日曜閑話55

今日のお題は「北条早雲」のはずです。「はず」と言うのは、早雲が活躍した時代の背景を考える方がおもしろくて、そっちの比重が無闇に大きくなってしまったので、それぐらいの意味合いと御解釈ください。


相続問題

室町幕府は教科書的に言えば、南北朝の動乱を勝ち抜いた足利尊氏が作ったで十分なんですが、今日のお題ではもう少し補足が必要です。鎌倉幕府崩壊の要因は色々ありますが、その一つに相続の問題は確実にあったとされます。例外は多いでしょうから、あくまでも大雑把な捉え方をしますが、鎌倉幕府初期の相続は分家が多かったようです。家を継ぐ当主が多くは取るが、兄弟がいればそれなりの土地や財産を分け与えて分家として独立させるです。

これは関東が未だ開拓地の気風が残っていたためと考えられ、モトダネを遺産として与えるから「後は自分で大きくしろ」ぐらいのものでなかったかと思っています。本家も同様で、少々分け与えても開拓すれば取り戻せるです。そうすれば一族も大きくなるし、大きくなれば強くなるです。ところが平和になると相続者は増える一方で、新たな開拓地が増えなくなります。

そうなると家の規模はドンドン細分化されます。相続のたびに分けていれば、チビていくのは避けられなくなったです。この問題は鎌倉幕府が続くに連れて、代を重ねるごとに深刻化します。そこでこれ以上、家を小さくしないために相続は相続者の総取り体制にする動きが出てきます。まあ、当然そうなるかと思います。

そうなると今度は誰が総取りするかの問題が新たに浮上します。そりゃ、総取りした相続者は良いとしても、落選すれば食い扶持にも不自由します。兄弟仲良くなんて事は言ってられなくなります。ここで問題が複雑化するのは、長子相続制が必ずしも明確でなかったがあります。長子に優先権はあっても、弟の方が優秀であれば、実力者こそが相続するべきだの思想です。

これに先代の意向も絡んできます。お家騒動パターンですが、良くあるのは、先代が長子ではなく、他の弟を可愛がり、相続させようなんて奴です。これに正室、側室、さらに継母なんてものも絡むと騒動必至みたいな感じになるです。総取り制では取れなければ、一生冷飯が待っているからです。下手すると生命も危うくなります。

この問題の解決は鎌倉体制ではなしえず、南北朝の動乱が長引く大きな要因の一つになったと見ています。


この動乱は歴史小説家、時代小説家を衰弱させると言われています。楠木正成の戦死ぐらいまではまだ良いのですが、歴史を追えば追うほどウンザリさせられるです。実に美しくない時代と言うわけです。この背景に相続問題があると見ています。尊氏はある程度の時点で既に勝者になっています。最終的にもそうなんですが、ある段階から勝ちきれなくなります。

相続問題はこじれると誰かが裁定する必要があります。これには争議者が従うだけの権威者の存在が必要です。権威者の存在は、その裁定に逆らえば滅ばされる裏付けが必要です。なんちゅうても武家の相続ですから、すぐに血を見る争いに発展するです。ところが南北朝時代は二つの権威者が並立します。尊氏は北朝なんですが、北朝の裁定に不服であれば南朝の権威に頼ると言う関係が成立してしまいます。

南朝北朝も相手の打倒を目標としていますから、味方が増えるほど好ましいので、頼ってきた相続者を支持するわけです。そこまではまだ良いのですが、相続問題の傾き方で南北朝を渡り鳥のように動く者も出てきます。これに対しても受け入れざるを得ない状況が南北朝です。裏切っても、裏切っても、受け入れてくれるのが常識になれば、南朝であれ、北朝であれ、相続だけではなく何か不満があれば敵方にアッサリ走る事が当たり前になるです。

全国の武家が忠誠心ではなく、その場、その場の純粋の利害だけで南北朝を揺れ動いたために、尊氏をもってしても勝ちきれない状況が出現するわけです。こんな状況は小説家にとって非常に書きにくい時代と言うわけです。


室町体制

それでも尊氏は勝者になります。ただし勝者になるために莫大な代償を支払う事になります。尊氏は勝つために味方する者に莫大な恩賞を気前良く分け与えたがために、将軍家より遥かに大きい大名家がゴロゴロするような体制しか作れなくなったです。

室町体制は将軍家が権威の要にいるだけと言う非常に危なっかしい代物です。鎌倉体制も似てはいますが、鎌倉期とは忠誠心の桁がかなり違います。鎌倉期が心の忠誠であるとすれば、室町期は利害の忠誠であるとすれば良いでしょうか。それでも尊氏が幕府を作れたのは、誰かを権威にしておかないと、戦乱は延々と続くのと、尊氏の血統への尊重だと思っています。当時の身分感覚とすれば良いでしょうか。

とにもかくにも京都の将軍家を尊重さえすれば、莫大な所領は我が手に入り、自分の家柄では将軍は無理と思い込んだのが室町体制のすべてのような気がします。将軍は権威として尊重はされても、各大名家の統治には触れることさえできず、また各大名家も将軍家に不満を持てば、容易に反乱を起こすです。嘉吉の乱なんて典型でしょうか。

それでも定着すれば、それなりに安定するもので、時代が下るにつれて将軍の権威は宗教的な権威として室町幕府は続く事になります。


権威

室町体制の統治の源泉は将軍の権威です。この権威はさらに他の有力大名家が将軍家の命に従う事で成立しています。将軍の命に誰かが逆らっても、その他の大名が将軍の命に服すれば、反乱しても滅ぼされるだけになると言うわけです。ある種の合意体制ですが、権威であっても体制ですから、もし近隣の大名と争いが生じても、すべてに大義名分が求められたと見ます。

室町体制も応仁の乱でガタガタになっていくのですが、応仁の乱が始まった頃は将軍の権威が十分に生きている時代で、合戦に及ぶにしても大義名分、さらには室町体制的な承認が必要です。平たく言えば、将軍家の承認がすべて必要であったです。

これが戦国期に移行すれば、大義名分は飾りになります。極論すれば勝者に大義名分が自動的に与えられ、室町将軍といえども追認するしかなくなり、ついには追認すら不要な状態になっていったと見ています。

御苦労様です。やっと早雲にたどり着きました。早雲が生きた時代は、室町幕府の権威による統治体制がフラフラになりながらまだ残っていた時代である事を念頭に置いて下さればちょっとわかりやすくなります。


早雲の出自と年齢

早雲と言えば大器晩成の典型みたいな英雄のイメージがありましたが、最近の研究ではこれを否定する論証が出ているようです。とりあえずwikipediaからですが、

諱は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている。通称は新九郎(しんくろう)。号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある。

1432年説の享年88から逆算すると、早雲が歴史の表舞台に立ったのが壮年から晩年になりますが、1456年説になれば今川氏の後継者争いに介入したのが弱冠21歳の若さでの登場になります。これはこれで若すぎる気もしないでもありません。根拠の論証まで手を出す気はありませんから、かなり早雲像が変わるのだけは間違いありません。今日は1456年説で行きたいと思います。

出自は伊勢氏であるのは従来と同じ見解です。この伊勢氏と言うのがかなり特殊な家柄です。室町礼法を司る御三家(他は小笠原氏、今川氏)であり、将軍家申次衆でもあります。あえて江戸期で喩えれば、高家側用人を兼ねたような家です。室町将軍家の歴代の側近の家系ぐらいとすれば良いでしょうか。とりあえず家格は高いです。でもって早雲はその伊勢氏のどのぐらいの地位にいたかですが、wikipediaより、

1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。

300貫がどれぐらいになるかですが、所領から300貫文の税収が取れた事を意味します。馴染み深い石高に換算したいのですが、これが難しく1貫が1石とするものから、2〜3石とするものまで様々です。銭と米の交換レートも変動しますし、地域差も大きいので一概には言えないと言うところでしょうか。ここは大雑把に500石程度とします。

ただ早雲の家系は伊勢氏の本流でなく支流であった事は諸説も一致しています。時代小説では落ちぶれた末の末から、自称説まで取るものから、そこそこであったとするものまであります。私はその後の活躍ぶりからして、支流であっても伊勢氏の中では有力な位置を持っていたとしたいところです。そうでないと、その後の活躍が難しくなるからです。


早雲は戦国の英雄ですが、早雲の活躍した時代はまだ戦国期その物とは言えません。室町体制で幅を利かしていたのは家柄です。家柄が悪いと才能があっても伸し上がるのは不可能な時代として良いでしょう。だからこそ戦国時代は「下克上」の時代とされたのです。早雲は下克上の扉を開けましたが、活躍したのは扉を開ける前です。

もう一つ、とくに地方の大名豪族が怖れていたのは礼法です。これが出来るか出来ないかは大問題であったとされます。出来ないと田舎者の謗りを甘んじて受けねばならず、武士の面目を失うです。

何が言いたいかですが、早雲には、

  1. 歴とした伊勢氏と言う出自があった
  2. 礼法の本家の出身である
  3. 将軍家申次衆として京都の権門勢家に顔が利く
まだまだ室町将軍家の権威の重い時代には、使い様によっては、とくに地方の大名豪族には魔術的な効果を持つ看板を背負っていたです。そしてこれを存分に活用したのが早雲であったです。


第一次駿河下向 その1

これは早雲が表舞台に突然登場する事件です。駿河には室町期初期より今川氏が頑張っています。当時の当主は義元の祖父に当たる義忠です。これだけで早雲の生きた時代の古さがわかるのですが、義忠も応仁の乱のために上洛した時期があります。この時の申次衆が伊勢氏であり、早雲の父親であったと言うのが最近の研究のようです。

でもってその時に早雲の姉か妹にあたる北川殿を娶って帰国します。これも家格からして同格なので、正室ではなかったかと説が有力だそうです。これが応仁元年(1467年)とされています。そいでもって北川殿は文明5年(1473年)に龍王丸を生みます。嫡子と言うか、この龍王丸しか義忠には男子が恵まれなかったようです。でもって事件が起こります。wikipediaより、

文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩売坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。

嫡子とは言え龍王丸は3歳なので相続問題が勃発します。幼少過ぎるが理由です。そのため一族の新五郎範満が家督を継ぐと言う動きが出てきます。この動きに対抗する様に出現するのが早雲になります。

早雲の出現も従来は諸国流浪の途中にタマタマ通りがかったてなものもあります。御丁寧なものになれば、山賊に遭遇して身ぐるみ剥がされた時に、これもタマタマ通りがかった北川殿と邂逅するなんてのもあります。しかし現在の研究ではどれも伝説とされています。これらは永享4年説なら45歳で考えてのものであり、康正2年説では21歳です。チト無理があるです。

最低でも伊勢家の名代、時代背景的には実質として将軍家名代と考える方が妥当でしょう。ただし早雲自身が名代であったと言われると、これまた疑問です。やはり若すぎるです。大国の仲裁に無理があるです。ただ当時と言うか、日本の古来の制度として正使は二人が慣例です。二人の正使のうちの1人であった可能性は否定できません。

ただし歴史に名を残しているのは早雲のみですから、この厄介な調停の実質的な主役を勤めたのであろうだけは想像の内です。


関東情勢

寄り道なんですが、当時の関東情勢です。これが寄り道せざるを得ないぐらい複雑なのですが、大雑把に行きます。まず関東は京都から半独立として統治されています。尊氏も関東まで手が回らなかったぐらいで宜しいかと思います。室町体制の初期でも半独立なのですが、時代が下るほど独立性が強くなります。尊氏の四男の基氏が関東管領であったのですが、やがて関東管領を執事であった上杉家に譲り、自らは公方(鎌倉公方)を名乗るようになります。

鎌倉公方、上杉管領体制なのですが、これが執拗な対立と抗争を繰り広げる事になります。上杉禅秀の乱永享の乱享徳の乱と続きます。この享徳の乱の時に京都から送り込まれたのが足利政知です。当時の将軍義政の異母兄で、新たな鎌倉公方として成立させようの意図です。しかし古河に移って古河公方となった成氏の勢力、また武士団の支持は強く、結局のところ政知は伊豆から先に進めない状態になります。

京都も政知への援軍を企画したものの果たせず、さらに京都は成氏と実質的に和睦してしまったので、政知は伊豆で宙に浮く事になります。今さら無かった事にも出来ず、伊豆の堀越で二人目の公方(堀越公方)としてなぜか存在する事になります。

ここまででもややこしいのですが、公方家は衰えます。公方家が衰えると台頭するのが上杉家ですが、ここも2家に分かれて抗争を展開します。扇谷家と山内家です。でもって扇谷家は古河公方を担ぎ、山内家は堀越公方を担ぎます。でもって相模が今後の展開としてポイントになるのですが、扇谷家は相模を地盤にします。相模には扇谷家の重鎮の東相模の三浦家と西相模の大森氏がいるぐらいの情勢です。


第一次駿河下向 その2

今川家の騒動には早雲以外の介入者が登場します。wikipediaより、

これに堀越公方足利政知扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている。龍王丸派にとって情勢は不利であった。

ここも良く見ないと判り難いのですが、駿河介入は関東から2勢力が遠征してきています。

  1. 堀越公方派(山内家支持)
  2. 扇谷上杉派(古河公方派)
相模の西隣は駿河であり、ここを古河公方派(扇谷上杉派)に抑えられると堀越公方は立ち枯れしかねません。一方で堀越公方派(山内上杉派)が駿河を押さえれば、今度は扇谷上杉にとって面白くありません。そのためか、関東介入軍は両方とも新五郎範満を立てて、恩を売り中立みたいな状況にしておきたいとの意図と見ます。

これは関東からの見かたですが、京都からすれば関東勢力の駿河侵入です。関東の公方の支配権は関東十カ国であり、駿河は京都の勢力圏だになります。早雲も含めた京都からの使者の目的は、駿河を京都の勢力圏に留める事であったと見ます。

京都側が不利であったのは、関東の介入軍に較べると実際の軍勢がいないことに尽きるかと思います。交渉には目に見える軍事力の存在がどれだけ有利であるかは言うまでも無く、そのために関東2派は相手を牽制するために軍勢を引き連れています。

こういう状況の中で徒手空拳に近い京都側が言い分を通すのは至難の業と見ます。関東介入軍の弱点は、

  1. 目的は新五郎範満擁立であっても、実態は呉越同舟である
  2. 軍勢は連れて来ているが、駿河の地でドンパチやる気は薄い
  3. 軍勢を率いているがために長期の滞在が難しい
こりゃかなりの外交の才が必要で、凡庸な人物ではとても対応は無理です。おそらく早雲は嘘やハッタリもかましながら、関東2派を巧みに説き伏せ、
  1. 龍王丸幼少のため、家督は新五郎範満が代行する(関東2派は実を取れます)
  2. 龍王丸成人後は新五郎範満は家督を譲る(京都は花を取れます)
早雲の評価は高くなったんじゃないかと思われます。


第二次駿河下向

時代小説では早雲はそのまま駿河に残り、龍王丸擁立のために活躍するのですが、最近の研究では使者の役目を果たし京都に帰ったが有力となっています。wikipediaより、

今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

あれまあ、早雲は京都に帰ってしまっています。そうなると早雲の駿河下向は、駿河にそのまま根を下ろす算段ではなく、あくまでも京都に向けての手柄をあげたものになります。ここも正確には文明15年(1483年)に申次衆、長享元年(1487年)に奉公衆になるです。そいでもって龍王丸が成人したら家督を譲るなんて約束は、そうそうすんなり行くはずもなく、龍王丸の成人と共に再び駿河に緊張が高まる事になります。

早雲が再び駿河に下向するのは長享元年(1487年)なので。当時の京都の情勢ですが、将軍義尚は近江の六角高頼の討伐に向かっています。これは長享・延徳の乱とも呼ばれ、義尚は結局近江鈎の陣中で病死してしまいます。義尚の末路はともかく、長享元年段階では2万の大軍を率いて幕権回復のための颯爽たる出陣であったわけです。ここに早雲との関連性を感じます。

将軍家裁定に従わぬ駿河の今川を何とかして来いの命が下ったです。もちろん、それまでにも駿河龍王丸側からの要請はテンコモリあったとして良いでしょう。申次衆になっていた早雲が活躍したであろうは想像のうちです。でもってこの長享元年(1487年)に奉公衆になっています。これは義尚が早雲を駿河に下向させるにあたってそうした可能性はあると見ます。

申次衆と奉公衆の差がわかりにくいところですが、奉公衆は将軍の近習とされ、将軍親衛隊とも呼べる性格のもののようです。申次衆が文官的な要素が強いのに対して、奉公衆は武官官僚と見るぐらいで良いかもしれません。wikipediaからですが、

奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収などの特権を与えられていた。

もっと単純に六角討伐のために奉公衆を増員しただけと見ることも可能ですが、早雲の駿河下向も将軍家の命に基づくものとすると、あえて奉公衆にしたというのはありえます。もう少し言えば、早雲がそうさせるるように段取りを立てたもあります。1回目の駿河下向は21歳でしたが、2回目には32歳となっており、早雲の野望が熟成されたのかもしれません。早雲が範満を討つシーンもハイライトの一つなんですが、こうやって見ると

  1. 義尚の六角討伐軍が華々しく動く
  2. 十分な身分と将軍の正式の使者として駿河に下向している
これらを背景として龍王丸を立てれば、一気呵成で勝てたのかもしれません。


伊豆入り

早雲は今度は駿河に留まり興国寺城に住む事になります。どうも京都に帰るより功労者として駿河に住む方を選んだようです。それもかなりの重職であったようでwikipediaより、

駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐し、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている。

実際に駿河守護代であったとの直接の証拠はないようですが、それに匹敵する権限を持っていたらしいの傍証にはなります。ここも注目しておいて良い点ですが、駿河に対する早雲は非常に義理堅く、盛り立てこそすれ、駿河簒奪の気配をまったく見せていません。後年ですが、駿河のために軍勢を率いて遠江三河まで出向いて合戦をしたりしています。これを解釈するために時代小説では北川殿との関係を強く見たり、さらには龍王丸(氏親)との個人的な関係を重視したりしています。

それこそ早雲に聞いて見ないと、その辺の事はわからないのですが、まだまだ幕府は重かったと私は見ます。早雲は幕府の命で駿河鎮定に来たものであり、これを簒奪する事はリスクが高すぎる、もしくは考慮の外であったです。もしやれば範満の二の舞ぐらいの感覚でしょうか。早雲は斎藤道三にはならなかったです。興国寺城時代は6年続きます。

この間に京都は情勢がクルクルと変わって生きます。義尚は長享3年(1489年)に近江で病死、延徳2年(1490年)には義政死去と京都の将軍家の力は目に見えて凋落する事になります。そいでもって明応2年(1493年)には義尚の次の将軍であった義材がクーデターによって追放され義澄が将軍になります。このクーデターの首謀者が管領細川政元なんですが、政元と早雲はつながりがあったとの説が有力だそうです。

話は煩雑なんですが、堀越公方の政知の息子が義澄です。義澄は京都で出家していたのですが、政知は義澄を還俗させて将軍位に就ける工作を行っていたとされます。政知はそれを果たせず死亡するのですが、ここで跡目騒動が起きます。長男の茶々丸と、異母兄弟の潤童子です。跡目騒動と言っても、冷遇されていると感じた茶々丸が潤童子とその実母を殺害するものです。これが延徳3年(1491年)の事です。

煩雑なので年表にしますが、

年号 事柄
長享元年 1487 早雲2度目の駿河下向で範満を討つ
長享3年 1499 将軍義尚、近江の陣中で病死。義材が将軍に
延徳2年 1490 義政死去、
延徳3年 1491 茶々丸クーデター
明応2年 1493 クーデターにより義澄が将軍に


将軍義澄が政知の子供であり、将軍義澄は茶々丸によって兄の潤童子と母の円満院を殺害されているわけです。室町期であっても将軍の仇を代わりに討つと言う大義名分が成立するわけです。もちろん大義名分が立つように工作を怠りません。満を持した早雲は一挙に伊豆を攻略する事になります。一挙とは言いましたし、時代小説でも瞬く間(30日)で平定したとはなっていますがwikipediaでは、

明応7年(1497年)に南伊豆の深根城を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している

38歳で伊豆に攻め込み、完全に伊豆を平定したのが42歳の時になります。ただ「一挙」も根拠はあり、完全平定は1497年ですが、それ以前に武蔵の高見原合戦に参戦したり、今川の近江進攻に手を貸したり、甲斐に進攻したり、小田原城奪取を行ったりしていますから、実質の平定は30日ぐらいだったかもしれません。


正統性の証明

早雲は伊豆を取りましたが、伊豆の領主である正統性がありません。戦国期と違う点です。誰か権威に伊豆の領主である裏付けをしてもらう必要があります。この早雲の伊豆入りでさえ実は異説があります。通説は早雲が野望を燃やしてのものですが、扇谷定正の陰謀であるというものです。扇谷家は相模を地盤にしていますが、伊豆の堀越公方派ではありません。

扇谷定正の宿敵は山内顕定です。顕定は堀越公方を担いでいますが、堀越公方がいなくなれば、関東の公方は古河公方だけになり有利になります。また小国とは言え伊豆を味方にする事が出来ます。そうやって定正が動いた傍証としてwikipediaに、

明応2年(1493年)には扇谷定正の命で伊勢宗瑞(後の北条早雲)が堀越公方政知を攻撃

この記述はチト疑問があり、やはり政知死後の伊豆入りと解釈するのが妥当と考えます。この辺も事情は単純でなく、伊豆入りの前に関係各所に外交的手段を打っていたと考えた方が良いかもしれません。もちろん伊豆に入った後もそうです。ですから事後承諾的に定正の命によりなんて形式が作られたのかもしれません。

ただ証明の代償は支払わなければなりません。明瞭に扇谷側についた証として武蔵高見原の合戦に定正側として出陣しています。これは扇谷上杉、山内上杉の最後の正面対決として良い合戦ですが、なんと決着は主将である定正の戦死でケリがついています。以後、扇谷氏の勢力は急速に翳る事になります。


小田原

有名すぎる小田原攻めなんですが、これもまた真相は混沌としています。小田原には西相模の主として大森氏が頑張っています。大森氏も扇谷派の重鎮で、西相模の三浦氏ともに扇谷家を支えています。小田原を巡る情勢なのですが、扇谷定正は高見原の合戦で明応3年(1494年)に戦死しています。またこの年に大森氏を栄えさせた大森氏頼も病死しています。

大森氏は氏頼の後を藤頼が継ぐのですが、どうも継承を巡って内紛状態が勃発したようです。これに付け入ったのは間違いないのですが、wikipdiaより、

この事件が起きた年代については通説では、明応4年(1495年)とされているが、その翌年に書かれたとされる山内上杉家上杉顕定の手紙には大森氏(藤頼か?)を小田原城に攻めたが、早雲と三浦義同(道寸)の援軍に敗れたとあり、早雲が小田原城を奪ったのはそれ以後、文亀元年(1501年)までには奪取されたと考えられている。

一遍に華々しく奪取したのではなく、徐々に蚕食したのかもしれません。この時期の三浦氏と早雲の関係も微妙で、

また、藤頼が山内上杉家上杉顕定に降ったため、早雲に攻撃させたという説もある。早雲は伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために明応7年(1498年)、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)事で和解が成立した。

その後、早雲と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破ったが、やがて両者は対立するようになり、必然的に扇谷上杉家傘下の三浦氏とも対立することになる。これに対して義同は永正7年(1510年)、小田原城の早雲を攻め、逆に早雲も岡崎城に攻撃を加えた。

大森藤頼に関する記録は乏しいようなので推測を加える必要があります。この辺の話をまとめてみると、氏頼の死後に大森家に内紛が勃発したとして良いでしょう。内紛中に藤頼は扇谷家を頼ろうとしたが、定正死後の扇谷家の動きが鈍いために山内家に援助を申し込んだです。この動きに驚いた扇谷家は早雲と三浦氏に命じて、小田原を攻めさせたです。この時に藤頼はアッサリと扇谷家の下に戻ったです。

戻ったの良かったのですがこれに怒ったのが山内家で、小田原攻撃を行なったです。これに対して再び早雲と三浦家が動き山内家を撃退したです。藤頼がそういう動きをすれば求心力が低下するのはどうしようもなく、そこに付け込まれて早雲に小田原城を奪われてしまうです。こういう動きが短期間で行われたため、記録が混乱しているです。


小田原後

小田原の大森氏を滅ぼした事から、扇谷氏も敵に回す事になります。直接の相手は西相模の三浦氏です。三浦氏との抗争はおおよそ1510年から1516年の間に行われますが、早雲の勝利です。この時で61歳で、3年後に64歳で死去します。

駆け足で早雲の事績を見ましたが、伊豆に入るまでと、その後では動きがまったく変わっているのがわかります。伊豆までは大義名分とか、京都や関東の権威に非常に気を使いながらの行動ですが、伊豆に入ってからはひたすら領土拡大を目指す戦国大名の行動そのものに転じていると見ます。伊豆を取った事で早雲の何かが変わったのだと思いますが、資料は沈黙しているようです。


早雲の外交・軍事面ばかりを紹介してきましたが、早雲の凄みは民治にもあったとされます。早雲政治の基礎は興国寺城時代に形成されたと言う見方が一般的です。早雲がこの時代に先進的であったのは、国人重視であったと言われます。国人の地位は当時は非常に低く、虫けら同然のように見られていたともされますが、早雲はこれを重視して政治に当たったです。

国人と言っても、兵農分離が不十分な時代ですから、平時には農民であり、戦があれば兵になるですが、国人保護を基本に据えた早雲政治は大きな求心力を呼んだです。目に見える具体策としては、税金を公平にしただけではなく、非常に安くしたです。この早雲政治は後も受け継がれ、北条家では四公六民であったと言われます。

これがどれだけ安かったかですが、江戸幕府初期の天領の年貢が七公三民であったとされますから、相当な安さです。安いと言うのはこの税金で四六時中合戦を行っているです。伊豆入り後の早雲は間断なく近隣の豪族と合戦を繰り広げていますが、それをこれほど安い税率で支えたのが驚異的と言う事です。相模では鉱物資源もさほどあったとは思えませんし、当時の関東で交易で儲かる様なものがったとも思えません。ほぼ年貢だけで戦い抜いたです。


早雲政治は優れていましたが、同時に大きな制約も出たのではないかと思っています。安い税金で軍事行動を支えるには、少々の倹約程度では追いつきません。根本的には税収を増やす必要があります。安い税金で税収を増やすには、領土を広げるしか手段がありません。領土が広がれば税収も増え、軍事行動を支えられるです。ほとんど自転車操業のような軍事行動を続けざるを得なかったんじゃないかです。

より有効に税収を増やすためには相手を滅ぼす必要があります。中途半端な和睦で相手の所領を残すと税収につながらないです。ですから伊豆でも、小田原でも、三浦氏相手でも殲滅するまで徹底的に戦っているように見えます。でもって早雲は伊豆・相模と奪って満足出来るほどの税収を得ることができたのでしょうか。それを伝える文献も存じません。


早雲の遺産

北条氏は早雲の後に氏綱、さらに氏康と傑出した当主に恵まれます。氏康の頃には200万石を軽く超える領土を持っていたとはされます。さらに言えば兵の質は日本一の坂東武者です。これだけの戦力を以ってしても北条家は天下争奪から遠い存在です。理由は早雲の遺産にあるような気がします。とりあえず税金が安いのは領土を広げ地盤とするのには有利でしたが、領土の割りに動員力が小さい欠点があったんじゃないかと思っています。

200万石と言えば、戦国期の動員基準からして5万程度の軍団の形成はさして難しくないはずです。当時の5万は驚異的な動員数で、今川義元の上洛軍が3万に過ぎません。義元の3万も驚異的だったのですから、北条家が5万動員すれば雲霞の様な大軍になります。5万を動員するという意味合いは、敵対勢力の戦意をそれだけで喪失させるだけでなく、競って下り、雪だるまになる効果も期待できます。

ところがそこまでの動員を北条家は出来ていません。せいぜい3万が上限ぐらいの動員で、秀吉戦で根こそぎ動員しても7〜8万程度です。これは天下を争うために5万動員をやらなかったのではなく、出来なかったのではないかと見ています。税率がネックになり、他の強豪に較べて動員力が半分程度になっていたです。


もう一つは仕方が無いと言えばそれまでなんですが、早雲が創業期に踏み台にした上杉氏です。扇谷家と山内家は北条家に押されて実質的に一つになります。ま、山内家に統合されたとしても良いかもしれません。この統合された上杉氏にも執拗に攻撃を続けます。ついには上杉憲政を関東から越後に駆逐してしまいます。このまま関東を完全平定してしまえば北条家は天下を狙えたかもしれません。当主は戦国英雄の1人である氏康ですし。

ところが越後に逃げた上杉憲政はとんでもない化物を関東に呼び込みます。言うまでも無い謙信です。合戦を趣味でやり、なおかつ鬼神のような戦術家ですから始末に負えません。氏康といえども正面から戦えば勝てそうにない相手です。現実に押しまくられて小田原城まで包囲されています。

氏康の方が戦略家としては上なので、秋に謙信に蹂躙された関東を冬に奪還するような対抗策を行わざるを得なくなります。これで精力を北条家としては費やしてしまったです。北条家繁栄のために散々踏み台にした上杉が、最後の最後になって北条に祟ったのかもしれません。


感想

書き始める前の私の早雲像は「箱根の坂」です。司馬遼太郎と言う人は小説を書くにあたって膨大な資料を集め検証した人として有名ですが、一方で読み物のとしての娯楽性もしっかり踏まえる人です。ストーリーの都合と言うか、主人公像の演出のためには真実に近いものより、あえて通説とか俗説を採用し、そこに脚色を膨らませます。これが史実とシームレスに広がるのが一つの特徴です。

「箱根の坂」の早雲像は中世の闇から戦国期を切り開いた人ぐらいの印象です。これは司馬遼太郎が戦国期を明色に捉えている史観がベースにあると見ています。暗い中世は悪であり、明るい戦国期は善ぐらいの位置付けでしょうか。だから早雲の活躍は善であるです。

司馬遼太郎に較べると私が閑話を書くにあたって調べた資料は、比較するのもアホらしいほどプアです。ただなんですが、司馬遼太郎が資料を読み込んだ段階で抱いた早雲像はどうだったんだろうと思っています。どうにも、こうにも人物像が浮かび上がり難いです。颯爽とした英雄なのか、信念の改革者なのか、腹黒い姦雄なのかよくわからないです。人物像と言うのは大事で、これがある程度決まらないと話の肉付けが広がらないです。

「箱根の坂」の早雲像は永享4年(1432年)誕生の享年88説で書かれています。ココロは前半生が室町体制の暗部でウンザリし、これを改革する志を育てるエピソード・タイムにしているわけです。ところが現在は康正2年(1456年)の享年64説が有力となっているとあります。そこで享年64説で早雲の事績を調べなおせば、何か新しい人物像が出てこないかが一つのテーマではありました。


早雲の政略・軍略の基本は司馬遼太郎説で良いかと思っています。室町期の身分差も厳格で、地方でももともとは室町幕府創設の頃に天下ってきた守護とその一族がある種の貴族として君臨します。京都の室町幕府の権威を背景にして国人衆を上から押さえつけるように支配していたです。これも歴史の常で、時代が過ぎると当初は取るに足りない国人衆が力をつけてくるです。

戦国期の下克上の本質とは、これまで支配者階級として君臨していた者に対し、力をつけた下層階級(当時的な意味)が実力で勝負を挑み、勝っていった歴史と思っています。家柄でも血筋でもなく、実力こそがこの世を支配するです。では早雲はそこまで濃厚な思想を果たして持っていたかです。これがよく判らないです。


早雲の2回の駿河下向ですが、2回とも早雲は実質のところ徒手空拳で出向いています。武家の紛争に軍事力なしで調停に赴くのは無理があります。私は駿河下向を京都の将軍家の意向に基づいたものの説を採りましたが、とくに1回目は本当は軍勢を従えてのものの予定ではなかったかと考えています。京都から軍勢を引き連れて行くのは当時の情勢から無理としても、東海筋の大名に協力を要請したです。

ところが既に応仁の乱から戦国期へ時代は傾きかけており、斯波氏にしろ、、吉良氏にしろ体よく断られてしまったです。幕府の名代として華々しく軍勢を引き連れて駿河に乗り込むはずが、結果として単身乗り込むような状態になってしまったです。1回目の交渉は本当に難儀したのだと思っていますが、どこかに援軍が欲しいと走り回った時に早雲は国人衆の存在を認知したのではないかと考えています。

早雲は少なくとも現実が見える人であったのだけは間違いないと思っています。現実も京都で申次衆をやっていたのでは見えないと思います。信長の頃の室町幕府と比べると、まだまだ当時の幕府の威権は段違いに強かったからです。1回目の駿河下向で苦労した時にそれが見えたです。

そこまで考えると、1回目の時の早雲の地位はさほど高くなかったのかもしれません。むしろ低くて、下働きの様な役目と考えた方が良いかもしれません。下働きであるが故に、国人衆への使者の役割も多く、実際に国人衆と接触する機会が多かったです。これが早雲を目覚めさしたです。この力は利用できるです。

第一次駿河下向の後に京都に帰ったのは若さが故と思います。まだまだ京都での栄達に未練があったです。そりゃ21歳ですからね。国人衆の存在と実力を認識しても、それをどうこうするにはまだ若すぎたです。ただ国人衆を念頭に置くようになった早雲は、それまでと幕府体制の見方が変わったと思っています。このまま幕府にいても、さして芽の出る将来はなさそうの感触です。


第二次駿河下向の時は最初から国人衆を当てにしての行動と見ることも出来そうです。第一次から第二次の間は11年間あります。第二次下向でのクーデターの鮮やかさからすると、入念な準備がなされたするのが妥当でしょう。第一次の直後から11年かけてはどうかわかりませんが、ある時期から駿河工作に着手していたです。

早雲の幕府における位置を考えると、駿河担当であってもおかしくありません。駿河情勢の情報を入手できる立場にあり、決断として龍王丸派に加担するです。この辺は北川殿の兄弟であるというのも要素としてありますし、龍王丸を立ててこそ早雲の立場が評価されるです。加担となると戦力として思い浮かぶのは国人衆です。

ここは「箱根の坂」風になりますが、しばしば京都から駿河に出向き、龍王丸とその側近に国人衆の支持を得ることの重要さを説き、さらに国人衆を龍王丸派に取り込む工作をひっそりと行っていたです。龍王丸(氏親)が早雲の国人衆重視政策を受け入れたのは、その後の施策を見れば明らかで、これは義元の代の今川氏の強大ぶりにつながったとして良いかと思います。


第二次駿河下向後は京都を見切ります。興国寺城で功臣として扱われる方を選択します。ここで何故に伊豆を目指したかですが、駿河の国人衆を取り込んでのクーデターの成功体験の再現と見ます。駿河を狙わなかったのは氏親がガッチリ求心力をもって固めてしまっており、これを今さらひっくり返すより、新天地を狙ったです。駿河は背後を固めてくれれば十分です。

興国寺城時代は6年ですが、この間に早雲は国人衆の支持を得る政策が間違っていなかった事を確信したと見ています。一方で伊豆は悲惨です。私も調べなおしてビックリしたのですが、伊豆の隣の相模は扇谷氏の強力地盤であり、扇谷氏は古河公方派です。つまり周囲に有力な援軍はないです。強いて言えば今川氏ですが、これは早雲が薬籠中に納めています。つまり孤立無援状態です。

これは「取れる」と判断してもおかしくありません。早雲の伊豆入りの後の鮮やかさを見ても、国人衆への準備工作が入念に行なわれていたのは間違いありません。つまり早雲の思想の経過として、

  1. 第一次駿河下向で国人衆の力に気がつく
  2. 第二次駿河下向で国人衆の力を実際に使う
  3. 興国寺城時代に国人衆利用モデルのさらなる応用を考える
  4. 伊豆で実践
何が言いたいかですが、戦国後期の英雄のように天下を云々なんて思想はなかったんじゃないかです。それよりも駿河で成功したモデルをもう1回やってみたくて仕方がなかっただけじゃなかろうかです。そうなると伊豆があのような状態でなければどうだったのだろうは出てきます。たとえば堀越御所は存在せず、扇谷氏の地盤であったらです。

扇谷氏は強力です。早雲とて扇谷氏と正面切って戦う気は起こらなかったと思います。これは駿河の氏親とて同様で、氏親(つうか今川氏)は遠江三河への勢力拡張は熱心でしたが、箱根を越えての関東進出は消極的です。ましてや関東の一方の雄である扇谷氏と事を構えたいとは夢にも思わないはずです。そうなれば早雲は今川氏の有力な被官ぐらいの地位で一生を終えたかもしれません。

早雲にとっての歴史の「if」は、たまたま伊豆がああいう状態で目の前に存在していたに尽きるような気がします。ま、そういう機会が訪れるのが英雄であり、そういう機会を見逃さないのが英雄と言えばそれまでですが、ややスケールが小さい感触が残るのは否めないところです。


それでもなんですが、あえて他の戦国英雄に喩えると毛利元就がやや近いかもしれません。元就は1456年生まれで早雲の40年ほど後の英雄です。元就が大勝負に出た厳島の合戦は1551年で早雲の死後30年も経ってからです。元就は早雲より成功し、中国に200万石の大版図を築きますが、元就一代はひたすら周辺諸国の切り取りに終始します。元就の時代でも天下争奪の概念は薄かったと見て良さそうな気がします。

40年後の元就でそうであったなら、早雲はなおさらであったとしても不思議ありません。評価の見方を変えると元就のような戦国英雄の元祖が早雲であったとできます。それでも早雲型戦国モデルは、信長が天下統一モデルを作り出すまで通用したのですから、やはりパイオニアとしての地位は不動でしょう。信長の誕生は1534年とされ、元就よりさらに40年、早雲からは80年も後の人間です。

歴史の流れから言うと、早雲が切り開いた戦国英雄モデルは、80年の歳月を経て信長の天下統一モデルに移行したです。では早雲型モデルはどこに一番影響したかと言えば戦国武者の気風である「槍一筋で一国一城の主になる」です。もし小説にするなら、そういう視点の早雲像が良いかもしれません。つうても書きにくいと言うのが本音です。

ではではこの辺で休題にさせて頂きます。