科学者的な考え方

何日か前のツイッターの小さな話題です。流れしまったので記憶に頼って書きますが、

    科学者は根拠に頼った事しか言わず、細かな事象を見逃している
これに引っかかったのですが、発言者が故意に話を紛らわしたのか、本気なのか意図は不明ですが、それは筋違いと感じています。


科学者とは事象を普遍化するのがサガみたいなものです。科学分野に於て手法は違えども、普遍化を追及するものこそが科学であり科学者であると言う事です。事象を新たに普遍化するためには、関連する事象の普遍化されたものをまず調べる必要があります。新たな事象と喜び勇んでも既に誰かが普遍化されている事は多々あるからです。

そういう手法に慣れ親しんでいるので、科学者は物事を考える時に、普遍的事象でまず脇を固める作業を行うのが習慣になります。検討すべき課題事象があれば、まず確立している普遍的事象で固めていくです。そうやって根拠を固め積み上げて、それでも説明し切れないものかどうかを検証していくです。根拠を積み上げて説明できてしまえば、それは既知の普遍的事象に過ぎないものと結論されるわけです。

ポイントは直感には頼らないです。発見のキッカケは直感ですが、直感だけで物を語るような事は本当の科学者なら絶対にしないです。直感が本当かどうかの検証を可能な限り行ない、既知の普遍的事象として説明できない状態が確認されるまでは安易に口に出して主張しないです。だから根拠に頼った事しか言わないのではなく、根拠ですべて説明できてしまう事象に過ぎ無いという事です。


判り難い例で説明すると、Nと言う状況でTと言う事象が起こる確率は普遍的事象とします。これにRと言う事象が加わればTの発生率は増えるというのも普遍的事象とします。ここで問題としてRと言う事象の重みとTの上昇率の相関関係が未だに普遍的事象になりきっていないとします。わかりにくい話と思いますが、

  1. Nと言う状況でもTは発生する
  2. NにRが加わればTの発生は上昇する
  3. RとTの相関関係ははっきりしない部分が残る
現実はN+Rの状況なんですが、Tが起こった時に考えるのは純粋にRの影響によるものなのか、それともR抜きのNの状況で起こりうるものなのかを考えるのが科学者です。やる事は単純でNでの発生率とN+Rの発生率を較べるです。差がなければRの影響はないことになり、差が出ればRの影響の可能性を考えるです。思考様式として考えもしないパターンは、
    RでTの発生率が上昇するから、Tが起こったイコールRの影響である
だからTが発見された時点では科学者は意見を保留にします。1例や2例出ただけでは発生率がどうなるのか未だ予測できないからです。N+Rの状況での発生率が調査により確定しないと正直なところ「何も言えない」です。


ただこういう態度はしばしば非難の的になります。Tが発生した時点で「Tが起こったイコールRの影響である」と猛烈に主張される方が出てくるからです。とくにTが深刻なものであればあるほど強くなります。科学者は上記した理由で発見されただけでは態度を保留し静観にしますが、これがしばしば猛烈に非難される事になります。

この非難が厄介なのは「しばしば当たる」です。結果としてN+Rの状況でTが増える事が判明し、Tが最初に見つかった時点で対策を行っていればTの発生率の上昇を抑えられたかもしれないの結論になったりするからです。あれだけ言っていたのに科学者は無視し、被害を拡大させたの批判です。心情は理解します。


それでも私は思います。批判者の根拠はなんであろうかです。結局のところTによる被害が結果的に出たじゃないかではないかと。何が言いたいかですが、N+Rの状況でTが見つかった時に素早く対策に動きTの発生率が上昇しなかったらどうであっただろうかです。対策もお手軽なものであれば良いのですが、国家規模的な予算を傾けるものであれば、次に出てくるものはなんであろうかです。

出てきそうなものは「あそこまでの対策は必要だったのか」の批判の出現です。今度は対策を行わなくともTの発生率は変わらなかったの主張による無駄遣い批判です。物事はなんでもそうですが、大きな金額が動く事業には必ず利権の話が付いて回り、その利権問題が大きく薄汚いものであったりすると、対策自体が利権目立ての不要な事業とされたりするのもよくある事です。

結局のところ物事がある程度丸く収まるには、Tが目に見えて上昇してから対策が行われ、対策によりTが目に見えて減少するが必要ではないかと。こう書くと「バカにするな」の批判の声が出そうですが、実際のところはそうでないと話は収まらないです。

世の中で案外評価されない仕事は「未然に防ぐ」です。未然に防いで何も起こらなかったら誰も評価しないです。それどころか未然に防いで何も起こらなかったら、不要な事業、不要な部門として冷遇され、時に廃止されたりします。逆に一番評価されるのは起こったものをバタバタと何とかするです。さらに評価されるのはバタバタが初期では有効でなかったものが、途中から変わった担当者が急に成果を上げた時です。


対策をいつの時点で行うかはある意味科学の範疇ではないと思っています。科学が的確に動けるのはあくまでも起こっている事象が普遍的な現象として説明できる時のみです。未知への予想はさして得意な分野とは言えません。科学は起こってしまった事象を後から分析して普遍化し、次に同じ事象が起こった時に当てはめる学問分野であると。

科学の進歩は目覚しく、既知の普遍的現象として分析できる事柄は増えていますが、それでも「そうでない事象」は満ち溢れています。未知の予測が不確実な事象への対応は科学は苦手と思っています。科学者は当たるも八卦、当たらぬも八卦的な社会的な決断には慣れていないです。そういう事は科学者以外のお仕事ではないかと。

まとまりの悪いお話で申し訳ありません。あれこれ捻くったのですが、どうにも話が散漫にしかならず反省しています。