日曜閑話54

今日のお題は「五色塚古墳」です。なんの事はない、近くの遺跡を見に行ったお話です。


現地

五色塚古墳を訪れるのは2度目です。前回は軽く20年以上前で、久しぶりに思い立ったです。この古墳の規模は兵庫県では一番ですが、全国では40番目だそうで、百舌鳥や古市にあるクラスに較べると小ぶりです。ただ可能な限りの復元が行われており、在りし日の古墳とはどんなものであったかを見るには宜しいように思います。

久しぶりに見た古墳はとにかくデカイ。圧倒されるような重量感と存在感があります。葺き石の視覚効果は見て初めてわかるもので、巨大な石造物にどうしても見えてしまいます。実に壮大な感じがします。いやごく素直に畏怖の念を覚えます。木が生い茂ってしまった古墳では得られない重量感とでも表現すれば良いのでしょうか。こんなものがバカバカと作られていたかと思うと、古代のパワーの凄まじさを痛感します。

建造されたのは4世紀末から5世紀の初めと推定されているようです。いわゆる古墳時代が4〜6世紀とされますが、誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)が5世紀前半、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)が5世紀前半から半ばとされますから、巨大古墳ブームの絶頂期に作られたと考えても良いかもしれません。文字でも画像でもその大きさ、存在感を伝えるのは難しいところですから、機会があれば見に行ってください。百聞は一見に如かずです。


古墳をしげしげ見ながら、しょうもない事に今さら気付きました。巨大古墳には周濠が存在します。あれは長い間、古墳を守り、さらに荘重感を増すためにわざわざ作られてものと思っていましたが、もっと現実的な理由のように思います。古墳は土盛りして作られるのですが、盛り土はどこから持ってくるかです。一番簡単なのは古墳の周囲を掘って盛るです。

卵が先かニワトリが先かわかりませんが、盛り土を得るために周囲を掘ったら穴が出来、それが堀になるです。五色塚の場合は空堀だったそうですが、掘った穴に水が貯まれば周濠と言うわけです。意図的に周濠にする計画で作られたものもあるでしょうが、妙に納得しました。


それと五色塚古墳・大歳山遺跡web-site(どうも準公式サイトっぽい)には、

  • 築造当時を想像すると、おそらく、緑の平野と青い海を背景に石で葺かれた灰色の巨大な人工物がそびえて、異様な景色をなしていたのでしょう。
  • このように当時の人々が生活する田畑や、海、山とはずいぶん異様な景色であったと思われます。畏怖の念をもって、人々に眺められていたのではないでしょうか。

半分は同意で、半分は違うんじゃないかです。理由は単純で、古墳周囲がはたして「緑の平野」であったろうかです。古墳自体は丘陵地に位置しています。丘陵地は古代では耕作不適地です。簡単には水の手に乏しいです。井戸でもあれば少しは違いますが、古墳が空堀になった事でわかるように、地下水も乏しかったと考えるのが妥当です。そんな水の無いところでは人々は生活できません。

つまりは古墳周囲には人はあまり住んでいなかったです。これには他の傍証もあり、今でこそ周囲はビッシリ宅地開発されていますが、たくさんの古墳が点在しています。水の手が乏しい見晴らしの良い丘陵地は墓地として利用されたと考えた方が合理的です。墓地は作られると、今度は神聖地の性格を帯びますから、余計に周囲には人は住まなかったと私は考えます。


この形式の古墳の成立には諸説ありますが、定説として円部が墳墓、方部が祭祀場ではなかったかとされています。祭祀場である方部から円部を崇める必然性から、円部が高いのは必然となり、だから方部が前すなわち正面になるです。五色塚でも方部のところに土橋とされるものが残っており、ここから方部の祭祀場に登ったのではないかと見ます。

これを神道の神社形式に置き換えると興味深いものがあります。神社でもとくに古い形式のところは、御神体が山そのものになっています。三輪神社が典型です。山を拝むために拝殿が作られ、そこから神体である三輪山を臨むです。神社の正面は拝殿となり、拝殿に行くために参道が存在するです。

神道の考え方が古代も類似していれば、死者は神になります。とくに古墳を作るような権力者が亡くなれば、単なる死者ではなく神となると考えても良いんじゃないかと思います。古墳も墓と考えると抹香臭くなりますが、神を祀る神社、いや神殿と考えればかなり見え方は変わります。神を祀るためですから、少しでも壮大なほうが良く、人々も従事したです。

古代エジプトでファラオのためにピラミッド作られたのとの相関性を感じています。


被葬者

五色塚古墳は海岸のすぐ側に作られています。今でも近いのですが、古代はもっと近かったとされています。それこそ古墳の南端から100メートルもなかったかもしれません。それでもって正面(方部)は海に向けられています。海は淡路島を臨む明石海峡です。そういう点から、海峡交通を支配したこの地の豪族の墓であろうの説が立てられています。海の民のための大神殿と言えばわかりやすいかもしれません。

今でも海から見えるはずですが、出来た頃は海から嫌でも目に付く巨大建造物であったと思います。これだけのものを作れる大実力者であるの権力誇示も出来そうな気はします。一説には明石国造なんてのもありますが、現在では特定されていないとなっています。


この古墳の特色のひとつに葺き石が淡路から運ばれたと言うのがあります。伝承としてもそうなっていたのですが、もらったパンフレットにも、

一番下の段の葺石は付近のおのですが、上二段の葺石は分析の結果、淡路島の東側の海岸で産出するものであるのがわかりました。

葺き石の総数は3段で223万個、総重量2784トンとされるそうですが、そのうち半分以上はわざわざ淡路から運ばれていたです。この点について被葬者の勢力範囲が淡路にも及んでいたとの推測が為されているようですが、個人的には逆の可能性も考えています。五色塚古墳に隣接して小壷古墳と言うのがあります。五色塚が円部だけでも直径128メートルもあるのに対し、小壷は直径67メートルの円墳です。

それでもって復元図では、五色塚の堀が小壷の堀とつながっています。素直な解釈としては小壷の被葬者は、五色塚の被葬者の関係者じゃないかです。ただなんですが、二つは近い年代には作られていますが、やや小壷の方が古そうだになっています。つまりまず小壷が先に存在し、後から五色塚が作られたです。地形の制約があったにしろ、小壷を取り込んでしまう形で五色塚が作られたのは不自然ではないかです。たとえば一族関係であるなら、そうはしないのではなかろうかです。

何を考えたかと言うと、五色塚は小壷を最初から取り込むように作られたんじゃないかです。どういう事かと言うと、小壷の被葬者がもともとのこの地の支配者であり、五色塚の支配者がこれを征服したです。新支配者である五色塚の被葬者は、旧支配者の小壷を遥かにしのぐ規模の古墳を作っただけではなく、旧支配者の象徴であった小壷を付属物にしてしまったです。

それなら小壷を壊せば良さそうなものですが、日本史の特徴で旧支配者の建築物でも極力壊さないと言うのがあります。だからこそ、怖ろしく古い木造建築物が今でも残されているのですが、あえて壊さない原動力は祟り信仰にあるとも言われています。だから五色塚の被葬者も小壷は壊さず、取り込む形で権威を示したです。

そうなると新たな支配者である五色塚の被葬者はどこから来たかになりますが、葺き石の産地である淡路の東側ではないかにつながっていきます。出身地の石をわざわざ運ばせて、これを上2段に敷きつめる事により、征服のモニュメントにしたです。小壷にはwikipeiaより、

東側に隣接する五色塚古墳と異なり、斜面には石は葺かれていなかった。

これひょっとしたら、葺き石を剥がしたんじゃないかとも思います。剥がした葺き石は五色塚の下段にも用いられ、天界でも小壷の被葬者は五色塚の支配下に置かれているとの象徴を示したです。五色塚の正面が海に向かっているのは明石海峡支配の象徴でもありますが、母国の淡路に正対している意味もあり、さらには海洋部族の神殿の意味も含ませたです。

もちろん私の想像と言うより妄想です。


被葬者の一族のその後

被葬者が特定できないのに、その一族がどうなったかなんてわかるはずもないのですが、ヒントらしきものはあります。五色塚古墳日本書紀にも登場してきます。まず日本書紀の話は、仲哀天皇神功皇后が絡んでくるものです。神功皇后三韓征伐は有名ですが、旦那である仲哀天皇はこれに反対したとなっています。反対した仲哀天皇は天罰が下って死んだ事になっています。

その後に神功皇后三韓征伐に成功し、帰国してくるのですが、仲哀天皇の跡目争いが勃発します。日本書紀では三韓征伐後に神功皇后が生んだ応神天皇が即位する事になるのですが、これに反対する他の皇子である香坂王と忍熊王明石海峡待ち伏せして神功皇后を打ち取ろうとしたとの話です。明石海峡に兵力を集結させる理由として、仲哀天皇の墓を作ると言う明目とし、葺き石を淡路から運ぶために船(軍船)を集める口実としたです。

五色塚古墳は策略のために作られた仲哀天皇の偽墓であると言うのが日本書紀のお話です。


今日は深くは触れませんが、神功皇后も、仲哀天皇も実在が非常に疑われる欠史八代の人物です。にもかかわらず神功皇后日本書紀では大きく取り上げられています。これは日本書紀成立の目的である、持統−文武ラインのためとされています。簡単には「持統 = 神功」であり、「文武 = 応神」です。

ここで注目しておきたいのは日本書紀の成立は西暦702年であり、五色塚より200年ばかり後の話になります。もし五色塚を作った一族が健在であれば、偽墓話なんか作れるはずもありません。日本書紀が書かれる頃には五色塚を作った一族は既に滅亡しており、さらに誰が作ったのかも不明になっていたとするのが妥当かと思います。

そうなると西暦500年頃にあれだけの古墳を作った一族は、かなり早い時期に滅亡してしまったと考えるのが妥当です。残っていたのは地理的にも目立つモニュメントだけになっており、それだけは有名だったので藤原不比等日本書紀を作るに当たって利用したです。


あえて私の妄想から話を展開させれば、淡路の征服部族は五色塚を作るぐらいに猛威を揮ったものの、あれだけの大古墳を作ったことで被征服部族の反感を買い、埋葬者の次代かその次ぐらいには撤退せざるを得なくなったのかもしれません。それとも壬申の乱で天智側(大友皇子側)に味方し、天武天皇に壊滅させられたのかもしれません。

説としては壬申の乱の方が面白くて、そういう史実を踏み台にして香坂王と忍熊王の話にしたです。敗者のモニュメントですから、どうにでも利用できるです。


感想

やっぱり歴史は現地に行くのが良いですねぇ。ネットは便利ですから、文献や画像、地形の情報は豊富に手に入りますが、やはり現地を見ると言うのは全然違います。現物を見ると、色んな事が頭に浮かびますし、それをあれこれ考えるのは本当に楽しいです。最近は出無精がひどくなっていますが、もう少し出歩いて実際の文物を見るをやってみたくなりました。足もかなり良くなりましたから、またどこかに出かけてみたいと思っています。

それと明日は事情により休載にします。悪しからず御了解下さい。