知識人がテレビに出るのは否定しません。大衆への影響力の強いメディアを用い、自分の考え方をより広めようとするのは悪い事ではないからです。一方で知識人だった人が電波芸者に成り下がっているのは誠に哀れです。最初から電波芸者を目指された知識人もおられるかもしれませんが、多くは変質の結果そうなっていると私は考えています。最初から目指そうが、途中から変質しようが過程は同じですから、そのステップを考察してみたいと思います。
芸能界と言うかテレビ界はポジション枠が決まっているとされます。司会者枠、アシスタント枠、レポーター枠、その他大勢枠・・・細かく言うと外国人タレントお笑い枠みたいなものもあるとされます。枠内にはレギュラーと控えがおり、レギュラーが非常に強い(人気が高い)場合にはどのチャンネルを捻っても同じ様な芸能人がしゃべっているみたいになります。一時の「みのもんた」状態です。
ただレギュラーには賞味期限(人気の持続の限界)があり、どんなに強くとも、いや強ければ強いほど賞味期限が短くなる傾向があります。ある意味、爆発的人気とは賞味期限を短期で燃焼させているとも言えるかもしれません。高い人気を長期間持続させるのは並々ならぬ才能が必要と言えます。ただ長期に続く才人は少なく、テレビ界は常に新たな人材(レギュラー)を求めています。ごく単純には、
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人気が上る → ギャラが上る → ギャラに相応しい人気が維持できなくなる → 出演激減 → 「あの人は今」枠にポジション・チェンジ
とにかく出演してもらって、そこでメディア受け・視聴者受けする発言で人気が出れば枠に入ります。知識人本人はいつもの調子で話していても巧まざる「おもしろみ」があり、これが「受ける」状態とすれば良いでしょうか。テレビ界で人気とはすべてを支配しますから、「あの人は受ける」となれば自然に出演回数が増えます。
この段階では立派な知識人ですから、出演回数が増えても自分の信念・考えを話すだけで、あくまでも自分の考えを広める手段として知識人がテレビを利用している段階です。ですから出演が増えても自分の専門領域の範囲に留まります。
いくら人気があっても知識人の専門分野の出演だけなら、そうは出演回数は増えません。出演できるのはその専門分野が旬の話題になっている時だけで、テレビ界で同じ話題が何ヶ月も話題になり続ける事は稀です。旬の話題が終わった時に、知識人の「知識」ではなく「人気」を利用されるのが次の段階と見ています。専門分野以外の話題についてのコメント、関与への利用です。
しばしば何故にこの専門分野の話題にこの人物が発言しているんだろうと思う時がありますが、あれは知識人の人気利用と考えればわかりやすくなります。もっともこの段階では、あくまでも他の分野の専門家から見た、その分野の見方みたいな位置づけな形で扱われますが、時にかなり無理な事も要求もあるように感じます。
それでもこの段階では、あくまでもベースの専門家の矜持は崩していません。やや融通を利かしている程度としても良いかもしれません。
知識人がテレビに出て「有名人」になるメリットとしては、出演料だけではなく、その他のメリットも大きいと言われます。あんまり縁がない分野なのですが、たとえば講演です。テレビの有名人の講演と言うだけで会場は一杯になり、講演料の相場も跳ね上がります。著書も売れ行きが段違いに変わってきますし、CM出演もあったりします。それ以前に、どこに言っても有名人待遇が行われます。
そういう状況は俗に「スポットライトを浴びる魔力」とも言われます。スポットライトの光源はテレビ出演による人気ですから、これを維持したくなるです。私には一生縁が無いので伝聞に過ぎませんが、スポットライトの魅力は麻薬のように精神を蝕む程のものがあるとされます。芸能人が「受ける」ためだけにトンドモないような冒険を行うのも、この魔力のためだとされます。
知識人もこの魔力・魅力にとらわれてしまうと、人気の燃焼・維持に精を出すことになります。そうなった知識人が与えられるポジションは「サプライズ」。主にお笑い系で「こんなところに出ている」の役割みたいなものです。ただサプライズは驚きの新鮮さが命ですから、これに出始めると知識人のレギュラーの寿命は見えてきます。そろそろ賞味期限も怪しくなってきたので、新しいレギュラーを求め始められるです。
第3段階の華やかさは知識人によって展開は変わりますが、やがてレギュラーから下りる時は必ず来ます。控えに回るわけですが、そのまま本業に戻って専念できない方は多々おられます。控えの座でもなんとかしがみついていたいです。こうなると普通の芸能人とあんまり変わらなくなります。
第3段階までにテレビ界が欲しているものは十分に学習しています。自分の知識をどう活用すれば、テレビ界いやその他マスコミであっても、その袖を引けるかの技法に長じている状態になります。ここも袖を引く技法に長じても本人の人気自体はかつての「飛ぶ鳥を落とす」状態とは程遠く、かつて売った名前で媚を売る状態とすれば良いでしょうか。
発言はテレビ界に気に入られるかどうかが絶対の基準になり、テレビ側がシナリオを書けば、シナリオに忠実、時にシナリオ以上に忠実に自分に投げ与えられる役を演じる事になります。そうやって忘れられない事が至上の価値になるです。かつての知識人としての気骨はすっかり抜きとられ、その時、その場で「何が受けるか」「何が求められているか」を探知する事が芸のすべてになるとすれば良いでしょうか。
そうなれば主張の一貫性なんてクスリにしたくともなくなります。ある時は「カラスは黒い」としていても、次の状況では「カラスは白い」、さらには「カラスは黄色」「カラスは赤い」「カラスは虹色」と万華鏡のようにその場の空気だけを読み取るだけの存在になります。こうなった時には知識人枠の控えでさえなく、立派な「電波芸者枠」に入る事になります。
電波芸者は芸能人ではありませんが本質は芸人です。ただし知識人の看板を背負った芸人です。芸人なのに知識人の看板で物を言い、知識人の看板で人を信用させるです。テレビ界の利用価値もそこにあり、
- 番組の意図通りの発言を芸人として忠実に行ってもらう
- 芸人の言葉を知識人の看板で信用させる
ただ知識人枠よりは人気も低い代わりに賞味期限は長い印象があります。案外ですが、電波芸者の養成はテレビ界を以ってしても難しいのかもしれません。ま、真の知識人であれば第1段階か第2段階で去ります。またスポットライトの魔力に蝕まれても、第3段階で去る、もしくは電波芸者になるのはプライドが許さなくなるのかもしれません。さらに言えば第4段階で電波芸者になるべく修行に励まれても、芸人としての資質が悪くて使い物にならない方々もおられるのかもしれません。
そう考えると電波芸者も数々の過程を潜り抜けた貴重な才能の持ち主なのかもしれません。私がある小説家や、ある精神科医に反応してしまうのも、まだ彼ら、彼女らの知識人としての看板に価値を認めてしまっている証なのかもしれません。そういう意味であの方々達は現役の立派な電波芸者と呼べる気がします。
他人の生計の事ですから「ゴチャゴチャ言われる筋合いは無い」とされればそれまでですが、自分の専門分野の電波芸者は傍迷惑なだけの存在ですから鬱陶しい限りです。