでは結論はすべて保留状態の感覚とすれば良いでしょうか。

そう思ってしまうと、新聞記事自体が情報と言うより、単なる見出し感覚に襲われます。事件の概略だけは記事から拾っていますが、記事の主張自体を自分の意見にする気がサッパリ湧かない感覚です。とりあえずこの新聞は「こう言っている」ぐらいと言えば良いかもしれません。


ネット言論の発達は、基本的に記事批評から起こったと個人的に思っています。今だってそういうスタイルは大きなジャンルですし、私も用います。これももっと前は、新聞記事の主張を否定するのに躍起だったと記憶しています。あの○○新聞がこんなエエ加減な事を書いている式です。これで溜飲を下げていたは間違い無くあります。

ところが最近では、そういうスタイルがかなり陳腐化しています。記事情報自体はあくまでも見出しであり、そういう事件が起こっている事を知るキッカケに過ぎないのスタンスです。関心があって、もっと知りたいのなら、ネット情報をググって見聞を広げるです。ここでリテラシーの問題は長くなるので置いときます。既に記事を批判の対象にして快哉を叫ぶのが面白くないです。

記事の主張とて、圧倒的な意見ではなく、one of them になりつつあるんじゃないかです。まだどれだけ一般的なのかわかりませんが、こういう感覚は今後も広がりそうな感じだけは持っています。


そういう感覚を後押ししそうなのが、スマホと言う革命です。ガラケー時代に較べると飛躍的に情報量が増えています。そりゃノートなりデスクトップなりに較べると劣る点は多々ありますが、それでもガラケーとは桁違いに情報取得が容易になっています。(ちなみに私はまだガラケーですが、代わりにiPod touchを愛用しています)

これは家庭により違うでしょうが、ノートなら普段はどこかにしまっているスタイルの家庭も少なくないと思います。ネットを見ようと思ったら、ウントコセと引っ張り出すわけです。そうでなくとも電源を入れて立ち上がるまでにウントコセです。たとえば朝のチョットした時間にヒョイヒョイと覗くには一仕事です。これがスマホならワンタッチです

新聞を読まなくとも同じニュース、新聞よりさらに新しいニュースは読めるわけですし、そのままその記事と言うより、その出来事への反応が確認できるわけです。もう少し言えば、新聞が取り上げた記事のうちで、どの記事が一番注目されているかを知ることが出来、さらにその反応を確かめられると言うわけです。

ネットが記事に反応してさらに記事を書く事は、二番煎じの批評を散々受けてきました。ところが関心の中心は記事の意見ではなく、ネットの反応の声になりつつあるように感じています。ネットでは紙媒体の一面トップさえ大した意味を持ちません。当たり前ですが、人により関心の注目点は違い、ネットではそういう注目点の違う人間の情報を容易に集める事が出来、そこでの関心度がポイントになるです。


この変化は小さなものではないと思っています。まだまだ新聞記事の見解を鵜呑みにする人は多いですが、そうでなくネットの反応を注目する人が増えて来たんじゃないかです。もう少し言えば、そういう流れがこれからの主流になって行くんじゃないかです。

もちろん良い事ばかりではありません。私はこういうブログを書いている関係上、注目すべきと言うかネタに取り上げようと思う話題は、あれこれと掘り下げて調べ様とはします。ただそんなヒマ人ばかりはありませんから、記事と反応の多そうなのを拾って「これがみんなの声である」とあっさり考える人も当然出てくると思います。

そんな昔の話じゃないはずなのですが、かつて新聞(既製マスコミの意味でもOK)が持っていた巨大な力に、意見の決定権があるとしたことがあります。つまり、この事件、この出来事はこうか考え、こう解釈すべきであるの決定権です。既製マスコミの情報伝達は上意下達式の一方通行で、ネットが普及する以前はそれしか見解や意見を知りようがなかったと言うのがあります。

それに対しネットは居酒屋談義とか、井戸端会議とかの世界になります。リアルでもその場に「ものしり」が入れば話題を深められますが、リアルでは規模が小さく、それぞれの談義グループはバラバラでした。これがネットでは一挙に広がり、つながってしまうわけです。広がれば、それこそその分野の専門家どころか、権威だって議論に参加してくるわけです。


ちょっと別の見方もあります。人が物事を判断する時にどうしやすいかです。これはリアルの医療現場でもよくあるのですが、

    隣のおばちゃんがそう言った
冗談みたいですが、結構手強い相手になります。それ式の漠然と信用を置いている人の意見に従ってしまうです。これは新聞やテレビだってそういう時代が長く「新聞に書いてある」とか「テレビでそう言っている」はかつては無条件に絶対の根拠とされ、今だってしばしば訳のわからない売り切れ騒動を引き起したりします。

ただ新聞やテレビでも「隣のおばちゃん」には全盛時でもしばしば退けられています。これがネットになれば無数の「隣のおばちゃん」がいるわけです。玉石混交なのは言うまでもありませんが、「隣のおばちゃん」の大軍団がネットにはそれこそ雲霞の如く存在するわけですから、これだけネットが日常化すれば、既製マスコミ以外の意見が台頭してきてもおかしくも何もありません。


人は情報を欲しがる動物です。それも多面的な情報を欲しがる動物です。ネットに様々な意見が渦巻くほど、人はネットに惹かれていくのではないかと思っています。ネットが隆盛する真の理由はそこなのかもしれません。もっともそういう豊富な情報を得たからといって、判断の正確さが増すかと言われると、必ずしもそうでないのもまた人間なのかもしれません。